第171話 踏み出す勇気


 金曜日の午後。


 通院日のため、母親の明日香と共に夏城総合病院に来ていた亜梨明は、診察が終わると「ちょっと寄りたいところがあるから」と言って、会計と薬の受け取りを全て母に任せて、時間外出入口がある方へと向かった。


 病院の外に出ると、裏庭を通って、薄暗い雑木林の道に出る。

 湿っぽい土の匂いの小道を歩けば、白いペンキの禿げた手すりと階段が見えた。


 少し長い階段は、三分の一程上ったところで息苦しさが出て咳き込むが、亜梨明はそれでもこの上にある丘を目指し、上りきった。


 病院の敷地内の小さな丘――。

 夕暮れが近付く、薄紫と黄色の空の下には、銀色のアーチと白くて丸い石がポツンと置かれている。


 めったに人が訪れることが無いどころか、存在すら気に留める者が少ないであろうこの丘は、亜梨明にとって特別で、忘れられない思い出の場所だ――。


 亜梨明は石の前まで近付くと、そのまましゃがみ込んでそれを撫で、心の中で懸命に祈りを唱えた。


 *


 病院から帰る車の中。

 亜梨明と明日香は、診察時に主治医の南條先生に言われたことについて、話し合っていた。


 ここ最近の体調の変化を伝えると、南條先生は、ゴールデンウィーク中にもう一度検査入院をして、三月よりも病状が悪くなっていれば、今後は内科的治療だけでなく、根治手術も視野に入れていくと説明した。


 亜梨明は南條先生に、症状が悪くなり過ぎると手術に挑めないが、良すぎてもリスクの高い手術に挑むのは危険な為、常に体調の変化に気を付けて欲しいと言われた。


 そして、この近辺でその手術の実績がある医師はいない為、他県に渡って手術してもらうとも……――。


 亜梨明は爽太の手術を執刀した、高城医師の名前を出したが、南條先生は「希望であれば連絡はしてみるけど、高城先生の治療を求める患者さんは、国内だけじゃなく海外にもたくさんいるし、その中で先生が最優先で治療が必要と判断しないと、なかなか予約は取れないから難しいね……」と、言った。


「――……でもまぁ、今日は学校も行けたし調子よかったし、手術はまだまだ必要ないかもしれないね!」

「突然一気に悪くなる可能性もあるって言われたでしょ?少しでもおかしいと思ったら、我慢せずにちゃんと言うのよ」

「はーい」

 後部座席に座る亜梨明は、バックミラーに映る母親の不安そうな目を見て、ふぅ……と、ため息をついた。


「(そんなに心配されると、こっちまでもっと心配になっちゃうよ……)」

 喉元まで這い上がってきた言葉を飲み込んだ亜梨明は、なるべく母の顔を見ないよう、車窓の外へと視線を移す。


 窓を開けると、甘い桜の香りを纏った暖かい風に、亜梨明の長い髪の毛がふわりと揺れた。


 今年は去年の今頃よりも、少し気温が高い。

 桜並木の前をはしゃぎまわって遊ぶ子供達の中には、四月だというのに半袖になっている子もいて、アスファルトに積もる桜の花びらをすくって空中に投げ、キャーキャーと叫び声を上げていた。


「(あれから一年か……)」

 あっという間に過ぎ行く時の流れに、亜梨明は自分だけついていけていない気になった。


 カーナビの上部に映る時刻を見ると、爽太が以前家に見舞いに来た際、部屋に時計が無いと指摘されたことを思い出した。


 時計は昔から嫌いだった。

 時計を見ていると、同世代の子供達は、時の流れと共に心も体も成長して、前に進んでいるのに、自分は時間だけ流れて、何もできずに置いていかれているような気持ちになった。


 そういえば、この話も前に爽ちゃんに話をしたっけ、と亜梨明が思い出していた時だった。


「僕が、亜梨明を引っ張っていくよ」

「…………!!」

 亜梨明の耳に、あの日の爽太の声が蘇る。


「置いて行かれるのが心配なら、僕は引っ張って連れていくから。いつか、亜梨明が元気になって、「しょうがない」なんて思わなくなるまで……――」

「(あっ……!)」

 この時、亜梨明はあることに気付いた。


 爽太といつまで経っても仲直りできないのは、自分自身が自ら解決しようとせず、立ち止まったままだからだということに――。


 仲直りがしたい。話がしたい。触れたい。また一緒に笑い合いたいとだけ願って、バレンタインの日からそこに立ち尽くしたまま、爽太が迎えに来てくれるのをぼんやりまっている。


「(こんなんじゃダメ……!爽ちゃんに甘えてばかりじゃ、いつまで経っても私は置いていかれたまま成長しない……!私が自分で、爽ちゃんを迎えに行くような気持ちにならなきゃ、仲直りなんてできなくて当たり前だ……!)」

 祈っているだけでは願いは叶わない。


 願掛けはあくまで、勇気を奮い立たせるもの。

 この苦しい状況を変えたいなら、まず自分から踏み出さなきゃ!


 そう決心した亜梨明は、強い想いを瞳にみなぎらせ、ガラスに映る自分をキュっと睨みつけた。


 *


 翌週、月曜の朝。


 亜梨明は緑依風達に「私、爽ちゃんに自分から会いに行こうと思う!」と、決意を表明した。


「おおーっ!遂に仲直りの時が来たんだね!」

 三組に遊びに来ていた星華は、「早速日下呼んでこようか?」と提案したが、亜梨明は「ま、まだ心の準備が必要だから!覚悟決めたら後ろについててくれる?」と止めた。


「――私は、仲直り反対……」

 緊張を落ち着かせようと深呼吸をしていた亜梨明に、奏音が低い声で言った。


「……なんで?」

 不服そうな顔をする奏音に、亜梨明もムッとしながら聞いた。


「もういいじゃんあんなやつ……。どうせ、仲直りしたってまた浮ついた言葉で期待だけさせて、あんたを傷付けるだけだよ。クラスも分かれて清々してたのに……」

 爽太への嫌悪感を露わにする奏音に、緑依風、風麻、星華の三人は、表情を強張らせながら亜梨明の反応を伺うが、亜梨明も負けじと奏音を見据えて、「私は、爽ちゃんと仲直りしたい!」と、拳を握り締めながら言った。


「――あっそ!勝手にすれば!?私はもう、日下の顔も見たくないけどねっ!」

 奏音はそう言い捨てると、ガンッと、乱暴にドアをスライドさせて開き、教室を出て行ってしまった。


 奏音が去っていった途端、オロオロと動揺する亜梨明。

 緑依風は、追いかけようとする亜梨明に「私が行くよ」とそっと声を掛け、奏音が向かった方向へと走り出した。


 奏音は、音楽室付近の壁の角を見入るように佇んでおり、背後に緑依風の気配を感じても振り向かない。


「奏音……」

「………」

 緑依風に呼ばれても、奏音はだんまりを決め込むが、緑依風はそのまま彼女の背に向かって、「……ねぇ、奏音に知って欲しいことがあるの」と、先週の爽太とのやり取りを語り始めた。


 *


「――……それ、本当……?」

 緑依風から話を聞いた奏音はようやく振り返り、事の詳細を求める。


「うん。でも日下は、風麻の気持ちも知ってて、自分はこれ以上二人の邪魔をしたくないから、諦めるって言ってた」

「…………」

「風麻も日下の気持ちを知ってて、亜梨明ちゃんが必要としているのは日下の方だからって、身を引こうとしてる……。でも今のままじゃ、日下はきっと亜梨明ちゃんに「好き」だなんて伝えられない……。日下は亜梨明ちゃんに自分がしたこと、すごく反省して後悔してる。それはついこの間のことじゃない……多分、バレンタインからずっと……。亜梨明ちゃんや風麻、奏音に悪いことをしたって、自分を責め続けてる。だから……――?」

 ――と、ここまで語ったところで、緑依風は奏音がはくはくと口を動かし、カッと見開いた目を赤くしていく様子に気付く。


「……わた、しの……せいだ……」

 そう言って、奏音は胸元のスカーフをぎゅっと握り締め、大きな瞳に涙を溜めていく――。


「緑依風……っ、ごめんなさい……!こんなに長引いたの、私のせいだ……!わたし……日下に、いっぱい酷いこと言っちゃったの……!」

 奏音は懺悔するように声を絞り出し、背中を丸めて小さくなる。


「日下のこと、悪者だって決めつけて、もう関わるなって……!!」

「えっ――?」

「亜梨明のこと守ることに必死でっ……!日下はどうせ、この先も亜梨明のことを好きにならないって思い込んで、坂下の応援するって言う緑依風のことを、ただ「苦しいならやめればいいのに」なんて考えてたけど……!私がっ、遠回しに緑依風のことを一番、苦しめてたのかも……っ!」

 ぽた、ぽた……と、奏音の足元に水滴が落ちていくと、緑依風は彼女をふわりと抱きしめて、後悔に震える背中をゆっくり撫でてあげた。


「……ごめん、ごめんね緑依風っ……。私があんなこと言わなければ、きっともっと早く亜梨明と日下は仲直りできてたし、緑依風にだって、坂下のことでずっとしんどい思いさせなくて済んだのに……っ!」

「奏音の気持ちはわかるよ……。私だって、妹達が誰かに傷付けられたら、奏音と同じようにその人のこと悪者にしか見えなくなるよ……。私は大丈夫……。だから、亜梨明ちゃんの仲直りに賛成して、日下のこと許してやってね……」

「うん……っ!」

 奏音は、緑依風の背中に腕を回して抱きしめ返し、ひぐっ、ぐずっと嗚咽を漏らしながら、彼女に許されたことと、その優しさに感謝していた。


 二人が体を離し、奏音が濡れた顔を手で擦っていた時だった、「大変っ!」と、星華が珍しく焦るような声を発しながら、走ってやって来る。


「奏音っ!早く来てっ!!亜梨明ちゃんが、心臓バクバクして苦しいって……!」

「!」

 三人が教室に戻ると、亜梨明は椅子に座って身を縮こませており、風麻が「大丈夫か……?」と、心配そうに声を掛けていた。


「亜梨明……っ!」

 奏音が、亜梨明の周りに集まるクラスメイトを掻き分けて、姉の元へと駆け寄ると、亜梨明は「あは……緊張、しすぎた……かな?」と、青白い顔に玉のような汗を浮かべながら、弱々しい笑みを浮かべる。


「ドキドキから、バクバクになっちゃって……」

「――――っ!」

 緊張だけではない。

 自分が感情的になって怒鳴ったせいで、余計に亜梨明の心身に負荷を掛けたせいだと、奏音が唇を噛み締めると、「とりあえず、保健室だよな!」と風麻が言い、緑依風も「風麻、運んであげて!」と頼み、風麻が亜梨明の背に触れようとする。


「うごかさないでっ――!!」

 亜梨明が叫ぶように訴え、風麻も緑依風達も驚いて固まる。


「ごめ……っ、でも……今動くと、余計に気持ち悪くなりそう、なの……っ。落ち着いたら、自分で歩く……から、奏音……っ」

 亜梨明が奏音の右腕の袖をすがるように掴むと、奏音はその手に触れてこくっと頷いた。


「……うん、私が行く、私がついてる……。坂下ごめん……このまま様子見させて」

「わかった……」


 *


 しばらくすると、胸を押さえ、はぁはぁと荒い息遣いを繰り返していた亜梨明の呼吸がゆっくり静かになっていき、そこから更に数分経って「もう大丈夫……」と彼女は顔を上げて、周囲に発作が治まってきたことを告げた。


 そのタイミングで予鈴も鳴り、梅原先生が教室に入ってくると、奏音は亜梨明を支えながら立ち上がらせ、保健室に連れて行きたいと願い出た。


 奏音に付き添われ、廊下に出た亜梨明は、ズズッ……と、擦るように少しずつ足を前に出し、数歩進んでは立ち止まり、また少し進んでは奏音の腕にしがみついて休む動作を繰り返している。


「さっきは、ごめんね……」

 奏音が先程のことを謝ると、亜梨明はクスッと息を漏らすように笑って、「奏音は、私のこと好きすぎ……」と言った。


「妹に好かれるのは、嬉しいけど……ちょっぴり、心配になっちゃう……」

「人の心配より、今はあんたが……」

「うん……。――ねぇ、奏音。私……爽ちゃんと仲直り……する、けど……わたし、だけ……じゃない。奏音、も……奏音にも爽ちゃんと、仲直り……して、ほしい……。みんな、と……っ、また前みたいに……ろく、にんで……」

「する、するから……っ!もうあんま喋んないで……!余計にしんどくなっちゃうから――!」

 奏音が今にも泣き出しそうだというのに、亜梨明は奏音の言葉を聞いた瞬間、「ホントに……?」と、嬉しそうに微笑んだ。


「うん、嘘じゃない。私も日下と仲直りする……!」

「よかった……」

 亜梨明はホッとしたようにそう言うと、再び足を床に這わせて一歩前へと進む。


「――でも、今日はちょっと……無理そう……。また、明日言いに行くよ……」

「……うん」

 その後も亜梨明は、何度も立ち止まり、咳き込み、時には崩れそうになりながらも、保健室まで自分の足で歩いた。


 奏音は、本当は立っていることすらも難しい状態の亜梨明が、自分と二人きりで話すために風麻の手を借りなかったのだと悟り、目の奥から込み上げるものが零れてしまわぬように気を付けながら、姉の細い体を支え続けた。


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