第170話 人を好きになること


 夕方――。

 部活を終えて帰宅した爽太は、制服のネクタイを片手で解きながら、机の上に置いたスマホに手を伸ばした。


 緑依風からの通知が一件届いており、彼女からのメッセージを確認する。


 ◇◇◇


 昼休みはゴメンね……。


 あの時の質問についてのことなんだけど、誰かを好きになる時の感情は、人それぞれ違うと思う。


 でも、日下の言っていたような気持ちは、恋をしていればよくあることだよ。


 ◇◇◇


「…………」

 メッセージを読み終えた爽太は、『ありがとう。もう少し考えてみるよ』と短い返事を送ると、着替えもまだ途中だというのに、ベッドに仰向けで寝そべり、交差した腕を額の上に乗せて目を閉じた。


 “考えてみる”と返したものの、爽太の中で“亜梨明に恋をした”というのは、ほぼ確定だった。


 しかし、あんな風に彼女を傷付けてしまった負い目から、もっと真剣に考えてから答えを出そうと、結論を先延ばしにしている。


「(今ならはっきりわかるよ……。僕が亜梨明に執着していた理由……)」

 亜梨明の力になりたいと、誰も寄せ付けない気持ちでその行動をしていた訳。


 確かに、最初に近付いたのは同情と仲間意識からだ。


 しかし、もっと喜ぶ顔が見たいと思ったのは、きっと亜梨明に好意を持っていたからだ。


 亜梨明と距離ができてから、爽太は初めて彼女が他の男子と話すことに嫉妬した。

 初めて、亜梨明に近付くことが怖くなった。

 初めて、今まで自分がしてきた行いが残酷だと思った。

 奏音の怒りに触れた時、全てその通りだと思った。


 自分の代わりに亜梨明に寄り添うようになった風麻を見て、彼も同じく亜梨明が好きなのだと知った。


 そんな自分に、もう亜梨明に近付く資格は無い。


 後悔の念が、爽太の胸を重く、ゆっくりとし潰しながら沈んでいく――。


 *


 翌日。

 爽太が下校しようとすると、中庭の石段で一人で座る緑依風を見つけた。


「松山さん」

 爽太が声を掛けると、緑依風の目は赤く腫れて、濡れていた。


「あ、日下……」

 緑依風は手に持っていたハンカチで顔を拭くと、少し恥ずかしそうにへにゃりと顔を歪めて、下を向く。


「泣いてるの?……風麻は?」

「さっき、ケンカしちゃって……。先に帰ったんじゃないかなぁ……」

「泣く程のケンカなんて珍しいね……。理由、聞いてもいい?」

 ぐずっと鼻を鳴らす緑依風はまだ涙声で、気になった爽太は、そっとケンカの原因を尋ねてみた。


「まぁ……、その……大したことじゃ、無いんだけど……」

 そう言って、自分の顔色を伺うように、答えることを躊躇う彼女を見て、爽太の脳裏にあることが浮かぶ――。


「もしかして、亜梨明のこと……?」

「…………」

 緑依風は何も言わなかったが、その沈黙が答えになった。


「隣、座っていい?」と爽太が聞くと、緑依風は少し端に寄って「どうぞ」と言った。


「昨日は、ありがとう……」

「うん、どういたしまして……」

「……僕、今まで誰かのことで、こんなに思い悩むことなんてなかった……。バレンタインで亜梨明の告白を断った後も、僕にとっての亜梨明は、同じ苦しみを分かち合える友達だって……そう、思ってたんだ。――でも、そんな表現が似合わないくらい、亜梨明と一緒にいられないことが辛くて……話せない日々が寂しくて……どうしてかなって、いっぱい考えたら……――もしかして、これが“好き”っていう、気持ちなのかなって……思ったんだけど……」

 爽太が反応を求めるように緑依風の横顔を見つめると、彼女は静かに頷いて「そうだと思うよ」と、彼の出した結論を肯定した。


「ねぇ、風麻も……僕と同じ気持ちだよね……」

「うん……」

 爽太が俯きながら聞くと、緑依風もキュっと膝を抱え、伏せた瞳を揺らめかせる。


「自分の気持ちを理解した時、風麻の気持ちにも気付いたんだ……。僕は、亜梨明だけじゃなくて、風麻のことも、ずっと嫌な気持ちにさせてたんだね……」

「同じ人を好きになったらみんなそうなるよ。日下だって、今そうでしょう?」

「うん……。――でも、もういいんだ……」

「え?」

 顔を上げた爽太は、全てを諦めたような顔をしていた。


「僕はもう、亜梨明に近付くのをやめるから……」

「なんで……?」

「亜梨明を振り回して、突き離した自分だけでも嫌気がさしてるのに、今度は友達のことを邪魔するなんて……」

「そんな……亜梨明ちゃん、今も日下のこと好きなんだよ!?日下とまた仲良くなりたいって、ずっと願ってるんだよ!!?」

 緑依風は爽太の肩を掴みながら説得したが、爽太は「その方が、きっといいんだよ」と、拒み続けた。


「松山さんだって……風麻のことが好きなのに、どうして風麻の恋を応援してるの?」

「……っ!」

 爽太に矛盾した行動を指摘された途端、緑依風はカッと顔を赤くし、彼の肩から手を離す。


「――わ……私は、風麻に……なんとも思われてないから……」

「今も好きなのに?自分がしんどいのに?その応援は、何の意味があるの……?」

 緑依風は悔しそうに歯を食いしばると、喉奥から絞り出すように「わかってるよ……」と言って、スカートの裾を握り締めた。


「自分でわかってる、こんなことしても余計にしんどくなるだけなんて……。自分の本当の気持ちを言わないのも、風麻の応援をするって決めたのも、結局はただの綺麗事で自己満足なんだ。……諦められないのに、そうやってる自分の方が、嫉妬してもがく自分よりカッコよく見えるから……」

「そんなの、僕だって同じだよ……」

「……ごめん。私、日下に偉そうに言える立場じゃないね……」

「いや……。こっちこそ、ごめん……」

 二人はしばらく黙ったまま、目も合わさずにその場にとどまった。


 春風が草木を僅かに揺らして、グラウンドからは、野球部の掛け声や練習する音が聞こえてくる。


「そろそろ帰ろう……」

 爽太が立ち上がった。


「うん……」

 緑依風も彼に続いて立ち上がり、分かれ道まで一緒に帰ることにした。


 *


「……じゃあ、私はこっちだから」

「うん。……松山さんと話せてよかった。今日はありがとう……」

「……――待って!!」

 爽太が歩き出して間もなく、緑依風が叫ぶように引き留める。


「日下……お願い、これだけは忘れないで……」

「え……?」

「……亜梨明ちゃんの気持ちは、あの日から全然変わらないからね……!!」

 緑依風自身も、もう風麻を応援したいのか、亜梨明を応援したいのか……。

 それとも、自分のためにこんなことを言っているのかは、わからない。


 ただ、爽太の中に、亜梨明の一途で健気な恋心を、しっかりとどめておきたいことだけは明確だった。


 爽太は、ふっ……と、泣き顔なのか笑顔なのか曖昧な表情を浮かべた後、「ありがとう……」と言って、緑依風に背中を向けた。


 *


 一人になった緑依風は、爽太のこと、亜梨明のこと、風麻のこと――そして、どこにも根を張らず、ふわふわとみんなの周りを漂うだけの自分の本心について考えながら歩いていた。


「あ……」

 自宅が見える道まで辿り着くと、家の門の前で一人先に帰っていたはずの風麻が待っていた。


「遅かったな……」

 松山家の外壁に預けた背中を離し、風麻が言った。


「……日下と、話してた」

 緑依風は鞄を握りしめながら、ゆっくりと彼に近付いた。


「さっきはごめん」

 風麻が謝った。


「私こそ……。風麻の気持ちを考えてなかった……――」


 *


 それは終礼の直後のことだった。


 前日の昼休みからずっと不貞腐れた態度の風麻に、緑依風が昨日亜梨明と何かあったのかと尋ねる。


 風麻は、亜梨明と何があったのかは説明しなかったが、「俺……もう、相楽姉を好きでいるのやめる」と言った。


「え……?」

「――だから、もうあいつのこと好きでいるのやめるって言ったの!続けてたって無駄だってわかったからな……」

「なんで……?」

 緑依風としては、自分と比べると彼の恋はまだ始まったばかりで、こんなにあっさりやめてしまうなんてもったいないと思ったのだ。


「そんな、無駄なんて決めつけて諦めるの早すぎるよ……。もっと頑張ってアピールしたら、きっと気持ちが届くよ!私、上手くいくようにもっと協力――……」

「やめてくれってっ!!」

「――――っ!!」

 緑依風は励ましたつもりだったが、風麻にはそれはかえって重荷にしかならず、怒鳴って緑依風の言葉を遮断する。


 風麻の剣幕に気圧けおされた緑依風の目に涙が溜まっていくと、風麻はハッと冷静さを取り戻した。

 ――だが、この時の彼には謝ることも、慰めることもする余裕なんて無く、その場から逃げるように走り去っていったのだ。


 *


「うちに寄らないか?」

 沈黙の後、風麻は親指で自分の家をさした。


 風麻の部屋に招かれた緑依風は、鞄を置いて、彼と並んでベッドに座る。


「爽太……悩んでるんだろ?」

「え?」

「爽太の気持ちが変わってきたことぐらい、俺にもわかる……。あいつら、やっと両想いになれたんだ。そこに割り込んだって、そこから相楽姉を振り向かせようと足掻いたって、野暮だし無駄ってだけだ……。だから俺は、相楽姉を諦める……」

「風麻……」

 亜梨明への恋心を自ら手放す決意をした風麻の姿は、緑依風が今まで見たことないくらいに悲しくて、切ない――。


 そんな彼の心情が伝わり、緑依風も自然と表情が暗くなると、自分と同じくらいしょんぼりとした幼馴染の様子に気付いた風麻は、「なんでお前がそんな顔するんだよ」と茶化すように笑って、緑依風の頬を引っ張った。


「やめてよ」

 怒った緑依風は風麻の手を振り払い、少しむくれながらそっぽを向いた。


「はぁ……人を好きになるのって、本当に大変だな……」

「それは同感……。恋って、楽しいだけじゃなくて、しんどい時の方が多いもんね……」

 緑依風がそう言うと、ぽすっと、風麻が緑依風に倒れこんできた。


 そのままグリグリと頭を彼女の肩にねじ込むように動かし、小さい子供が甘えるように、ぴったりと緑依風に寄り添う。


「ちょ……ッ、ちょっと何――ッ!!?」

 困惑した緑依風が、裏返った声で風麻を反対方向に押して離した。


 横向きになってベッドに倒れた風麻は、力無い声で「ケーキ……」と言った。


「は?」

「お前のケーキが食べたい……。悲しくなったら、ケーキ食べたくなった……」

「え、作ってないし……」

「無いのかよ〜……」

 掛け布団に顔を埋めながら「腹減ったぁぁぁ~!!」と項垂れる風麻。


 見兼ねた緑依風は、「わかったよー!ちょっと待ってなさいよ!」と言って、通学鞄を置いたまま、一度自宅に戻った。


 五分後、緑依風は廃棄処分となった焼き菓子をいくつか持って、再び風麻の部屋に戻って来た。


「ホラ、焼き菓子で昨日で期限切れたけど、食べれるやつ!」

 屍のようにそのままの体勢をキープしていた風麻の顔の前に、緑依風はマドレーヌを一つ置いた。


「やったー!!サンキューーーー!!」

 マドレーヌを目にした途端、ガバッと起き上がった風麻は大喜びで袋を開け、あっという間にマドレーヌを食べ切った。


 彼はその後も次々に袋を開けて、緑依風の持って来た焼き菓子を頬張っていく。


「ちょっ、ちょっと、太るよ!?」

 五つ目のお菓子を食べ始める風麻を緑依風は止めるが、風麻は「明日部活で消費するから平気」と、口をモゴモゴさせながら、片手に六つ目の焼き菓子を手にして言った。


「やけ食いタイプなのね、あんた……」

 緑依風は二口目のフィナンシェを口にしながら、風麻が早く元気になるよう祈った。


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