第169話 もしも魔法が使えたら(後編)
四時間目の授業が終わってガヤガヤと賑わう、昼休みの二年三組。
緑依風が、お弁当を食べ終わった後に亜梨明の様子を見に行こうかと奏音と相談していると、風麻がそっと教室を出て行く姿が視界に映った。
「あ、坂下!」
奏音も気付いたようで、廊下に出た風麻を追いかける。
「どこ行くの?亜梨明のとこ?坂下が今から行くなら私達も行く?」
「うん、そうだね。あ、ちょうど私達も、ご飯食べてから行こうって話してたところで……――」
緑依風が風麻に説明しようとしていると、「悪いけど」と、風麻は緑依風の言葉を遮り、固い表情で一呼吸置いた。
「一人で行かせてくれないか?相楽姉に二人で話したいって呼ばれてるし、俺もあいつに話したいことがある」
いつになく真面目で険しい、風麻の表情――。
まるで大きな覚悟を決めたようなその姿に、奏音、緑依風に緊張が走る。
「……ハッ?何それ?」
奏音が、冷めた笑いをわざとらしく吐く息に混ぜて、風麻に尋ねる。
「いいから一緒に……――」
「奏音」
風麻の横を通過して保健室に向かおうとする奏音の肩に、緑依風が軽く手を置いて引き留める。
「……二人で、お話させてあげよう?」
「えっ?」
奏音が表情を歪ませても、緑依風はそれを見ぬまま、風麻に「行っておいで」と言った。
「……ありがとな」
「うん……」
パタパタと、風麻が小走りで廊下を駆け、亜梨明の元へと急ぐ。
緑依風は、奏音の片腕を押さえたまま、風麻の背を見送った。
「緑依風……っ」
「…………」
奏音が、目をほんのり赤く充血させて、緑依風を見上げた。
「ねぇ、緑依風……本当にいいの?もし、亜梨明の気持ちが変わったら……!」
「変わっていいんだよ……。風麻はそのために一生懸命努力してるんだもん。それを阻止する権利なんて、私に無いよ……」
緑依風は、痛いくらい張り裂けそうな心を抑えるように、胸の前で手を握った。
*
緑依風に見送られ、保健室前にやってきた風麻は、中から柿原先生と共に楽しそうにお喋りする亜梨明の声を聴いて、ホッとしたように短く息を吐いた。
風麻がコンコンとノックをして、「失礼しまーす」とドアを開けて入室すると、亜梨明が上半身を起こして座っており、風麻の声に気付いた柿原先生が「あ、坂下くん」と椅子から立ち上がって、彼のそばへと近付いた。
「あのね、亜梨明さん早退することになったの。一時になったらお母さんが迎えに来てくれるんだけど、これから二人でお話があるのよね?」
「は……はい」
「先生は、少しの間職員室に戻ってるけど、あんまり長い話になりすぎないでね」
亜梨明の体調を心配した柿原先生が、チラリと彼女に目配せすると、亜梨明は「先生、ありがとうございます……」と、ベッドから小さく微笑みながら柿原先生にお礼を述べた。
ガラガラガラ――と、柿原先生が退室するドアの音が保健室に響くと、風麻は一歩、また一歩と、少しぎこちない足取りでベッド横まで辿り着き、丸椅子に腰を下ろす。
亜梨明の話が終わり次第、風麻は募りに募った想いの丈を打ち明けるつもりだ。
ドキドキと脈打つ鼓動と共に、口の中に溜まってくる生唾を飲み込んだ風麻は、自分が座り終えるまで、穏やかな微笑みを湛えながら待つ亜梨明を見つめる――。
「……気分はどうだ?」
風麻が緊張にやや固くなった唇を動かして聞くと、亜梨明は「もう大丈夫。運んでくれてありがとう」と言った。
「奏音達は?」
「一緒に行くって言ってたけど、なんとか一人で行かせてもらった」
「そっか……。また、心配かけちゃったな……」
「――で、話があるんだよな?」
「……うん」
風麻から本題を切り出された亜梨明は、途端に憂いを帯びた瞳になると、その視線を風麻から窓の方へと移し、外の景色を眺め始めた――。
「ねぇ、坂下くん……。もしも、魔法が使えたら何がしたい?」
「魔法?」
全く予想していなかった話題に、風麻は腕を組み、首を傾げる。
「うーん魔法、かぁ~……。――ってか、話ってそれ?」
「そ。……ねぇ、どんな魔法を使いたい?」
亜梨明は視線を風麻に戻し、興味津々な様子だ。
「え~っと、そうだな……“人の心を操る魔法”……とか?」
頭に浮かんだ魔法を風麻が答えると、「あははっ!」と無邪気な笑い声を亜梨明は上げた。
「なんか、悪者が使いそうな魔法だね!」
「悪者……」
風麻が少し眉を曲げると、亜梨明は「でも、私もちょっと前まで、同じようなこと考えてたよ」と言って、また切なさを纏った瞳を揺らす。
「“好きな人が、私のことを好きになる魔法”ってね……」
「…………」
「でも……そんなことしても、その魔法にかかった人は、本当に私のことを好きになってくれた訳じゃないって思ったら、虚しくなってやめた……」
「その人ってのは爽太のことか……?」
風麻が聞くと、亜梨明は目を閉じて「うん……」と頷いた。
「なんかね……この間までは「時間が経てば、また話せる日が来る」って、もう少し前向きに考えてたんだけど、クラスも違っちゃって、会えない日もあって、どんどん
亜梨明はそう話しながら、潤み始めた目元をカーディガンの袖で押さえた。
「……それでね、さっき使いたい魔法が変わったんだ」
「何に変わったんだ?」
「“もう一度仲良くなれる魔法”」
亜梨明の声は真剣だったが、風麻はもっと難しい魔法かと予想していたので、拍子抜けした。
「ふっ……なんだそれ?……そんなの、魔法なんか使わなくても、また仲良くなれるって!まぁ、時間はかかるかもしれないけどさ……」
「その時間が惜しいんだ」
「えっ……?」
風麻の励ましを拒否するように、亜梨明はそう言って、また窓の外へ視線を移す。
「…………」
風麻も、彼女に併せて外の景色を眺めると、校内に植えられた桜の花びらが、風に乗ってひらりふわりと舞っていた。
薄暗い保健室の窓から差し込んだ日差しが、亜梨明の白い肌や髪を照らし、光に透けそうに見える。
そんな彼女の姿は儚げで、神々しくて――……遥か遠くを見つめるような横顔は、風麻が亜梨明に恋をした去年の春を思い出させた。
このまま消えてしまいそうにさえ思える彼女の空気に、風麻は大きな不安が押し寄せ、何か言わなければという衝動に駆られた。
「……もし、爽太と仲直りできて、両想いになれたら?」
咄嗟に出てきた一言。
亜梨明は、「そうだなぁ~……」と、二、三秒掛けて考える。
「……嬉しすぎて、死んじゃうかも」
「おいっ……!」
今言われてはシャレにならない亜梨明の言葉に、風麻は思わず椅子から立ち上がりそうになりなる。
「嘘だよ」
亜梨明はクスクス笑いながら、顔を強張らせたままの風麻を大きな瞳で見つめた。
「……そうじゃなくて、その嬉しいって気持ちだけで、病気を吹き飛ばせちゃうかもしれない。爽ちゃんと一緒にいるだけで、私の幸せパワーは、無限大に溢れてくるから……。だから、そのパワーだけできっと、なんでもできそうな気がするんだ!」
両手をグッと胸の前で握り締めながら、爽太への変わらぬ想いを表明する亜梨明。
そんな言葉を聞いてしまった風麻の中には、もう、“亜梨明に告白する”という決心は、残っていなかった。
「そっか……。そりゃ、早く仲直りしてもらわないとだな!」
風麻はふっと鼻から息を漏らしながら座り直すと、「で、これで終わりか?」とさっきよりもスッキリした顔つきになった亜梨明に聞いた。
「うん、終わり!」
「……これ、俺と二人で話す意味あったか?」
風麻は首を傾げながら疑問に思ったが、亜梨明は「あるよー」と笑っている。
「だって、奏音達とこんなこと話したら、もっと泣いちゃうし、心配かけちゃう!」
「俺には心配かけていいのか?ひでぇやつだ……」
風麻は頬杖をつきながら言った。
「ごめんごめん!こんな弱気でみっともないこと、親にも奏音や緑依風ちゃん達にも話せないけど、坂下くんになら大丈夫だな〜って思ったんだよ!」
亜梨明はまた「あははっ!」と楽しそうに声を上げると、頬杖をついたままの風麻を見て、にっこりと口元に弧を描いた。
「――よし、元気になったみたいだから、俺帰るな」
「ありがとう、坂下くん」
「じゃーなー」
バイバイと、手を振ってくれる亜梨明に、風麻も右手を挙げて振り返し、保健室を出る。
保健室を出た瞬間、風麻は亜梨明のために作っていた笑顔をすぐに消し、そばにある角の壁に背中をくっつけて、大きなため息をついた。
「――くそっ、なんだよ……っ!こんなの、勝負にすらならねぇじゃん!」
悔しさを声にした途端、ジワリと目元が熱くなる。
亜梨明の話が終わり次第、伝えるはずだった『好き』という言葉。
しかし、亜梨明の心を支える源、その全てが爽太にあると悟った風麻の大事な言葉は、もう出口のない暗闇に落ちてしまい、拾うことなどできなかった。
*
その頃――。
弁当を食べ終えた緑依風がぼんやりとしながら水道で手を洗っていると、「松山さん」と、背後から男子生徒の声が聞こえた。
「日下……」
緑依風は水道の蛇口を捻り、ハンカチで手を拭きながら「何か用?」と、爽太に聞いた。
「えっと、その……亜梨明のことが気になって……。松山さんに聞こうかと……」
「それが、私も奏音も様子見に行けてないんだ……」
「え、相楽さんも?」
「風麻が、亜梨明ちゃんと二人で話があるからって言ってて……」
緑依風が胸の辺りが締め付けられるような気持ちで説明すると、「風麻が……」と、爽太も緑依風と同じくらい暗い表情になり、肩を落とした。
「そっか……」
わかりやすすぎるくらいに落ち込む爽太の様子に、緑依風は「あれ?」と思った。
先程の美術の授業でもそうだ。
風麻に対し、仲の良さを嫉妬するような発言をしたり、今もなんだかソワソワしていて、何度も口を開いては真横に結ぶという動きを繰り返していた。
「ねぇ……松山さん」
「ん?」
「恋をしてて落ち込むことってある?」
「え……?そりゃ、あるよ」
「好きな人なのに、見ていて辛くなることも?」
「ま、まぁ……状況によっては……」
爽太の珍しい質問に緑依風がキョトンと目を丸くすると、爽太は「じゃ、じゃあさ……!」と、そのまま一歩踏み出して、堰を切ったように次々と緑依風に質問を始めた。
「好きな人が誰かと話してると、羨ましく思ったり、その人のこと考えると、頭の中がパンクしそうになって、どうしたらいいのか分からなくなったり、息が詰まりそうになったりとか……‼︎」
「お、落ち着いて日下っ!そのっ――……距離、近いです……」
必死に質問をする爽太は、いつのまにか緑依風にぶつかりそうになるくらい詰め寄っていたため、緑依風は爽太の顔がくっつかないよう、両手で壁を作って横を向いた。
我に帰った爽太は、ハッとして二歩後ろに下がった。
「ごめん……」
「もしかして日下、亜梨明ちゃんのこと……?」
緑依風に問われると、爽太は「まだ、わからないんだけど……」と言いながら、胸元の服をグシャリと握り締める。
「でも……――こんなに苦しい気持ちになったのは、初めてで……」
「それって――!!」
「緑依風ー!何してん――……っ!!」
緑依風が爽太の気持ちの正体を告げようとしたところで、手洗いからなかなか帰ってこない緑依風を心配した奏音が、教室から出てきて声を掛ける――が、彼女は緑依風のそばに爽太がいるのを目撃した瞬間、一気に目つきを鋭くし、緑依風の手を取って、彼から親友を引き離そうとした。
「あっ、奏音待って――!!……日下っ、後で連絡するから……!」
「うん……」
緑依風は、奏音に引っ張られながら爽太に告げると、爽太も短く返事をして一組の教室に帰った。
*
親友を強引に教室に連れ戻した奏音は、ガタンと音を鳴らして椅子に座ると、むくれたように緑依風からも顔を逸らして、だんまりとしている。
緑依風が、そんな奏音になんて声を掛けたらいいのかと困っていると、教室の前側のドアから風麻が教室に戻ってきた。
「坂下!」
奏音が立ち上がり、風麻に駆け寄る。
「亜梨明は?」
「おばさんが迎えに来るらしい。今は落ち着いてるよ」
「そう……よかった」
奏音はホッとした顔になり、軽く胸に手を当てた。
緑依風も、亜梨明の容態回復と奏音の機嫌が直ったことに安心し、そっと胸を撫で下ろした――が、安心したのも束の間、今度は風麻も、つい今しがたの奏音と同じくらい不機嫌なことに気付いた。
風麻は、奏音に亜梨明のことを告げるとすぐ自分の席に座って、まだ食べていなかった弁当を荒っぽい動作で鞄から取り出す。
「…………」
「風麻、なんか怒ってる?」
せっかく亜梨明と二人きりで話をしたのに、険しい表情の風麻が気になった緑依風はそっと声を掛けたが、風麻は「腹減ったんだよ……」と、少しぶっきらぼうな口調で答えて箸を取り出し、ご飯を頬張った。
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