第168話 もしも魔法が使えたら(前編)
――キーンコーンカーンコーン……。
授業開始のチャイムが響き渡る廊下で、風麻は少し急ぎ足に――でも、揺らし過ぎないように慎重になりながら、亜梨明を抱えて保健室に運んでいる。
「(……なんか、前よりも軽くなってねぇか?)」
元々、太ることは心臓に負担がかかるからと、小さい頃から気を使っていたらしい亜梨明だが、今の彼女は以前にもまして痩せてしまったような気がする。
二月の出来事以来、食欲も落ちていると緑依風から伝え聞いていた。
「(もう、やめればいいのに……)」
フラれてもなお、想い続けて苦しむくらいなら、いっそ新しい恋をすればいい。
俺を選んでくれればいいのに――。
風麻はそう考えながら、保健室前まで辿り着く。
ドアを見ると、『すぐ戻ります。何かあれば職員室へ』と書かれた札が掛けられていた。
「先生留守みたいだけど、鍵は開いてるっぽいし、寝かすことはできそうだな」
亜梨明を休ませられることに安心した風麻は、彼女を抱えているために塞がっている手の代わりに、引き戸の隙間に足先を入れ、器用に開ける――が。
「……っ、ふっ……っぇ」
「…………!」
突然、風麻の腕の中にいる亜梨明が、顔を覆って泣き始めた。
「どうしたっ……!?ピコ先生すぐに呼ぶから待ってろよ!」
風麻はすぐに亜梨明をベッドの上に降ろして座らせると、急いで職員室にいる柿原先生を呼びに行こうとするが、すすり泣く亜梨明が涙声で呼んだのは、柿原先生でもこの場にいる風麻でもなかった。
「爽ちゃん……っ、そう、ちゃん……っ」
「…………」
ドアに掛けた手を止め、風麻はゆっくりとした足取りで、亜梨明のそばへ戻る。
「先生呼ぶのはもう少し後にするから、泣くならせめて、横になってから泣け……」
「…………」
ぐずっと、鼻を鳴らして頷いた亜梨明は、風麻に背中を向けて横向きで寝転がり、しゃくりを交えて泣き続けた。
*
数分後――。
落ち着きを取り戻した亜梨明は、自分が泣き止むまで丸椅子に座って待ってくれていた風麻に「ごめんね……」と、謝った。
「じゃ……俺、先生呼んでくるから」
「あ、坂下くん待って……!」
保健室を出ていこうとする風麻に、亜梨明は上体を起こしながら引き留める。
「……なんだ?」
「……あとで、もう一回ここに来て欲しいの……」
「え……?」
「坂下くんと、お話したいです……二人、だけで……」
「…………」
亜梨明が濡れた顔を手の甲で拭いながらお願いすると、風麻は少しの間のあとに、「昼休みにまた来る」と告げて、静かに保健室を出た。
*
コーヒーの香りが立ち込める職員室に赴き、柿原先生に亜梨明のことを伝えた風麻は、少しひんやりした日当たりの悪い廊下の階段に腰掛け、そっと目を閉じた――。
「(もう、待っていられない……)」
まだ鼻腔内に微かに残るコーヒーの匂いが、亜梨明と出会った日から今日までの記憶とともに体中を巡り、吐息となって口から出ていく。
亜梨明は今も爽太のことが大好きだ。
でももう、これ以上彼のせいで泣き続け、好きと悲しみの狭間で苦しむ姿を見ているのは、とても可哀そうで胸が詰まりそうになる。
それに、爽太のことも気がかりだった。
今までと同じように、亜梨明のことを親友以上に思えないままなら、まだまだ時間をかけて亜梨明との距離を縮めて行こうと余裕を持てたかもしれない。
――だが、先程の美術室でのやりとり。
爽太の亜梨明に対する感情が、バレンタインの日から変化しているとはっきり感じた。
うかうかしていれば、せっかくの有利だった状況は一気に逆転され、彼に亜梨明を取られてしまうだろう。
嫌だ。俺が最初に好きになったんだ。
友達だろうが何だろうが、後から奪われてたまるか――!!
あいつをあんなに傷付けておいて、そんな簡単に渡すもんか……!!
爽太に負けたくないという気持ちが、ぐるぐる、ぐるぐると渦を巻き、やがて台風のように激しく速度を上げ切った時、風麻は大きな決心をする。
「これが……最初で、最後のチャンスだ」
低い声で自分にそう言い聞かせた風麻は、両足に力を込めてすくっと立ち上がった。
亜梨明を悲しみの鳥籠から連れ出すために。
爽太が奥底に眠る己の感情の正体に気付く前に。
そして何より……――自分自身の熱くて痛い想いを叶えるために。
「(昼休みに伝えるんだ――。相楽姉に、“お前が好きだ”って……!!)」
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