第166話 予兆


「はぁっ……はぁっ……」

 緩やかだが少し長い坂道を上りながら息を切らす亜梨明は、重苦しい胸の圧迫感に顔をしかめ、膝に手をついて立ち止まった。


「(なんだろ、おかしい……。普段なら、このくらいの坂道なんてなんともないのに……)」

 まるで力いっぱい走った時のような苦しさ。


 しかし、今の亜梨明の歩調はゆっくりであって、決して体に大きく負担をかけるようなことはしていない。


 同じ歩調でも、急な傾斜の山道や、長い階段を上っているならこうなるのは納得できる。


 でも今、亜梨明が上っているのは、正面の横断歩道にある信号が余裕で見えるくらいのなだらかな坂だ。


 ここを上りきらないと家には辿り着けず、息が整いかけたところで、亜梨明は再び歩き出す。


「ただいまぁ~……」

 ようやく自宅に到着し、亜梨明は玄関の段差に座り込んだ。


「おかえりなさ――……あら?どうしたの?」

 出迎えた母の明日香は、靴も脱がずに座ったまま動かない亜梨明を見て、不思議そうにする。


「なんか、体育館の片付けで椅子たくさん運んだからかな?帰る途中でちょっと疲れちゃって……。今休憩中……」

 普段以上に疲れる原因がこれしか浮かばない亜梨明は、明日香にそう説明した。


「そう……。ご飯食べたらゆっくり寝て休んでね。奏音は部活紹介のミーティングでしょう?」

「うん。お弁当食べてから、何をするか話し合いだって」

 亜梨明はようやく靴を脱いで、家の中へと上がった。


 *


 お昼ご飯は、あったかいきつねうどんと、スーパーで買ってきた小さないなり寿司だった。


 明日香が好きなお昼のバラエティー番組をBGMに、亜梨明は制服を汚さぬように気を付けながら、柔らかいうどんを口にする――だが、うどんをすすろうとするとした途端、息苦しさに上手く吸えず、プチプチと前歯で噛み切って、酸素を体に取り込む。


「…………」

 うどんがダメならと、いなり寿司に箸を伸ばす。


 ひんやりした甘いお揚げの味が美味しいと感じたが、口の中でモグモグしている最中、また窒息してしまいそうだと思うくらいの苦しみが、亜梨明を襲う。


「……ごめん、お母さん。ご飯残していい?」

「えっ――?」

 番組に出演している芸人のジョークに笑っていた明日香の表情が、一気に心配そうなものへと変化する。


「今はご飯よりも、寝て休みたくて……」

「わかったわ……。病院行く?南條なんじょう先生が外来にいらっしゃるなら、予約外でもすぐ診てくれるかも」

「ううん、そこまでじゃないから。でも、ちょっと寝かせて……」

 亜梨明はそう言って、鞄を手にして二階の自分の部屋へと移動した。


 部屋の扉を開くと、亜梨明の後ろを着いてきていたフィーネも一緒に入室し、バタッとベッドに倒れこむように寝転がる亜梨明の顔の前で、撫でて欲しそうに見つめている。


「フィーネ……。ごめん……あとで、あそぶ……か、ら……」

 指先で、フィーネの首元をそっと撫でながら目を閉じると、亜梨明の意識は何かに吸い取られていくように、すぅーっと遠のいていった。


 *


 白く霧がかった、知らない場所。

 目を開いた亜梨明の瞳に映る世界は、ただ真っ白で、何もない空間だった。


 霧の世界を歩いてみると、そのもやの中に、水色のパジャマ姿の幼い男の子がいる。

 男の子は、小さくうずくまって泣いていた。


 亜梨明がその男の子に駆け寄ろうとすると、男の子と亜梨明の空間の狭間は、透明な壁で遮られており、近付くことができない――。


「――――!!」

 ぱちっと亜梨明が目を覚ますと、いつの間にか部屋の中は薄暗くなっていて、窓から見える空の色は、オレンジ色だった。


 隣で一緒に眠っていたフィーネが目覚めぬよう、ゆっくり体を起こした亜梨明は、帰宅時に感じた不調が消え去ったことを確認し、安心した。


 体の具合がよくなったため、夕食までピアノを弾こうとした亜梨明は、部屋の照明を灯し、ベッドの対面に置いてある電子ピアノの電源をつける。


 透明なクリアファイルに入れていた、自作の楽譜を手にした時、亜梨明はふと、夢の中に出てきた子供を思い出した。


 男の子は亜梨明に背中を向けていたので、顔は見えなかったが、亜梨明はその子供の後ろ姿に、どこか見覚えがあるような気がして、記憶を辿った――が、入退院を繰り返した小児病棟には、似たようなパジャマ姿の男の子なんてたくさんいたし、名前を覚える前にいなくなっていた子供も多かったので、その中の誰かだとはっきり断言できる人物は該当しなかった。


「まぁ、夢だし……いちいち気にすることじゃないよね……」

 亜梨明はそう呟きながら電子ピアノの蓋を開き、椅子に座ってピアノを弾き始めた。


 *


 通常授業が始まった。


 朝のショートホームルームでは、先日クラス分けをするために行われた数学のテスト結果が発表された。


 三組では、緑依風がAクラス。

 風麻、亜梨明、奏音はBクラスとなった。


 選択授業Ⅰでは、緑依風は理科を。

 風麻は社会で、亜梨明と奏音は国語を選択し、選択授業Ⅱの副教科の方は、緑依風と風麻が美術、亜梨明と奏音は音楽を選んだ。


 梅原先生からどの教室に行くか説明された生徒達は、休み時間になるとその話で持ちきりだった。


「私だけ違うクラスか……」

 応用問題を多くこなしていくAクラスに選別された緑依風は、一人だけ分かれたことが不満なようで、ちょっぴり落ち込んでいる。


「お前なぁ……嫌味に聞こえるぞ。Aクラスは頭が良いやつのクラスじゃんか」

 緑依風の言い方に風麻が指摘すると、「数学はどうしても好きになれないんだよねぇ~……」と、奏音が言った。


「……っていうか、基礎だけでもいつも、は?何それ?って感じなのに、そこから応用だなんて、余計にイライラしちゃう」

「私も!さすが奏音、私達双子なだけあって、頭の出来も同じだね!」

 亜梨明がうんうんと頷くと、奏音は「嬉しくない」と、目をジトッとさせた。


「副教科は、やっぱり二人共音楽なんだね」

「まぁ、私達曲がりなりにも音楽やってるからね……。授業内容は歌らしいから、あまり関係ないけど」

「伴奏やらせてくれないかな~?緑依風ちゃんと坂下くんは、絵の方が好き?」

「私は、パティシエールになりたいから。お菓子のデザインを考えるのに美術も勉強しなきゃダメかなって思って」

「俺は歌うのキツいから美術にした。声が低くなってから、高いキーの歌とか音外しまくるんだよ」

「でも、坂下くんの声、去年よりすごくかっこよくなったよ!」

「そ、そうか!?」

 亜梨明に褒められ、風麻の顔が一気に紅潮する。 


「うん。ねっ、緑依風ちゃん!」

「う、うん……。かっこよく、なったと思うよ……」

 亜梨明に誘導されて、緑依風も照れながらそう言うと、風麻はますますニヤける顔を堪えるようにしながら、「な、なんだよ~……。褒めたって俺、なんにも奢らねぇぞ!」と、手を前後にパタパタと動かした。


「奢らないんじゃなくて、お金無くて奢れないんでしょ」

 奏音に事実を突っ込まれると、「ほっとけ!」と、風麻は我に返ったようにぴしゃりと言った。


「あははっ」と、風麻以外の三人が笑う声が三組の教室に響く。

 その様子を、開けっ放しの扉から見た爽太は、ピクッと片目を痙攣させ、重苦しい気持ちに不快感を募らせた。


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