第160話 春雷(後編)


 春休みに入った。

 検査はすでに終わったのだが、亜梨明の容態は未だ芳しくないままで、退院予定が伸びてしまい、修了式には出られなかった。


 今日は男子バレー部、女子バレー部共に、体育館を半分に仕切って部活動を実施しているが、男子は基礎体力向上のために今は外周に向かっており、屋内には軽快なボールの音と、女性の声のみが響き渡っている。


「もっと粘ってくらいつく!」

「はい!」

 コート内では、レシーブ強化の練習が行われている。

 現在は二年生の部員三人が、波多野先生があちこちに投げるボールを必死になって追っていて、その他の部員はボール拾い中だ。


「亜梨明ちゃんはどう?」

 コート外に転がるボールを拾いながら、立花が奏音に聞いた。


「うーん……昼間は割と元気なんだけど、夜になると調子が悪いみたいで、ここ数日あんまり熟睡できないってさ」

「そっか……。心配だね……」

「うん……。体も心配なんだけど、入院期間が長引いちゃったもんだから、昨日会いに行った時は「フィーネに会いたい!連れてきて!」って無茶苦茶言うし、気分転換に院内の庭に散歩に連れて行ってみたけど、「もうこのまま帰っちゃおうかな~」とか言い出すし、退屈しすぎてなんかワガママになってて……――あっ!」

 奏音と立花の目の前を飛んでいったボールが、換気のために開け放たれた扉の方へと転がって、体育館外へと出てしまった。


「ボール拾って来まーす!」

 奏音がボールを追いかけて外に出ると、体育館前を横切ろうとしたランニング中の爽太と鉢合わせした。


「あ……」

 奏音と目が合った瞬間、爽太が足を止める。

 ボールは、彼の靴先に軽く当たってころりと半回転し、動かなくなった。


 爽太はそのボールを拾い「はい」と奏音に渡した。


「……どうも」

 奏音はボールを受け取ると、そのまま体育館に戻ろうとする。


「相楽さん待って!」

「…………」

 爽太に呼び止められた奏音は、無言で振り返った。


「……部活中なので手短に」

 仲が良かった頃とは全く違う、冷たく低い奏音の声。

 爽太の体が緊張に小さく震える。


「あ……そ、その……亜梨明、まだ入院してるって、聞いて……」

「してるよ」

「具合は……?」

「別に普通。……それじゃ」

「ちょっと待って!入院するくらいなら普通じゃないだろ!?本当に、大丈夫なの……?」

「…………」

 背中を向けたままの奏音に爽太は問いただすが、奏音は立ち止まりこそすれど、何も言わない。


「……僕のせい……だよね……」

「………っ!!」

 爽太がそう零した瞬間、奏音の頭の中の張り詰めた糸がプツンと切れた。


「――わかってんなら!!もう、関わろうとしないでよっ!!」

 振り返った奏音は大声で叫び、爽太の胸ぐらを乱暴に掴み寄せる。


「期待だけさせておいて振ったくせに、まだあの子の心を弄ぶ気?中途半端に優しくして突き離すなら、最初から関わらないで欲しかった!!あんたがあの子にとってどれだけ支えになってたと思う!?その支えを失って、今、あの子がどれだけ不安定になってると思う!?あんたは正義のヒーローになったつもりだったかもしれないけど、私にとって、あんたは最低最悪の悪者よ!!もう私達に関わらないで!!近付かないでっ!!」

「――奏音っ!何やってんのっ!!?」

 中々戻らない奏音の様子を見に来た立花が、自分より大きな相手に掴みかかって怒鳴り散らす奏音と、恐怖に顔を引きつらせる爽太の元へ慌てて駆け寄る。


「――許さないっ、あんたのしたこと、私はっ……絶対許さないっっ!!」

「奏音落ち着きなって!日下を離してやって!!」

「――――っ!!」

 荒い息を立て、鬼のように赤く険しい形相の奏音の瞳から、ツーっと涙が流れて頬を伝って行く――。


「…………」

 グッと歯を食いしばった奏音は、爽太のジャージを掴んでいた手から力を抜くと、落としたボールを拾い直して、体育館の中に入っていった。


 爽太は解放されても微動だにせず、抜け殻のように茫然としている……。


 立花は、奏音の姿を追っていた視線を爽太に移すと、固まったままの彼を憐れむ様に見つめて、肩を落とす。


「……奏音の言葉はキツかったかもしれないけど……でも同情や自己満足で、亜梨明ちゃんに接するのはもうやめた方がいいよ。あの二人のためにも……日下自身のためにも……ね」

 立花はそう忠告すると、立ち尽くしたままの爽太からそっと離れて、体育館へと戻っていった。


 *


 夕方――。

 部活を終えた奏音は、一人夏城総合病院へと赴き、亜梨明の病室のドアを開ける。


 夕日色に染まった病室のベッドの中では、亜梨明がスースーと寝息を立てて眠っていた。


 奏音がパイプ椅子を広げて、亜梨明が眠るベッドの横に座ると、閉じられていた亜梨明の目がゆっくりと開いていく――。


「あれぇ……?いつ来たの?」

「たった今。どう?昨日より調子良い?」

「うん、今日はかなり良い方。だから春休みの宿題してたんだけど、問題解いてたら眠くなっちゃって……ふわぁ~……」

 亜梨明は、大きなあくびをしながらグンと両腕を天井に突き上げ、背伸びをする。


「今度は夜眠れなくなるよ?」

「そうだね〜……でも、最近中々眠れなかったから、お昼寝気持ちよかったよ……はわぁ~……」

 二度目のあくびを片手で押さえながら、亜梨明はテーブルの上に広げっ放しの数学のドリルを反対側の手で閉じ、まだ重い瞼をパチパチと動かして、目を覚まそうとした。


 すると、奏音がズズっと椅子をベッド側に寄せて亜梨明に詰め寄り、そんな妹の行動に、亜梨明は「?」と不思議そうに首を傾げる。


「ねぇ、亜梨明は私のお姉ちゃんだよね?」

「うん、一応先に生まれたからね」

「……頭撫でて」

「ん?」

 亜梨明はよくわからなかったが、奏音の頭をそっと撫でた。


「もっと」

「ん〜?」

「…………」

 奏音はそのまま亜梨明の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。


「なぁに?今日の奏音は甘えん坊?」

 亜梨明は久しぶりに奏音が甘えて来たことを嬉しく思ったのか、点滴が付いていない方の手で、先程よりさらに強めに頭を撫でた。


「奏音って、時々すごく甘えん坊になるよね~」

「……双子だけど妹だもん。お姉ちゃんに甘えるのはおかしい?」

 奏音が亜梨明の肩口に頭を埋めたまま言うと、「ううん、そうじゃないけど~」と、亜梨明は妹の頭をゆっくり撫で続ける。


「こういう時の奏音って、嫌なことがあった時とか、怖いことがあった時でしょ?……部活で何かあった?」

「……ちょびっとね」

 奏音が言うと、亜梨明は「そっかそっか」と奏音の背中に腕を回し、今度はポンポンと背中を優しく叩いた。


 夕焼け空に、黒い雲が集まってくる。


 黒雲は次第に町全体を覆いこむと、夜には激しい稲光を放ち、雷鳴を響かせた。

 低く、唸るようにとどろくその音は、まるで何かに共鳴するように、夜明け前まで続いた。


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