第159話 春雷(前編)


 三年生が卒業して一週間が経過した。

 在校生は、二年生と一年生だけとなり、登下校の際に賑わう下駄箱や廊下なども、先週と比べると随分静かに感じて、校舎の中がなんだか少し寂しい――。


「おっはよ~!!」

 一年一組の教室に、空上星華の元気な声が響いた。


「おはよ」

 緑依風と談話していた奏音が挨拶を返すと、それに続いて緑依風も「おはよう」と星華に言った。


「あれ……亜梨明ちゃん、休み?」

 友達が一人足りないことに気付いた星華が、キョロキョロと辺りを見渡す。


「あぁ……実は、昨日の夕方から入院してるんだ」

「入院っ!?」

 星華が大声で叫ぶと、他の生徒達の視線が一気に三人の元へ集中する。


「だっ、大丈夫なの?」

 星華と同じように、教室のあちこちにいるクラスメイトも、心配そうな様子で聞き耳を立てている。


「あ~……大したことないよ。一応……。ちょっと最近、不整脈とか動悸を起こす回数が増えてるから、念のため検査ついでに落ち着くまで入院しようってだけ」

「だけって……」

「毎年この時期はよくこうなるの。ほら、最近いきなり夏かっ!って言いたくなるくらい暑くなったり、今度は冬みたいな寒い日があったりでしょ?亜梨明の体は、こういう季節の変わり目にも弱いから、家族も亜梨明も慣れてるっていうか……」

「んん~っ……まぁ、家族がそういうなら、そんなもんなのか……」

「そうそう、去年もそうだったでしょ?それで、入学式にも出れなかったわけだし……」

「確かに……」

 星華はまだ怪訝な表情を浮かべたままだが、身内である奏音から詳しく説明を受けると、納得するようにコクリと頷いた。


「あ、それで明日祝日じゃん?緑依風が亜梨明の見舞いに来てくれるって言うんだけど、星華もよかったら――……」

「あぁ、ごめん!明日はママとママの実家に行って、ひいばあのお墓参り!」

 パンッと、星華が両手を合わせて謝ると、奏音は「そっか」と、仕方ないという様子で軽く笑った。


「気にしないで。そんなに深刻じゃないし、ヒマそうだから相手してやってってだけだから!」

 あっけらかんとした笑い声混じりに言う奏音。

 だが、ある人物の視線に気付くと同時に、明るい表情は一変して険しくなる。


 *

 

「相楽姉妹の片割れ、入院してるんだって~」

「え~っ、なんで?持病のせい?」

「……っていうか、日下王子が原因じゃない?」

「あ~っ……――」

 廊下にたむろする他クラスの女子生徒の声に、その横を通過する奏音はピクリと目尻を痙攣させる。


「日下と亜梨明さんってまだケンカしてんの?」

「思った~!だってバレンタインからずーっと口利いてないじゃん!」

「フラれたん?それともフッた?」

「どっちがだよ」

 聞こえていることに気付いていないのか、それともワザと聞こえるように話してるのかと問い詰めたくなる程、奏音の耳に、腹立たしい話題が入り込んでくる。


 爽太によるストレスが、亜梨明の不調の原因――。


 緑依風と星華には毎年のことだと説明した奏音だが、その奏音自身が一番、亜梨明の持病が悪化したのは爽太のせいだと強く思っていた。


 寒暖の差、環境の変化、運動、感染症、心身の疲労――普通の人間ならある程度耐えられる些細なことですら、亜梨明の体には大きく影響が出てしまう。


 幼き日、奏音が亜梨明に冷たい言葉を言い放った時も、亜梨明は深く傷付いた様子でいたし、その晩には高熱を出して寝込んでしまった。


 それを思い出すと、季節性のものだと割り切れない。


 教室に戻ると、扉の斜め左方向にいる、他の男子二人と会話していた爽太と目が合う。

 以前の奏音なら、軽く愛想笑いのようなものをして、ゆっくり視線をずらしただろう。


 だが、今は違う。

 スッと、爽太から目を逸らした奏音は、なるべく彼が視界に入らないようにしながら、自分の席に座る。


 爽太も、そんな奏音の態度の変化に気まずそうな様子で、男友達との会話の方に意識を戻した。


 *


 次の日、奏音は緑依風と共に亜梨明の見舞いに訪れた。


 三人は、緑依風が持って来た木の葉のお菓子を食べながら、楽しい時間を過ごしていたのだが、しばらくすると会話の流れが途切そうになるタイミングで、「そういえば……」と、亜梨明がやや遠慮したように緑依風の顔を見た。


「緑依風ちゃんは……坂下くんと今どうなってるのかな?」

「…………」

「…………」

 笑い声が響いていた病室の中が、途端に静まり返る。


「あ、ご……ごめんね。ずっと、気になってて……」

 白い掛け布団の上に乗せていた手を組み合わせ、気まずそうな面持ちになる亜梨明……。


 あの日――風麻が亜梨明のことが好きだと緑依風に相談した話は、その場にいる者だけの秘密にしようと四人は約束した。


 仲間外れではなく、ただでさえ心に深く傷を負っている亜梨明にこの話をすれば、彼女はますます悩み苦しむかもしれないと思ったが故の判断だ。


「そ、それがね~……!やっぱり勇気が出なくて、結局言えず終いで~!」

 緑依風は頭に手を添え、困ったような笑い声を含めて芝居をする。


 奏音は、そんな緑依風に便乗して、「んも~、緑依風はホントにビビリだなぁ~!」と言いながら、レモンクッキーが入っていた袋をゴミ箱に捨てた。


「――私も……もう少し言うの我慢したら、こんな風にはならなかったのかな……」

 亜梨明は窓の外に顔を向けると、ポツリと小さな声で言った。


「亜梨明ちゃん……」

「あ~あ、告白する前は、フラれたらフラれたですっきりと諦められるって思ってたのに。……ひと月経っても、まだまだあの日と変わらないんだ……笑っちゃうでしょ?」

 そう言って、亜梨明が薄い笑みを滲ませて自嘲すると、緑依風は「諦められない気持ち、わかるよ……」と、静かな声で言った。


「緑依風ちゃんは、まだチャンスがあるじゃない」

「うん……。でも多分、きっと私も……もし風麻にフラれても、ずっと好きだと思う……簡単には消えないよ、この気持ち……」

「…………」

 真実を知っている奏音は、「風麻を応援する」と言っていた緑依風もまた、今も変わらぬ感情を持ち続けているのだと察した。


 *


 亜梨明に「また来るね」と伝えて病室を出た奏音と緑依風は、二人じゃないと話せないことを話すために、少し遠回りをして、蕾が膨らむ桜の木の下をゆっくりと歩いた。


「緑依風もやっぱり、まだ坂下のこと好きなんだね」

 奏音が聞くと、「うん……困ったね」と、緑依風は先程の亜梨明と同じような笑い方をして答えた。


「本当に応援できるの?なんでわざわざ、余計にしんどくなることするかなぁ?」

「わかんない……。――でも、風麻の幸せを邪魔する方がしんどいから。だったら私は、影で風麻のことを応援したいよ。……あ、別に亜梨明ちゃんに無理にでも風麻を好きになれってことじゃなくて……亜梨明ちゃんには亜梨明ちゃんが一番幸せと思えるようになって欲しくて……」

「私は、緑依風にも幸せになって欲しいよ」

「えっ……!」

 奏音にそう言って優しい眼差しで見つめられた緑依風は、ちょっぴり照れるような仕草をして髪の毛に触れる。


「あっはは、緑依風のそういうとこ!私大好きっ!」

「かっ、からかってる!?」

「ううん、本音だよ~。……人を本気で好きになって、一生懸命で……そういうとこ……いいなって思う」

「……奏音は、初恋ってないの?」

 緑依風がそっと聞くと、奏音は「あるよ」と答えてすぐ「でも、ずっと昔」と言った。


「幼稚園の頃かなぁ~……。まぁ、すぐにどうでもよくなったし、今考えると、本気で好きだったわけじゃない気がするし、恋に似た何かってだけで、恋じゃないのかもしれないね~」

 奏音は「よっ……と」と声を出して道の上の細い段差に登ると、そのまま両手を広げてバランスを取りながら、緑依風の隣を歩く。


「――ねぇ、緑依風。……私、日下のこと嫌いになっちゃった」

「えっ……?」

「だから、本音を言うと、亜梨明にはもう日下を諦めて欲しいし、日下と仲直りなんてしなくていいと思ってる……。あいつがいなくたって、あの子には私がいるもの……あいつが今まで亜梨明にしてくれた分の穴埋めは、双子の妹の私が全部やる」

「…………」

「――元々、ずっとこうしてきたんだもん。あの子のことは、私が一生守る。私が亜梨明と一緒に生まれた意味って、きっとあの子を支えるためだと思ってるし、亜梨明を傷付けるやつはみんな……亜梨明がなんて思おうと、私は心の中でそいつを殺す。それがたとえ――友達であろうとね……」

 スタッと石畳の上に音を立てて着地をする奏音を、緑依風は少し怯えた顔つきで見つめる。


 僅かな笑みを湛えた奏音の目は、鋭い銀色のナイフから放たれた光のように冷たく、恐ろしかった。


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