第153話 バレンタイン(後編)


 本日の授業が全て終わった。

 掃除の時間になると、生徒達の様子は暗く落ち込んでいる者、まだチョコレートをもらえる可能性に期待する者、晴れて恋人同士となって浮かれている者、亜梨明と同じく、これから勝負に挑もうとする者などで、朝とはまた違った雰囲気だ。


「な~んか、男女がピリピリしちゃうのはなんとなーく察しがつくけど、さっきから日下と坂下の様子も変じゃない?」

「変?」

 星華の視線の先を亜梨明が見ると、教室の掃除をする爽太と風麻の表情が、五時間目終了後よりもちょっと硬い。


「ケンカでもしたのかな?珍しい……」

 奏音が廊下の外からそっと二人を眺めると、「日下があんまりにもチョコもらうから、わけてくれーって頼んで、断られて拗ねてんじゃない?」と星華が予測し、その発言に、これからチョコを渡す予定の緑依風の気持ちを考えた奏音は、「ちょっと……」と星華の脇腹を箒のつついた。


「緑依風のチョコを一番楽しみにしてるに決まってるじゃん!……ね?」

「うん……」

 奏音が言うと、緑依風は静かに頷き、「ゴミ捨て行ってくる……」と言って、教室の入り口にまとめてあったゴミ袋を持って、階段を下りた。


「後で謝んなさいよ……」

「はぁ~い……」

 奏音にギロリと睨まれると、星華もさすがに反省したようだ。


「私達も、そろそろ片付けよっか……よいしょ!」

 亜梨明は水と雑巾が入ったバケツを持って、水道に移動する。


 汚水を捨てるため、バケツの底に手を当てて持ち上げようとすると、うっかり手が滑り、勢いよく流し台に落ちた水が跳ね返って、辺りに飛び散ってしまった。


「あぁ~っ!!」

 亜梨明が大声を上げると、「大丈夫?」と爽太が後ろから声を掛けた。


「うん、私は平気!だけど……あぁ、床が濡れちゃった……」

 亜梨明は雑巾を固く絞り、床を拭こうとする。


「手伝うね」

 爽太がもう一つの雑巾を使って、濡れた床を拭くのに協力を申し出た。


「ありがとう」

「……ううん、二人でやった方が早いしね!」

 嫌な顔一つせず、一緒に掃除をしてくれる爽太。


 彼の優しさに亜梨明は、改めて爽太が大好きだという気持ちが膨らみ、放課後が待ち遠しくなった。


 *


 終礼の時間。


「――え~っと、特に連絡事項は無いんだけど……。君らの鞄に入ってるそのお菓子!……本当は、学校に持ってくるの禁止だからね!」

 波多野先生は、ギクリとする生徒達の顔をぐるりと眺め、「ただし!」と言って腕を組むと、にんまりと笑みを浮かべた。


「バレンタインで盛り上がる気持ちわからなくもないし、今更没収もしないから、もらったものは家に帰ってから食べるように!――以上!」

 波多野先生が多めに見てくれたことに感謝した生徒達は、「いぇ~い!」と歓声を上げた。


 挨拶を終え、ぞろぞろと生徒達が退出する中、コートを着て、マフラーと手袋を着けた爽太が、「帰ろっか!」と、亜梨明に声を掛けた。


「うん!」

「じゃあ日下、亜梨明のことお願いね!」

 部活動がある奏音は、爽太にそう言った後、「しっかりね!」と亜梨明に耳打ちし、部室へと向かった。


「私も今日は部活だから!そんじゃ、バイバーイ!」

 星華も亜梨明達に手を振ると、奏音を追いかけるように教室を出て行った。


「えっと……じゃあ、緑依風ちゃんと坂下くん……――」

「あ、俺今日寄り道するから。……緑依風、付いて来いよ」

「あ、うん……」

 ややぶっきらぼうな口調の風麻が気になる亜梨明だが、緑依風をわざわざ誘うということは、彼が緑依風と二人きりになりたいのだと思い込み、微笑ましさについ、口元が緩みそうになる。


「じゃあな、また来週!」

「亜梨明ちゃん、日下、またね!」

 風麻が先に歩き出し、緑依風もその後ろを歩こうとしたところで、亜梨明は口だけを動かし「頑張って」と彼女に伝える。


 緑依風は、一瞬目元を揺らがせたが、にっこりとすると、「ありがと」と同じく口の動きだけで亜梨明に言った。


「さて、僕らも帰ろうか」

「……うん」

 いよいよ迫る、大一番の勝負――。


 亜梨明は、鞄の上から中にあるチョコレートに触れると、決意を固めるように、肩に掛けた持ち手の紐をギュッと強く握った。


 *


 校舎を出ると、アスファルトの上の雪は水分を多く含むぼた雪のせいか、ぐっしょりと溶けていて、油断すると滑りそうだ。


 しかし、外壁の上や屋根、木の上にある雪はまだ真っ白に輝いており、道中では家のポストの上に、小さな雪だるまが作られているなんて所もあった。


「ははっ、家に帰ったら雪だるまが出迎えてくれるなんて、可愛くていいね!」

「うん……」

 空からは今も細かな雪が降り続いており、それが亜梨明のピンク色のコートや、爽太のグレーのコートに舞い降りてはゆっくりと溶け、最後には小さな水滴へと姿を変え、布地に染み込んでいった。


「(どうしよう、あんなに頭の中で練習したのに……何も……なんにも、声にできない……)」

 ドクン、ドクンと、緊張によって大きく鼓動する心臓。

 こんなに早く鳴らし続けていたら、比喩ではなく本当に具合が悪くなってしまいそうだと思うくらい、亜梨明の心臓は速いテンポで脈打っていた。


「寒いね……」

 白い息と共に、柔らかな声が亜梨明の耳に響く。


「うん」

「僕、寒いのは苦手だけど、雪は好きだなぁ……」

「うん……」

 チラっと、爽太の顔を見上げる亜梨明。

 自分と同じくらい白い肌を持つ彼の姿が、雪景色と相まって、とても綺麗だった。

 

 寒いけど、熱い――。

 爽ちゃんのことを見てると、考えてると、内側が全部、熱い――。


 初めて出会った日、女の子みたいに綺麗な男の子だなと思った。


 翌日、拾ってくれた薬を渡しながら、自分の秘密を見抜き、爽太自身も同じ病気だったと打ち明け、何があっても味方でいてくれると言ってくれたことが、とても嬉しくて心強かった。


 我儘な理由で倒れてしまった日、本気で心配して叱ってくれた彼のことが大好きになった。


 辛かった気持ちを打ち明けた時は、まるで同じように胸を痛めながら、勇気づけ、励ましてくれた。


 爽太に出会うまで、どうせ自分は長生きできないと悲観し、未来に希望なんて持っていなかったのに、夏に一緒に病院を抜け出し、彼が将来の夢を語ってくれた時、医者になった姿を見届けたくて、初めて心の底から『生きたい』と思った。


「(怖いけど、でも……言いたい!爽ちゃんともっと、近くなりたいから――!)」

 緩やかな坂道を登り切った所で、亜梨明は意を決し、立ち止まった。


「そっ、爽ちゃんっ――!!」

 静かな住宅街に、亜梨明の声が響く。


「爽ちゃんっ、あのっ――わ、渡したいものがあるのっ!!」

「え……」

 亜梨明は鞄から、丁寧にラッピングされた、チョコレートの箱を取り出した。


「これって……バレンタインの?」

「うん……!」

 爽太は、亜梨明から差し出された箱をそっと手に取った。


「あ……あのね、わたしっ、わたしはねっ――!!爽ちゃんのことが、ずっと、大好きだったの……!!」

 言葉を何度も詰まらせながら――それでも一生懸命に、亜梨明は募らせてきた想いを爽太に打ち明ける。


「爽ちゃんのこと……友達よりももっと、もっと……大きな気持ちで大好きなのっ……!!そっ、爽ちゃん……は、私のこと……どう、思ってますか……?」

 練習通りの言葉は、上手く伝えられなかった。

 でも、今の亜梨明には精一杯の言葉と気持ちで、爽太に正直な気持ちを伝えたつもりだ。


「…………」

 驚いたように固まる爽太。

 亜梨明は、彼の返事が怖くてこれ以上顔が見れず、下を向いてぎゅっと目を瞑った。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。

 一秒、二秒の時間が永遠に感じられるほど、緊迫した状態が続いた。


「僕は……――」

 爽太が話を切り出すと、亜梨明は更にキュッと身を縮める。


「僕は、君を――……友達以上に、思ったことは無い……」

 静かで、冷たい氷のつぶてのように、爽太の言葉が、亜梨明の真ん中に落ちた。


「――――!」

 下を向いたまま、カッと目を開く亜梨明。

 凍り付くように冷たくなっていく体と反して、その大きな瞳にのみ、熱いものがじわじわと滲んで視界が揺れた。


「君は、昔の僕のようで、放っておけなくて……だから、役に立ちたい、いつか君にも、元気になって欲しいって思ってた。僕と同じ苦しみを持つ君の……一番頼れる友人になりたかった……」

「…………」

「僕も、亜梨明のことは大好きだ……。でもそれは、友達としての気持ちで、恋人になりたいとか、恋人らしいことをしてみたいと思ったことは……全く、無いんだ」

 爽太はゆっくり、はっきりとした口調で、自分が思う亜梨明への感情を全て話すと、俯いたまま顔を上げることができない亜梨明との距離を、半歩縮めた。


「でもね、亜梨明……。君の気持ちに応えられないけど、僕は亜梨明の力になり続けたい……。だから友達として、これからも変わらずに協力させて欲しい……」

 ぱたぱたと、足元に落ちる涙を拭く気力も無く、亜梨明は黙って爽太の言葉を聞いた。


 優しすぎる彼の言葉が、今の亜梨明には酷すぎる――。


「……これ、もらっていい?今日のために、一生懸命作ってくれたんでしょ?」

「………」

 こく、と僅かに首を動かすだけの返事を亜梨明がすると、爽太はふっと目元を細め、両手でチョコレートの箱を抱えた。


「……亜梨明からのチョコ、一番大事に食べるから……」

 爽太は、立ち止まったまま動かない亜梨明に、「冷えるから帰ろう……」と声を掛け、手を引いた。


 雪は今もなお、しんしんと降り続き、白と銀の世界を作る。


 亜梨明と爽太は、薄く積もった雪道を、一言も言葉を交わさないまま歩き続けた。



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