第149話 きっと伝わる
「ただいまー……」
風麻が帰宅したことを告げて靴を脱いでいると、「おかえり~!!」と、末弟の冬麻がバタバタと足音を鳴らして、リビングからやって来た。
「おにいちゃんはやくこっちきて~!ぼくね、ひとりででんしゃのレールちゃんとつくれるようになったよ~!!」
先月末、五歳の誕生日プレゼントに電車のおもちゃをもらった冬麻。
レールが上手に繋げられたことを褒めて欲しくて、兄の手を引っ張り、リビングへと連れて行く。
「おぉ~っ、ちゃんと橋も綺麗に繋いでんじゃん」
「うん!――……?」
冬麻は、いつもより言葉に元気の無い兄の様子に、「ん?」と首を傾げる。
「…………」
風麻はポンっと、冬麻の頭に軽く手を置くと、「着替えてくる……あと、寝る」と言って、自室へと向かった。
「なんか、いやに静かねぇ~……」
おやつを食べながらテレビを見ていた母の伊織も、長男の普段と違う姿を不思議に思う。
「歯でも痛ぇんじゃねぇの?」
次男の秋麻も、目の前に好物の甘いお菓子があるというのに手を付けない風麻の様子に、怪訝そうな顔をした。
*
――バタンと、部屋のドアを静かに閉めた風麻。
脱いだコートを椅子に掛け、制服から部屋着へと着替える。
「……いよいよ、だな」
机の上にある小さなカレンダーに目をやり、「ふぅ……」とため息をついた。
バレンタイン。
愛する人に想いを伝える、ある意味決戦の日ともいえる特別な日――。
現代では、義理チョコ、友チョコ、頑張った自分へのご褒美チョコなど、多種多様な形に変化してきたが、その中で今も変わらないのが、女の子から好きな男の子に気持ちを伝えるために、その想いを甘いチョコレートに託して渡すという習わしだ。
バフッ、と身を放り投げるようにしてベッドに横たわった風麻は、天井を見上げながら、片手を額の上に置く。
「あいつ……爽太にチョコ好きかって、聞いてた……」
それを聞かずとも、わかっていた。
亜梨明が爽太にチョコを渡すことを……。
「(告白、すんのかな……)」
亜梨明に「好き」と言われたら、爽太はどう返すのだろう。
風麻の胸の奥が、黒くて粘っこい重苦しいもので支配されていく――。
*
二月十三日、放課後――。
松山家の調理室に集まった緑依風と亜梨明は、バレンタインチョコを作るため、髪を結び、エプロンを着けてテキパキと準備を進めた。
「あ、この間買った材料は冷蔵庫にあるよ!常温でも大丈夫なやつはここね!」
「うん!ごめんね、ずっと置かしてもらってて……。おじさんの研究のための場所なのに……」
学校が終わってから買い出しに行ってしまうと、次の日も登校日なのに帰りが遅くなってしまうと思った緑依風は、土曜日に亜梨明と二人で予め必要なものを買いに出かけていた。
亜梨明も、作るものが決まっても、何が必要なのかさっぱりわからなかったため、緑依風に使う材料やラッピングなども一緒に選んでもらい、そのまま材料を松山家に預かってもらうことにしていたのだ。
「ううん、お父さん「いいよ」って言ってたし!ただ、怪我と火の扱いだけは気を付けてねって!まぁ、今日は火を使うようなものは作らないから、火事は大丈夫かな?」
「うん、怪我もしないように気を付けます!」
ビシッと、敬礼をするようにポーズを決める亜梨明。
緑依風は「ははっ」と笑いながら、ステンレス製のボウルや包丁を取り出し、亜梨明と自分が使う調理器具を並べていった。
「さて、今日はこの通りに作ってもらいます!」
緑依風から型入れチョコのレシピと、イメージ図案を書いた紙を手渡された亜梨明は、「おぉ~っ!」と声を漏らして読み始める。
「手は貸さないけど、困ったらすぐ聞いてね!」
「うん、すっごくわかりやすい!緑依風ちゃんありがとう!!」
*
「えっとぉ……まずは、チョコレートを細かく刻んで、ボウルに移します……か」
亜梨明は紙を読みながら、まず板チョコレートの包み紙を剥がし、チョコを刻み始めた。
「うーん……硬いし、でも押さえている方の手には、チョコが溶けて付いてきちゃうぅぅ……!ねぇ、これもう少し大きくしちゃダメかなぁ?」
「ははっ、確かに手がベタベタするしこれを何枚もするのはめんどくさいけど、細かくしないとチョコがなかなか綺麗に溶けてくれないんだよね」
緑依風が自分が使用するチョコレートを刻みながら説明すると、亜梨明は「そっか……」とがっかりした。
「でも、これで美味しくなるなら……!」
「うんうん、頑張れ頑張れ!」
再びやる気を取り戻した亜梨明は、指を切らぬよう慎重に……そして、大きく切り過ぎぬように意識しながら、チョコを細かく刻んでいく。
「(亜梨明ちゃん、可愛いなぁ……)」
不慣れな包丁さばきは少し危なっかしいが、一生懸命頑張る彼女の姿を見て、緑依風はそう思った。
少し前、相楽姉妹は緑依風の容姿について褒めてくれたが、緑依風にとっての理想の女の子象は、亜梨明と奏音のような姿だった。
出会って間もない頃、緑依風は二人を何かに例えるなら、まるで西洋のお人形のようだと思った。
亜梨明も奏音も顔は小さいが、目は大きくて緩やかな猫目で、その瞼から伸びるまつ毛も長い。
細く柔らかい真っ直ぐな髪は、ふわりと揺れながら太陽の光に当たるととても綺麗だったし、羨ましかった。
同じ顔立ちだが、ちゃきちゃきとしてしっかり者の奏音に対し、亜梨明はほわほわと柔らかい雰囲気で、いろんな表情を見せる。
笑ったり、怒ったり、落ち込んだり、ふざけた顔を見せる時もあるが、時々遠くを見つめる表情は、どこか浮世離れしていて、儚さを感じた。
「(もし、私が男だったら……好きになっちゃうかも。それなら――)」
それなら、風麻が亜梨明を好きになってもおかしくは無い。
「(風麻が本当に亜梨明ちゃんを好きなんだったら……私は、行き場を無くしたこの気持ちは……どうしたらいいんだろう……)」
確証はまだ無くとも、その疑惑を否定できない時が来てしまったら――。
緑依風はそう考えながら、奮い合わせた粉を切るように混ぜ合わせた。
*
チョコレートを湯せんで溶かし終えた亜梨明は、小さいハートのアルミカップを取り出し、はみ出ないようにゆっくりとした動作で、チョコレートを流し入れる。
「う~っ……手が震えちゃう~っ!こぼしちゃいそう~っ!」
「ぷっ……亜梨明ちゃん、顔面白いよ」
口をすぼませて、まるでひょっとこのような顔つきをする亜梨明に、緑依風がそれを指摘すると、亜梨明は「だって、気が緩んだら失敗しちゃいそうなんだもん!」と言って、二つ目のカップにチョコを流し入れた。
緑依風の方は、生地を焼く所まで作業を進めていた。
「ねぇ、緑依風ちゃん……。明日……私、上手くいくかな?」
亜梨明の声が、普段よりもちょっぴり低く、震えている。
「……上手くいくって、信じるしかないよね……」
「だよね……」
四つ目のアルミカップにチョコを流し入れたところで、亜梨明は手を止め、自信なさげに俯いた。
「私ね……いつも緑依風ちゃんを見てて、そんなに前から坂下くんが好きなら、なんで告白しないんだろう?緑依風ちゃんは、このままの関係に満足なの?って、すごくもどかしく思ってた。でも……今ならわかるよ。仲の良い関係が壊れるくらいなら、友達のままでいいって気持ち……」
「…………」
「それでもね、私……あの日思ったんだ。もし友達のままの関係が続いて、ある日突然、爽ちゃんが他の人を好きになって、付き合うようになって、後悔するよりは、ダメ元でも告白した方が、しないよりダメージが少ないかなって!」
「亜梨明ちゃん……」
緑依風は、亜梨明が爽太にバレンタインに告白すると宣言した日、彼女の心の強さを羨ましく思っていた。
失敗が怖くないのかと、尊敬の念を抱いていた。
その亜梨明が今初めて、爽太に気持ちを伝えることを恐れ、不安がっている――。
「(そっか……。一緒なんだ、私達……)」
どっちが強いとか弱いとか、素敵だとかそうじゃないとか関係ない。
好きな人を想う心を持った者は皆、期待と不安を同じ分だけ持って、明日のバレンタインに『大好き』の気持ちを打ち明けるのだ。
「どうなるかわからないけど、怖いけど……チョコも作っちゃってるし、明日言うしかないよね!」
亜梨明は「あはは」と笑うと、再びチョコレートをカップに入れようと、スプーンを持ち直した。
「…………」
「…………!りい、ふちゃん……?」
亜梨明の細い体を、緑依風が無言のままぎゅっと抱き締める。
「絶対伝わる……!伝わるよ!」
伝わって欲しい。
この腕の中にいる大切な親友の切ない願いが、爽太に届いて欲しい。
彼女の健気な想いを知った今、緑依風は抱き締めずにはいられなかった。
亜梨明も、優しい応援に勇気づけられたのか、緑依風の柔らかな肌から感じる、少し熱いくらいの体温のおかげで、緊張で冷たくなっていた体が温まり、ホッとしたように目を細めた。
「うん……明日、伝えるよ!」
そう言った亜梨明も、緑依風の背中に腕を回し、彼女の肩口に額をくっつけた。
*
チョコレートが少し固まってきたところで、亜梨明は砕いたアーモンドや、ピスタチオ、ドライフルーツや砂糖菓子を綺麗に乗せてトッピングをした。
チョコペンで顔を書いたり、ハートを書いたりもした。
全部で十個作られたチョコレートの中で、見栄えがいいものを六個選ぶと、亜梨明はそれを一個ずつ丁寧に、四角い箱の中に入れていった。
緑依風も、可愛いデザインのマフィン型に入れられた、焼きたてのフォンダンショコラをオーブンから取り出した。
「できた!」
亜梨明は出来栄えを見てもらおうと、緑依風にラッピングされた箱を見せた。
「わぁ〜可愛いよ!!」
「ホント?よかったぁ〜!緑依風ちゃんのもすごくいい香りで美味しそう~!」
ふんわりとした甘いチョコレートの香りに、亜梨明がとろんとした顔になる。
「私の冷めないとラッピングできないから、焼きたてのやつ一緒に試食しない?」
「うん、食べる食べるー!」
ホットミルクを淹れた緑依風は、亜梨明と共に椅子に腰掛け、出来立てのフォンダンショコラと、亜梨明が作ったデコレーションされたチョコレートの余りを食べた。
フォンダンショコラを初めて食べた亜梨明は、頬を押さえながら「おいしー!」と感動している。
「私もね、初めて風麻に手作りであげたチョコレートは、亜梨明ちゃんと同じやつ作ったんだ」
「そうだったんだ〜。私もいつか、緑依風ちゃんみたいにいろんなお菓子作りたいな」
「今度教えるよ。フォンダンショコラも見た目より結構簡単なんだよ!」
「うん、また今度教えてね!」
*
夕方六時半になると、明日香が亜梨明を迎えに来た。
亜梨明は、チョコレートが入った紙袋を大事そうに抱えながら、乗り込んだ車の窓から手を振った。
「緑依風ちゃん、ありがとう!また明日ね!」
「うん、明日!」
亜梨明が乗る車を見送った緑依風は、冷え込む空気に手をさすり、まだ片付けが残っている調理室に戻ろうとする。
「緑依風」
「風麻……」
緑依風が振り返ると、風麻が門扉を開けて彼女のそばへとやって来た。
「ケーキできたか?」
冷たい空気に鼻先を少し赤らめた風麻の姿に、緑依風は呆れた顔をする。
「もしかして、ずっと待ってたわけ……?」
「おう!」
風麻は毎年こうだった。
バレンタイン当日になるまで待ちきれず、いつも前日に緑依風の家のチャイムを鳴らして「できた?」と聞いてくる。
「できたけど、渡すのは明日!も〜……毎年フライングでもらおうとするのやめなよ!」
緑依風が腰に手を当ててため息をついても、風麻は「へへっ」と全く反省していない様子だ――と、そこまではいつも通りだった。
だが、その後の風麻の様子は、何やら悩んでいるようで、瞳が左右に何度も揺れる。
「――な、少し話したいんだ。……入れてくれるか?」
「……いいけど」
どこか思い詰めたような声の風麻に胸騒ぎを感じつつ、緑依風は彼を家の中に招き入れた。
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