第127話 マスクと空気(後編)
昼食を食べ終えると、六人は緑依風の机周りに集まり、待ち合わせ場所や時間の打ち合わせを始めた。
「ねぇねぇ!せっかくのピクニックだし、女子達で朝早く集まって、お弁当作ろうよー!」
星華が、机に手を乗せ、前のめりになりながら提案した。
「星華、おにぎりと卵焼きしか作れないでしょ。何言ってんの……」
星華があまり料理ができないことを知っている緑依風が、
「……恐れながら、私と亜梨明は卵焼きすら作れない人間なんだけど……」
「え〜っ!?」
奏音のカミングアウトに、星華は叫びを上げた。
「なんだ〜……。緑依風に三品、私ら一品ずつ作れば、それなりに立派なお弁当できると思ったのにな~」
「ちょっと〜、最初から殆ど私に作らせる気だったの?」
緑依風がますます呆れた声になると、今度は風麻が「はいはいっ!!」と、威勢よく手を上げた。
「女子の手作り弁当、食いたい!」
「へっ?」
振り返る緑依風の顔が、一瞬で喜びを交えた表情に変わったのを、亜梨明達は見逃さなかった。
「な、爽太も食いたいよな?緑依風と相楽姉達の弁当!」
風麻が爽太に話を振ると、亜梨明は爽太の反応をドキドキしながら伺う。
「うーん……食べたいけど、女の子達だけ負担が大きいよね?悪いよ」
「わ……私、頑張るよ!作ったら食べてくれるっ!?」
亜梨明が大きな声で言うので、五人はちょっぴり驚き、目を丸くした。
「りょっ、料理は……お母さんのお手伝い程度しかやったこと無いし、……すごいものとかは無理だけど……」
作ると言ってみたものの、野菜の皮むきや、味付けの手伝いしかやったことの無い亜梨明は、後から不安になってきて、どんどん声をすぼめていく。
家庭科の授業で習ったものも、味噌汁にはお湯と味噌以外何が必要なのかとか、お米を炊くには何回米を洗えばいいのかすら、もう記憶があいまいで、ひとりで作れる自信は無い。
「…………」
無言になり、「どうしよう」といった顔になる亜梨明。
緑依風はそんな彼女を見て、「ふぅ」と優しくため息をつくと、「しょーがないっ!」と、苦笑いしながら腕を前に伸ばした。
「……お弁当作り引き受けるよ!私が教えながら作るから、女子メンバーは土曜の朝、うちの調理室に集合ね!」
緑依風が言うと、亜梨明と星華と風麻は「やったー!」とバンザイしながら喜んだ。
「材料費は後で徴収するね。食べたい物いくつか教えて?」
緑依風はメモを取り出し、献立を決めようとする。
まずは、風麻のリクエストで唐揚げ。
星華は得意の卵焼き。
亜梨明は、野菜を使った料理を。
奏音は、主食におにぎりが欲しいと言った。
「おにぎりか〜……」
爽太がマスクの上から、顎に手を当てて唸った。
「あれ?日下おにぎり嫌いだっけ?」
奏音が聞くと、「いや、好きだよ」と爽太は言ったが、何かを悩んでいる。
「爽ちゃんは、何が食べたいの?」
亜梨明が聞いてみるが、爽太は「僕はなんでもいいよ」と、自分の要望を伝えなかった。
「……あ」
その時、亜梨明の脳裏にふと、とある記憶が蘇る。
「……もしかして爽ちゃん、サンドウィッチが食べたかった?」
「えっ⁉」
亜梨明の予感は当たったらしく、マスクに隠れた爽太の顔がびっくりしている。
「やっぱり〜!爽ちゃん、たまごサンド好きだって言ってたもんね〜!」
「あ……覚えててくれたんだ」
それは春。
爽太が、入院中の亜梨明の病室に見舞いに来た日の会話の中にあった。
亜梨明はあの日から、いつか爽太に彼の好物のたまごサンドを作ってあげたいと、ずっと願っていたのだった。
「でも、主食が被っちゃうし……今回はいいよ」
爽太が遠慮して言うと、「ちょっとずつなら両方作れるよ」と、緑依風が言った。
「たまごサンド美味しいし、簡単だし。……うん、じゃあこれでいいかな?おにぎりの具に、梅とか昆布入れても平気?」
緑依風が確認すると、星華は梅干し嫌いだったが、あとは全員食べれるとのことだったので、これで一通り決まった。
お菓子や飲み物は、男子達が買って来てくれると言うので、これで役割分担も終わった。
*
――放課後。
今日は女子バレー部の活動日なので、爽太が亜梨明を家まで送ってくれる日だった。
別方向に家がある緑依風と風麻に「バイバイ」と手を振り、二人は緩やかな坂道を登り始める。
学校から出ても、爽太はマスクを外さない。
亜梨明も、せっかく彼にもらったのに、自分だけ外すことはできなくて、息苦しさと湿り気の不快感を我慢しながら、付けたままにしていた。
「――それにしても、さっきは驚いたよ。まさかあの会話だけで、僕の好物覚えててくれてたとは思わなかった!」
亜梨明の横を歩く爽太が、マスクの下で「あはは」と笑いながら言った。
「ご、ごめん……!気持ち悪かった?」
爽太に引かれたのではと不安に思った亜梨明は、そっと爽太の顔を見上げるが、そんな亜梨明のハラハラした気持ちなど知らない爽太は、「なんで?嬉しいよ?」と、キョトンとした目を亜梨明に向けた。
「よかったぁ……」
亜梨明はホッとした気持ちを声に出し、胸元を押さえた。
「僕も亜梨明の好物知ってるよ。確か、紅茶のお菓子が好きなんだよね?」
「え?」
亜梨明がピタリと足を止めると、爽太も止まって「当たってる?」と聞いた。
「うん、覚えててくれたの!?」
「もちろん。最初は紅茶のドーナツが好きって言ってて、でもその後もお菓子を食べる時は、いつも紅茶系のお菓子を選んで食べてたから、亜梨明は紅茶のお菓子全般が好きなんだろうなって、思ったんだ」
「…………!!」
マスクの中の亜梨明の顔は、一気に熱くなり、嬉しさに目が潤む。
「嫌な気分になった?」
「ううん、ぜんっぜん!!すっごく嬉しいよ!!」
亜梨明が首をブンブン振りながら言うと、爽太はまた「ははっ」と、声を出して笑った。
亜梨明自身は、あの時自分が好きな物を言った記憶はおぼろげで、それよりも爽太のことで頭がいっぱいいっぱいだったのだが、爽太はその日以降も、亜梨明が好きな食べ物に気付き、知ってくれていた。
亜梨明はそのことが嬉しくて嬉しくて、にやけてしまいそうな表情を隠せるマスクに、今ばかりは感謝しかない。
「あ、ところで……爽ちゃんは、なんでたまごサンドが好きなの?」
これを機にと、爽太のことがもっと知りたくなった亜梨明は、再び歩き出しながら、彼の好物の理由を聞いてみた。
「うーん……褒めてもらえたから、かな?」
「褒めてもらえた?」
腕を組んで上を向いた爽太の言葉に、亜梨明は不思議そうに首を傾げた。
「……うん。小さい頃――……まだ、病気だった頃にね。具合が悪いと、本当に何日もご飯が食べられなくて。食べなきゃ体力がつかないって言われても、病院のご飯も、お母さんが作って来てくれたご飯も……なんにも、食べる気持ちになれなかったんだ……」
「…………」
亜梨明は、彼の横顔を真剣に見つめた。
「――でも、僕の見舞いに来たお母さんが、僕のベッドの横で、コンビニで買ってきたたまごサンドを食べてるのを見た時、ふと美味しそうに見えて。それを一口わけてもらって食べたら、なんだかもっと食べたくなって、お母さんの分のたまごのサンドだけ、全部食べれちゃったんだ!……そしたら、お母さんも看護師さん達も「偉い、偉い」って、たくさん褒めてくれて……だからきっと、そういうのが嬉しかったんだ!」
明るく話す爽太の姿に、亜梨明は少しだけ切ない気持ちになる。
もっと幸せな思い出がきっかけだと思っていた。
いや、もしかしたら爽太にとっては、苦しい記憶の中に僅かにあった、楽しい思い出の一つなのかもしれないが、聞かないほうがよかったかなと、亜梨明は好物になった理由を知り、後悔する。
相槌を打つことも出来ないまま歩き続けていると、爽太の手が彼の顔元に伸び、鼻と顔の僅かな隙間に指を引っ掛けた。
「ふぅ……」
マスクをずらすと同時に、爽太は歩みを止めて、深く息を吸った。
「……やっぱり、マスクは苦しいね……」
「えっ?」
爽太は、学校で食事以外絶対に外さなかったマスクを完全に取り払うと、へらりとした笑みを亜梨明に向けた。
「……実は僕、マスク大嫌いなんだよね……」
「あ、私も!予防しなきゃいけないのはわかってるけど、苦しいし、落ち着かなくて――……あっ!」
もらっておいて、うっかり『私も』だと口を滑らせてしまったことに気付き、亜梨明は思わずマスクの上から、両手で口を塞ぐ。
「あっはは!」
爽太は何も気にしないように軽やかに笑うと、「亜梨明も外せば?」と言った。
「今、僕ら以外誰も歩いてないし」
「うん……」
爽太に促され、亜梨明もマスクを顎元にずらす。
スーッと大きく深呼吸をすると、ひんやりした秋の空気が体の中に入り込んだ。
意外に冷たくて、勢いよく吸えば肺に沁みて咳込んでしまいそうだったので、亜梨明はゆっくりと、それをもう一度吸い込み、静かに息を吐く。
「はぁ~……空気が新鮮でおいしい……」
亜梨明が息を吐きだしながら言うと、爽太は「わかる」と言って、亜梨明と同じように深呼吸した。
「……僕、病気の時のこともあって、寒い季節は今でも苦手なんだけど、マスクを外して、透明な空気を感じるこの瞬間だけは、少し好きかなって思っちゃうんだよね」
「おかしいね」と、柔和な笑み浮かべる爽太を見て、亜梨明も笑った。
亜梨明も同じようなことを思ったからだ。
家まで送り届けてもらった亜梨明は、彼に手を振った後、もう一度ゆっくり深呼吸した。
鈍く淡い日の中を歩く爽太の姿を、愛おしく思いながら。
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