第126話 マスクと空気(前編)


 ひんやりとした空気に包まれた、夏城町。

 相楽家では、朝から「いーやーだー!!」と、駄々をこねる亜梨明の声が響いており、その態度に母の明日香も妹の奏音も、困り顔をしていた。


「嫌だじゃないの、マスク付けなさい。もう小学校では風邪が流行ってるんですって!」

「むぅ~~!!」

 頬を膨らまし、斜め上にプイっと顔を背ける亜梨明に、奏音は「幼稚園児か」と突っ込んだ。


「だって……マスク大っ嫌いなんだもん……」

「知ってるけどさぁ~……」

「中学校では流行ってないもん!じゃっ、行ってきまーす!」

「あ、コラ!」

 逃げるようにドアを開けて飛び出す亜梨明。

 それを追いかけるように、奏音も「行ってきます!」と短く母に告げて、家を出て行った。


「……もう。ちょっとは成長したかと思ったのに、まだまだ相変わらずね」

 明日香は、手に持ったままのマスクを見つめながら、残念のような、でも少しホッとしたような気持ちで呟いた。


 *


「まぁったく~……。風邪引いて後悔しても知らないからね!」

 奏音は亜梨明に追いつくと、少し厳しい表情で言った。


 普通の人なら“ただの風邪”で済むものでも、持病持ちの亜梨明にとっては、それで済まされない可能性がある。


 高い熱が出れば、心臓への負担もかかりやすくなるし、肺炎になってしまうこともある。


 実際、過去に何度も風邪から重症化して、大変になったことがあるのだが、亜梨明本人は、風邪よりもずっとマスクを付けなきゃ外出できないことが、苦痛で仕方なかったのだ。


「咳とくしゃみしてる人がいたら、こうやって塞げばいいでしょ?学校で流行ったら、その時は我慢して付けるもん!」

「だから、流行ってからじゃ遅いんだって……――」

「おーい!」

 亜梨明と奏音が、同時に後ろを振り返ると、青木立花りっかが大きく手を振り、走ってやって来た。


「おっはよ~!奏音、亜梨明ちゃん!」

「おはよ!」

「おはよう、立花ちゃん!」

 相楽姉妹が挨拶を返すと、立花の後ろからは、彼女の姉の海生。

 そして、海生の彼氏である城田海斗が並んで歩きながら近付いてきた――のだが、海斗は顔にマスクを装着し、首にマフラーをぐるぐると巻いた姿になっている。

 せっかくの整った顔が、防寒具で見えない。


「か、海斗先輩?どうしたんですか、その格好!」

 奏音が言うと、海斗は「ああ、コレ?」と、少し恥ずかしそうに首元のマフラーを引っ張った。


「今朝あんまりに寒いから、我慢できなくて……」

「そ、そうかなぁ……」

 亜梨明も寒がりの自覚があるし、冷えは元々血の巡りが良くない亜梨明にとって、天敵だった。


 そのため、今日もセーラー服の上から冬用のカーディガンを羽織っているし、長袖のインナーや、厚手のタイツも着用して、足の裏にもカイロを貼っている。


 しかし、モコモコした海斗の格好は、まだ秋だというのに真冬使用で、あたたかそうというより、むしろ暑そうに見えた。


「ふふっ、海斗はね~寒いのが本当にダメなのよ~。特にこの急な寒さに慣れるまでは、時間がかかっちゃって、油断するとすぐ風邪を引くの」

 海生が説明すると、「なっさけな~い!」と、立花がケンカ口調で海斗に言った。


「風邪引いて、お姉ちゃんに伝染うつすとか絶対やめてよね!」

「う……気を付けます」

 立花に睨まれながら言われ、タジタジな海斗。


 亜梨明がその二人のやり取りを不思議に思っていると、「立花ね、海斗先輩が嫌いなんだって」と、奏音が小声で説明した。


「どうして?」

「お姉ちゃんをとったって」

「あ、なるほど……」

 立花はいわゆる『シスコン』なのだと、亜梨明は理解した。


 *


 登校してきた生徒達の声で賑わう、夏城中学校。


 亜梨明が奏音と共に教室に辿り着くと、爽太もマスクを装着して、座って本を読んでいた。


「おはよー。日下どうしたの?風邪?」

 奏音が聞くと、爽太も「おはよう」と挨拶をした。


「違う違う、風邪予防だよ」

「予防か〜よかった〜……」

 奏音と同じく、爽太の体調が悪いのではと心配した亜梨明は、彼が予防のためにマスクを付けていたと知り、ホッと胸を撫で下ろした。


「偉いね日下。ちゃ~んと自衛してるんだ?」

 奏音が亜梨明をチラっと見ながら言った。


「妹の学年では風邪が流行ってるって聞いたし、ということは、もう町内でも広まってるんじゃないかって思ってね。……情けないことに病気が治っても、抵抗力が弱くて……。すぐに伝染っちゃうし、あんまり酷いと肺炎にもなりやすいから、この時期はマスクが欠かせないよ……」

 爽太は、マスクに隠されていない目元を細め、参ったような表現をした。


「そういえば、亜梨明もマスクした方が良くない?僕より気を付けなきゃなのに、なんでしてないの?」

「えっ、えっと……」

 亜梨明が後ろめたい気持ちで目線を逸らそうとすると、爽太は鞄を開け、何かを探し始めた。


「はい、これ使って。僕、まだたくさん持ってるからあげるよ」

「あ……」

 爽太がマスクを取り出すと、亜梨明はそれに手を伸ばした。


「ありがとう爽ちゃん!早速付けるね!」

 普段は苦手なマスクでも、大好きな爽太からもらったものは、何でも特別なものに感じてしまう亜梨明。


 素直に受け取り、嬉しさを隠しきれない表情でゴム紐を耳に掛けると、隣にいる奏音は「単純……」と、亜梨明に冷やかな視線を送りながら言った。


 亜梨明は、否定できない奏音のその一言に、マスクに隠れて見えない口元を悔しそうに歪ませていた。


 *


 昼休みになった。


 四時間目は移動教室だったため、六人はそれぞれ会話をしながら、一組の教室へと戻っていた。


「おぉ~!もみじが見頃だねぇ~!」

 星華が窓から見える中庭のもみじを見ながら言った。


「うん、秋山の方はイチョウも綺麗になってるって!」

 緑依風が言うと、「見に行きたいなぁ~!」と、亜梨明が気になる様子を見せた。


「そうだ、それならこのメンバーで、秋山公園にピクニックでも行かねぇか?」

「ピクニック!?」

 風麻の提案に、亜梨明が長い髪を揺らして、彼の方を向く。


「いいね!いつ行く?」

 奏音が聞いた。


「男子バレー部は、今週の土曜日部活休みだけど……」

 爽太が奏音に聞こうとすると、「女子も休み!今週はバスケ部が使うから!」と、彼女も予定が空いていることを告げた。


「うちも科学部は元々土日の活動無いし、緑依風は?」

「うん、手伝いは強制じゃないし、今週は土日の人手も充分足りてるから大丈夫!」

「じゃあ、行くか!」

 風麻が全員の顔を見渡すと、五人は「さんせ~い!」と、声を合わせた。


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