第114話 人と猫(前編)


 両親と共に、車に乗り込んだ亜梨明。

 運転は父の真琴で、母の明日香は助手席に座り、亜梨明は後部座席に座った。


 シートベルトをカチャッと締める音がすると、真琴はエンジンをかけ、車を発進させた。


 静かな作動音――そして、静かな車内……。


 しん……としたその空気に、亜梨明の息が詰まりそうになる。


「……あのねっ、夜中に出かけたのは……――!」

 どうせ怒られるなら、長引かせるよりさっさと済ましてしまおうとした亜梨明だったが、真琴は「亜梨明、あとにしようか」と言って、彼女の言葉を遮った。


「……はい」

 まるで、その考えを読んでいたかのような父の声色に、亜梨明は俯き、両手を膝に置いて、肩を落とした。


 真琴は、落ち込む娘の姿をバックミラー越しに見ると、すぐに前を見据えて、自宅を目指した。


 *


 家に到着すると、昨晩の雨風に荒らされた小さな植木鉢や、どこかから飛ばされたと思われるゴミなどが、片付けられていないまま、放置されている。


 自分が勝手に外出したことで、そんな余裕がなかったのだと悟ると、亜梨明はますます罪悪感に苛まれた。


「あ……」

 ドアを開けると、車の音で三人が帰ってきたと気付いた奏音が、玄関の上に仁王立ち姿で待ち構えていた。


「――こぉんのっ、バカっっ!!!!」

 そう大きく叫んだ奏音から、亜梨明の頭に怒りのゲンコツが落とされる。


「いった~いっっ!!」

 ゴツンと、鈍い音が鳴ったと同時に痛みが広がり、亜梨明は頭を押さえ、その場にうずくまった。


「深夜に!しかも、嵐の中出歩くって、何考えてんのっ!!起きて日下からのメッセージ見て、慌てて飛び起きたっつーのっ!!」

 亜梨明が帰ってくるまで、溜めに溜め込んだものを一気に吐き出した奏音は、はぁはぁと息を荒げて、頭を押さえたまま口を尖らせる姉を睨み付ける。


「だって……フィーネ達が心配だったんだもん」

「――猫が心配だからって、「じゃあ仕方ない」で済むことじゃないわ」

 真琴と共に家の中へ入ってきた明日香が、亜梨明の言い訳を聞いて厳しく言った。


「日下さんちにもあんな迷惑をかけて……!どうしてこんな――っ!!」

「……明日香」

 明日香が玄関でお説教を始めようとすると、真琴がポンっと妻の肩に手を乗せ、それを止めた。


「……まずはリビングに行こう。亜梨明の話は、それからゆっくり聞こうか」


 *


 リビングに移動すると、亜梨明と奏音が並んでソファーに座り、その対面に真琴と明日香も腰を掛けた。


「――さてと。どうしてこんな行動をしたのか、正直に話してくれるかい?」

 尋問する真琴の声や表情は穏やかだが、本心が読めず、亜梨明の心臓は緊張で大きく音を鳴らしている。


「……よるに、ね……起きたらすごく雨が降ってたの……。それで……――」

 亜梨明は声を震わせながら、家族に詳しく説明した。


 全てを語り終えると、明日香は頭の痛そうな表情をしながら、重ね合わせている手に力を入れた。


「――……話はよく分かったけど、もう少し考えて行動して欲しかったわ」

 明日香ががっかりしたような声で、亜梨明に言った。


「だって……子猫達のことが心配で、そんなの考えれる余裕がなかったんだもん」

 亜梨明は少しだけ頬を膨らまし、むくれた顔になる。


「余裕がなかったって……今回はたまたま運が良かったけど、どれだけ危険な行為だったか、あなたちゃんとわかってるの!?」

 声を張り上げる明日香に対し、真琴は目を閉じたまま、静かに聞いている。


「深夜の公園に、年頃の女の子が一人で向かって……日下さん達が来なかったら、子猫と一緒に一晩中、雨に濡れたまま居続けることになってたかもなんて……。風邪を引いたら大変なのは、亜梨明が一番わかるでしょう!?」

 明日香の言う通り、体の弱い自分が風邪を引いたらどうなるかなんて、普段なら容易に想像できる。


 これまでだって、風邪をこじらせて持病が悪化し、苦しい思いをすることは何度もあったし、そうならないように家族も亜梨明自身も、細心の注意を払ってきた。


 なのに、『フィーネとロンドを守りたい』という気持ちの前では、“いつもの自分”なんて全くわからなくなった。そして――。


「……じゃあお母さんは、フィーネ達がどうなってもいいって言うのっ!?」

 こうして、心配する母親の気持ちに反抗する言葉が出てくることも、今まで無かった。


 語尾を強めて、目を逸らすこともせず、真っ向から意志をぶつけることも……。


「…………」

 亜梨明の発言に二、三秒沈黙した明日香だったが、グッと喉を動かすと、「そうよ」と言った。


「え……?」

「お母さんは、猫のことよりも、亜梨明が大事だから……」

 明日香はそう言って、目に溜め込んでいた涙をスーッと流した。


「お母さんはねっ……子猫のことよりも、亜梨明の方が大切なの……っ!あなたにもしもがあったらなんて考えたら、それだけでお母さんは悲しいのっ!だからもうっ、こんなことはやめてちょうだいっ……!子猫なんかの命よりも、自分の命を守ることを優先してっ!」

「――――!」

 “子猫なんかの命よりも”という言葉が、亜梨明の思考を一瞬止めた。


 しかし、すぐに胸の内側からカッと火が付いたように熱いものが込み上げてきた亜梨明は、母の涙に怯むことなく、前を見据えた。


「そんなの……かんけい、ない……」

「亜梨明?」

 服の裾をギュッと握り締め、低い声を絞り出す姉の様子に、隣に座る奏音が動揺したように名を呼ぶ。


「命に優先順位なんて、ない!!」

 亜梨明が声を荒げる様子に、奏音も明日香も口を半開きにして驚いた。

 真琴もここでようやく目を開き、硬い表情で亜梨明を見ている。


「お母さんが心配してくれる気持ちはありがたいけど、だからって、フィーネ達がどうなってもいいなんてないっ!!」

 いたずらに数を増やし、育てられない動物を簡単に捨てるのも、野生として生きる動物を邪魔だと殺すことも、選ばなきゃいけない場面で人を優先してしまうのも、全て人間の勝手。


 猫より自分を優先しろという言葉は、母なりの愛だと頭では理解していても、罪なきあの子猫達を簡単に諦めるような発言が、亜梨明は許せなかった。


「…………っ」

 もっともっと、言いたいことはたくさんある。

 それなのに、感情を剥き出しにしすぎたせいなのか、心ではなく心臓に重苦しいものを感じ始め、声が出せない。


 でも自分の願う“正義”は譲れなくて、それを悟られないように、亜梨明は明日香に強い視線を向け続ける。


 緊迫した空気の中、真琴が「はぁ……」と深く息を吐いた。


「……もう、いいじゃないか」

 そう呟いた真琴は、明日香と亜梨明を交互に見た。


「……猫、うちで飼おうか」

「えっ?」

 亜梨明だけでなく、奏音と明日香も同じように声を上げた。


「でも、お父さん……ピアノ猫に傷だらけにされたら……!」

「そうだよお父さん!あのピアノは、ひいおじいちゃんに買ってもらった大切なものだって、ずっと大事にしてきたのに!」

 明日香と奏音は、真琴が長年愛用してきたグランドピアノに目を向けるが、真琴は「まぁ、そうかもしれないけど……」と困り顔で笑った。


「爪とぎを用意して、こまめにカットもしたら、そんなに酷くはならないんじゃないかなぁ……?それに……実は父さん、子供の頃猫を飼ってて、好きなんだよね。あんな風に言ってたけど、母さんも大好きだろ?猫」

「そ、そうだけど……」

 明日香は小さな声で言いながら、肩をすくめる。


「……なにより」

 真琴はそう言って、嬉しそうな顔で亜梨明の顔を見た。


「……初めてじゃないか?亜梨明が自分のこと以外で、こんなに一生懸命になって、頑張る姿を見せたのは」

「お父さん……」

「父さんは今、それが嬉しい……」

 真琴はソファーから立ち上がると、亜梨明の頭に大きな手をポンっと乗せた。


「ただし、うちが飼えるのはあの二匹までだ。別の動物が同じようなことになっていても、これ以上は受け入れられない。生き物を飼うというのは、その命に人間が責任を持って守り育てていくということ。お金も人間と同じように掛かるし、病気だってするんだ」

「…………」

 真琴の真剣な目を、亜梨明も同じような表情で聞き入っている。


「飼いきれない飼育は、人も猫も不幸になる。――それは、子猫を捨てた元の飼い主と同じ罪だ。わかるね?」

「うん……」

「猫が天寿を全うする日まで、自分の命と同じように、大切に守り育てなさい」

「するっ!ちゃんとお世話するし、あの子達が二度と不幸にならないようにしますっ!!」

「よしっ!」

 亜梨明の誓いに、真琴は力強く頷くと、「それでいいかな、母さん?」と、明日香に振り返って確認した。


「そうね……。子猫ちゃん達、うちで引き取りましょう」

「~~~~っ!!」

 明日香も承諾すると、亜梨明は嬉しさで目を潤ませながら、大きく息を吸った。


「ありがとうっ、お父さん!!お母さんも、ありがとうっ!!それから、心配かけてごめんなさい!本当に、ほんっとうにありがとうっ!!」

 亜梨明が喜びに「やったぁ~!!」と飛び跳ねると、奏音は「暴れないっ!」と注意しつつも、やれやれといった様子で微笑んでいた。


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