第113話 どっち?


 亜梨明の閉じられた瞼越しに、白い光が入る。

 まどろんでいると、斜め後ろから誰かの足音と、ジャーという水の音。

 そして、お肉のような何かが焼ける、香ばしい匂いが漂ってきた。


「(――そうだ、ここは……)」

 頭がだんだん覚醒してくると、亜梨明はここが自宅ではなく、爽太の家だと思い出した。


 むくりと体を起こすと「あ、おはよう~」と、唯が後ろから声を掛けた。


「おはようございます」

 亜梨明が目を擦りながら自分の隣を見ると、フィーネは既に起きていたようで、窓辺でロンドと朝日を浴びている。


「眠れたかしら?」

「はい、あの後すぐに眠くなっちゃって……。あ、私も手伝います!」

 亜梨明がソファーから立ち上がると、唯は「じゃあ、猫ちゃん達にご飯あげてくれるかな?」と、子猫用フードを亜梨明に渡した。


 亜梨明がしゃがんで缶詰を開けると、フィーネとロンドは「ミャー!」と鳴きながら近付いて来た。


 小さなお皿に亜梨明が中身を半分づつ盛り付けると、二匹は見ていて気持ちのいい食べっぷりを披露してくれる。


「おはよう〜……」

 ガチャっとリビングのドアを開け、ぽやんとした声で挨拶したのは、爽太の妹、ひなただった。


「ん?」

 寝ぼけ眼だったひなただが、亜梨明と子猫が視界に入った瞬間、ぱちくりと何度も瞬きを繰り返す。 


「……あれぇ!?お姉ちゃんどうしているのー?それに、猫ちゃんがいるー!!なんでなんでー!?」

 昨晩、眠っていて何も知らないひなたは、大きな声で質問する。


「お、お邪魔してます……」

 少しバツの悪い気持ちで挨拶をする亜梨明だったが、亜梨明が大好きなひなたは、「わーい!お姉ちゃんだー!嬉しいっ!」と、彼女の首元に手を回して抱き付いた。


「わっと、と……!!」

「ねっ、ね!お姉ちゃん、またピアノ弾いて!!」

 ひなたに力強くしがみつかれて、亜梨明がバランスを崩しかけると、「こらこら、そんなに引っ張ったらお姉ちゃん重たいでしょ~」と、白いお皿をテーブルに置いた唯が注意した。


 ひなたは「はーい!」と返事をすると、亜梨明から離れて、お皿の上にあるキウイフルーツをつまみ食いした。


「ひな、朝から嬉しそうだね」

「あ、お兄ちゃんおはよー!」

 少し寝癖がついた爽太が、笑いながらリビングにやってきた。


「おっ、おはよう……!」

 普段は見れない爽太の貴重な姿に、亜梨明がやや頬を紅潮させて挨拶すると、爽太も「うん、おはよう!」と爽やかに挨拶を返した。


 すると、食事を終えたロンドが爽太の足元にすり寄り、そのまま寝転がってお腹を見せ、遊んで欲しそうにしている。


「あ、君は男の子なんだね」

 爽太がロンドのお腹を撫でながら、性別を認識した。


「そっか~!ロンドは男の子なんだ~!前から思ってたけど、爽ちゃんって、猫に詳しいね」

 子猫達を見つけた日も、そしてこれまでの爽太の行動を見ても、彼は猫の扱いに慣れているようだった。


「お母さんの実家に猫がいるから、少しだけね」

 爽太に撫でられたロンドは、ご機嫌な様子で床に転がって、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


 亜梨明もロンドを撫でるが、どうやら彼は爽太の方がお気に入りのようで、それをちょっと寂しく思っていると、今度はフィーネが亜梨明に甘えるように、左脚にしっぽを絡ませてきた。


「ねぇ、フィーネはどっち?」

 亜梨明が聞くと、爽太はフィーネの後ろ姿を見た。


「え~っと……女の子だね」

「へぇ〜、女の子かぁ〜!」

 二匹の性別がわかると、三枚目のキウイを食べたひなたも、兄達に混ざってフィーネとロンドを交互に撫でた。


「はぁ~……ワンちゃんも可愛いけど、猫ちゃんも可愛いなぁ〜!お母さん、猫飼おうよ~!」

 愛くるしい子猫達の姿を見て、ひなたの心は揺れているようだ。


「ワンちゃん貰う約束しちゃったでしょ。……さ、ご飯の準備できたわよ!」

 晴太郎も起きて来たところで、五人は揃って朝ご飯を食べた。


 *


 唯が用意した朝食のメインは、半熟に焼いた目玉焼きと、焼き色が付いたあらびきウィンナー、シャキッとしたレタスが添えられているものだった。


 そしてテーブルの中央にはマーガリンやジャム、たらこマヨネーズ、少し枚数の減ったキウイフルーツと、牛乳やオレンジジュースが置かれている。


 おかずは五人共通だが、主食は好みが分かれているようで、爽太と唯は食パン。

 晴太郎とひなたは白米を食べていたが、晴太郎はお茶碗が空っぽになると、「やっぱり食パンも食べたい」と言って、結局両方食べていた。


 外見は爽太と似ている晴太郎だが、どうやら彼は大食漢らしく、それでもいくら食べても太らない体質だと説明して、亜梨明を驚かせた。


 食欲だけ父の性質を受け継いだひなたは、「ずるいよー!」と晴太郎の肩を叩いて羨ましがり、明るく賑やかな朝ご飯を堪能した亜梨明は、爽太だけでなく、彼の家族も大好きになった。


 楽しい時間にすっかりリラックスしていた亜梨明だが、時計の針が午前九時を過ぎた頃、リビングに置いてある日下家の電話が鳴り響いた。


「――はい、日下です。……あ、おはようございます!はい、居ますよ!」

 唯の応答を聞くところ、電話をかけてきたのは亜梨明の母親だったようで、それを察した途端、亜梨明に緊張が走る。


「亜梨明ちゃん、あと少ししたらお母さんがお迎えに来てくれるって」

 身を縮こませる亜梨明に、唯が言った。


「はい……。うぅっ、すっごく怒られそう……」

 頭の上に、しかめっ面の母と奏音のイメージが浮かび上がり、亜梨明はぶるっと身を震わせる。


 そんな亜梨明の引きつった顔を見た唯は「ははっ」と笑い声を上げた。


「だーいじょうぶよ!あんまり怒らないであげてって、おばさん言っておいたから!」

 唯は明るく言うが、自分がやってしまった行動が全く咎められないとは思えない亜梨明は、むーっと口を真横に結んだまま、小さくなった。


 *


 九時半頃に迎えに来るということなので、亜梨明は唯が洗って、乾燥機にかけてくれた自分の服に着替え、それまでひなたのリクエストでピアノを演奏していた。


 この後のことを思うと、指の動きがぎこちなくて、ミスもしてしまったが、ひなたは以前と同じように「すごーい!上手!」と、大喜びしていた。


 もっと弾いて欲しいと、ひなたがおねだりしたところで、ピンポーン――と、ベルが鳴ったため、小さな演奏会は終了した。


「亜梨明ちゃ~ん!お母さん達、迎えに来たよ!」

「うぅ~っ……」

 唯に呼ばれ、亜梨明が重い腰を上げて立ち上がり、リビングのドアからひょっこり顔を出すと、迎えに来たのは母の明日香だけでなく、父の真琴も一緒だった。


「この度は、大変ご迷惑を……」

 小さくペコペコと謝る明日香に対し、真琴は深々と頭を下げ、謝罪している。


「え~っ、お姉ちゃんもう帰っちゃうの!?」

 亜梨明と少ししかいられなかったことが不満なひなたは、「やだやだ~!」と亜梨明にしがみつき、駄々をこねる。


「お昼から松山さんのとこに行くだろ?また後でね!」

 爽太は、亜梨明にぎゅっと抱き付くひなたを、引き剥がしながら言った。


「うん……」

 亜梨明は、もちもちのほっぺたを膨らまして、残念そうに拗ねるひなたに「また今度ね」と告げて、両親の元へと向かう。


「おじさん、おばさん、爽ちゃん……ありがとうございました」

「はぁい、また遊びに来てね!」

 唯が手を振ると、爽太や晴太郎も手を振り、にこやかな様子でお見送りをする。


 ――パタンと、ドアが静かに閉められると、「さぁてと、残りの食器片付けないと!」と、唯は服の袖を軽く捲り、爽太はまだご機嫌斜めの妹の気分を変えようと、子猫と遊ぶことを提案した。


 すると、プルルルルと、日下家の電話が再び鳴り始めた。


「あらら、今度は誰かしら?――はい、日下です」

 唯はエプロンを付ける手を止め、電話を取った。


「――あ、吉岡さんおはようございます~!」

「みあちゃんち!?」

 今度の電話の相手は、子犬の貰い手を募集していた、ひなたの友達の母親だった。


「あ、生まれたんですね!おめでとうございます!……えっ?えぇ……。そうですか……残念ですが、仕方ないですね。あ、いえ……ひなたにはちゃんと説明しますので……――」

 ピッと、通話終了ボタンを押すと、唯は自分の応答を聞いて、会話の内容を理解したようなひなたを見つめ、困ったような……だけど、どこかちょっぴり安心したような顔で「ふぅ……」と、小さなため息をついた。


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