第111話 おひさまの家で(前編)


 ちゃぷんっ――と、お湯の音を立てて、湯船の中に浸かる亜梨明。

 目を閉じ、冷え切った体が温まっていくことに心地よさを感じて、「ふぅ……」と、小さく息を漏らす。


「タオルと着替え、台の上に置いてあるから使ってね」

「あ、はいっ!」

 浴室の外から聞こえた唯の声に、亜梨明はパシャッと湯音を立てて返事をした。


「はぁ~~っ……」

 今度は両手で顔を覆い、反省するように大きな息を吐く。


 先刻、激しい豪雨と風の中、子猫の身を案じて公園に訪れた亜梨明だが、発見した後、どうすることも出来ずに途方に暮れていた所を、爽太と彼の母が見つけて、亜梨明と子猫を家に連れ帰ったのだ。


 日下家に辿り着くと、爽太の父である晴太郎も、子猫だけでなく、息子の友人である亜梨明までやって来たことに驚いていたが、彼は嫌な顔一つせず、亜梨明を優しく家の中に迎え入れてくれた。


 子猫と同じく、冷たい雨でびしょ濡れになった亜梨明は、寒さで小さく震えていたが、唯が子猫達を夫と息子に任せてすぐ、お風呂の準備をしてくれて、今に至る。


「あぁ~……こんなことになるなんて……」

 フィーネとロンドを助けたいと衝動的になって、書き置きだけで深夜に慌てて家を飛び出し、子猫を助けることも出来ず、爽太と彼の両親にまで迷惑をかけた。


 爽太にも唯達にも、心苦しくて顔を合わせられない……。

 温まる体とは反して、頭の中はみるみる冷静になり、自分の無計画さを恥じる亜梨明だったが、いつまでも湯に浸かっている訳にいかず、観念して浴槽を出た。


 唯に出してもらったバスタオルで体を拭きながら鏡を見ると、青白かった顔色はほんのり赤く染まっており、冷えによって起こったであろう胸の絞扼感こうやくかんも消失していた。


 パジャマのズボンとパーカーは雨に濡れてしまったが、下着類は無事だったので、それを再度着た後、バスタオルの下に置いてあった、薄いグレーと白のボーダー柄で、左の胸元に雪の結晶の刺繍が施されたパジャマに手を伸ばす。


「可愛い。ひなちゃんのかな?」

 亜梨明はパジャマを広げて、頭からそれを被る。

 着替え終えると窮屈ではないが、腕の袖部分やズボンの裾がほんの少しだけ短い。


 *


 亜梨明が洗面所を出てリビングを覗くと、爽太や彼の両親が、黄色の間接照明とオレンジ色のヒーターに照らされた空間で、子猫の体をタオルで拭きながら乾かしていた。


「あの……お風呂ありがとうございました」

 亜梨明が緊張した面持ちで、リビングの入り口前で小さくと言うと、それに気付いた唯が、「あら」と顔を上げて、亜梨明のそばまでやって来た。


「よかった……。さっき、顔色がすごく悪かったから心配したのよ」

 唯はそう言って、亜梨明の顔を両手で包み込み、安心したように目を細めた。


「胸は大丈夫?苦しくない?」

「はい……。あったまったら、良くなりました。心配おかけして、ごめんなさい……」

 唯と目があった途端、亜梨明の目にジワっと涙が滲む。


 唯は、軽く首を横に振ると、「大丈夫よ」と亜梨明の目から流れたばかりの涙を、彼女の顔を覆っていた手の指で拭った。


「さ、湯冷めしちゃうからこっちにおいで。猫ちゃん達と一緒に温まってちょうだい」

 亜梨明は唯に促されて、爽太や子猫達のいるヒーターの前へと進んだ。


「全く……びっくりしたよ。体も心配だけど、こんな遅い時間に女の子が一人で出歩くなんて、危険すぎる……」

 唯とは違い、爽太は厳しい表情と声で亜梨明を叱る。


「ごめん……」

「相楽さん達は?」

「みんな寝てたから、メモだけ残してきた……。この子達を助けなきゃって思ったら、居ても立っても居られなかった。でも結局、見つけてもその後どうしたらいいのかわからなくて、私……なんにも出来なかったっ……!」

 それどころか、逆に助けてもらい、迷惑をかける羽目になった。


 自分が助けに行かなければ、爽太達だけでフィーネとロンドを救助し、こうして世話を掛けずにすんだのに――。


 良かれと思った行動で、更に状況を悪くしてしまったのは、楓の時と合わせて二回目だ。


「…………っ」

 亜梨明が下を向き、膝に置いている手をギュッと握って涙を堪えていると、そんな彼女の頭の上に、大きくて温かい手がポンっと乗せられた。


 それは晴太郎の手で、亜梨明がハッと顔を上げると、彼は爽太とそっくりな目を、眼鏡の奥で優しく光らせていた。


「――でも、君が子猫達を先に見つけたおかげで、爽太がすぐ猫をうちに連れて来ることができたよ」

「え……?」

「亜梨明ちゃんがこの子達を見つけていなかったら、おばさんと爽太は探すのに時間がかかって、子猫達も弱って、もっと大変なことになっていたかもしれない。――だから、もう泣かないで」

「おじさん……」

「子猫達を見つけてくれて、ありがとう」

 亜梨明が涙を溜めた目と、横に閉じた口を震わせていると、晴太郎は亜梨明の頭を撫でながら、穏やかな声でそう言った。


 亜梨明はこくんと首を縦に振って、「はい……」と返事をした。


「今日はうちに泊まるといいよ。明日の朝、ご両親に連絡して迎えにきてもらおう」

「ありがとうございます……」

「うん、ゆっくりしてってね!」

 晴太郎ににっこりと笑いかけられると、彼の言葉に救われた亜梨明もつられて笑顔になった。


 そのやり取りを見ていた爽太も、唯と顔を合わせてそっと微笑んだ。


 *


 子猫の体が八割ほど乾くと、あとは自分で毛づくろいをさせることにした爽太達。


 拭いてもらっている間、ずっと押さえられていたフィーネとロンドは、「やっと自由になった」といった表情で、ヒーターの前に座って、身なりを整えている。


「相楽さんにメッセージ送ったけど、まだ既読つかないね……」

 亜梨明が携帯を持ってこなかったため、爽太が彼女に変わって奏音にメッセージを送った。


「多分、爆睡してると思う……」

 時刻は深夜二時半を過ぎたところで、大抵の人間は深い眠りについている頃だ。

 奏音も相楽姉妹の両親も、まさか亜梨明がこんな時間に家を飛び出していったなど、気付くはずもない。


「さ、亜梨明ちゃん、髪乾かしましょう。ドライヤー持ってきたから」

 唯はそう言って、持って来たドライヤーのスイッチを入れ、亜梨明の髪を乾かし始めた。


「あ、ありがとうございます!」

 ブオォーッと、温かい風が後ろから当てられ、亜梨明の髪がふわりと揺れる。


「ふふっ、長くて量が多いわね〜!それにすっごく柔らかい!」

 唯は、亜梨明の長い髪が絡まないように気を付けながら、丁寧に指を髪に通して、温風を行き渡らせた。


「そ、そうですか……?」

「ええ。そこの子猫ちゃんの毛みたいに柔らかい!」

「あ、それわかるよ!前に亜梨明の髪結ったけど、お母さんの言う通り、同じくらい柔らかくてツヤツヤだった!」

「え?」

「え……」

 爽太の発言に、亜梨明はキョトンとし、爽太の両親はピタリと表情を硬くして、息子を見つめる。


「そ、爽太……お前、女の子の髪の毛結ったの?」

「触らせてもらっただけじゃなくて?」

「うん。ひなの髪だって結ぶじゃないか?それが……?」

 晴太郎と唯が苦笑いする一方で、爽太は「何かおかしい?」という顔で、小首を傾げた。


「爽太~~っ、えっと……。うん、まぁ……亜梨明ちゃんがいいならいいんだけど……。もう少し、家族以外の女の子との距離が……だなぁ」

「お父さんも人のこと言えるの?若い時は爽太以上に天然で――」

「そ、それはもう反省してるよ!」

 亜梨明はドライヤーの音でよく聞こえないが、晴太郎と唯が、なにやら仲睦まじく会話をしている様子を、微笑ましく思った。


 爽太も、話の内容がよくわからないようだが、母の言葉にペコペコと謝る父の姿に「あはは」と軽やかな笑い声を上げた。


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