第106話 イニシャルG(後編)


 穏やかな休日――から一変して、緊急事態発生中の松山家。


 優菜は、緑依風の言いつけ通りに残りの動画を視聴し終えると、ホーム画面に戻して、千草にタブレット端末を届けに行こうとしていた――が、リビングの扉を開けようとした瞬間、ドッタンバッタンと大きな足音と「いやあぁぁぁ~~~~!!」と、騒ぐ姉二人の声を聞いた。


「どうしたの~?」

 優菜がドアを開けると、緑依風と千草がパニックの状態でリビングの中に入ろうとしていた。


「ゆ、優菜どいてっ!こっち来ちゃダメーーっ!!」

「閉めてっ、ドア早く閉めてえぇぇぇ!!」

 緑依風と千草は、リビングに入った瞬間にドアをバタンと閉め、荒い呼吸を繰り返している。


「ゴ、ゴキブリ……ッ!ゴキブリが出たの!」

「ゴキブリってハッキリ言うな!い、イニシャルGって呼んで!!」

「長いよっ!!」

 緑依風と千草がドアを背にしたまま息を荒げて言い合うと「ごきぶり……?」と、姉達の恐怖の対象をよく分かっていない優菜は、小首を傾げる。


「どんなの?みたいっ!!」

「あっ、優菜っ――!」

 好奇心旺盛な優菜は、姉達の言う“ごきぶり”というものがどんな存在なのか知りたくて、緑依風の制止も聞かずに、ドアを元気よく開けて探索しに行ってしまった。


「優菜、ダメっ!戻っておいで!!」

 飛び出す優菜に手を伸ばす緑依風。

 だが、千草はそんな姉の腕を掴み「ま~ま~!」と言って、その行動を止めようとする。


「案外、優菜平気かもしれない!優菜~!黒いキモイ虫見つけたら、やっつけるんだよ~!!」

「はーい!」

 まだ探している途中の優菜の良いお返事が聞こえると、緑依風は「妹に任せるなんて~……」とぼやきながらも、内心少し期待していた。


 これでもし、優菜があの恐ろしいイニシャルGを退治できるとしたら、この先三姉妹だけで家の中で過ごしている時も、殺虫スプレーがなくとも、なんとかやっていけるかもしれないと……。


 ――が、そんなに甘くないことを、緑依風はこの数秒後に思い知らされる。


「うわあぁぁぁぁぁぁ~~~~ん!!!!」

 二階の階段の方から、優菜の火の付いたような泣き声が聞こえてきた。


「ごわいいぃっ、ごわいよおぉぉぉ~~っ!!!!」

 つい三分前の緑依風と千草と同じように、猛ダッシュでリビングに帰ってきた優菜。

 パニックになりすぎて、発する言葉全てに濁音が混ざっている。


「いだっ、ぐろくてっ、ごわいむじっ!!うわぁぁぁぁん~~!!」

「あぁ~……やっぱりダメか……」

 緑依風は、しがみつく優菜を抱き上げて、「うん、怖いよね~」と優しくあやした。


「こらぁ、妹なら姉を助けなさいよ~!」

「……その言葉、千草にもそのまま帰ってくるよ」

「ぐっ……」

 三姉妹の次女という、『姉』と『妹』両方の立ち位置にいる千草は、緑依風の指摘を受けて苦い顔をする。


 *


 それから、約二十分が経過した――。


 リビングのドアは締め切ったままにし、千草はタブレット端末で気になる芸能タレントの情報を調べ始め、調理室に行くことができなくなった緑依風は、今日のところはお菓子作りを諦め、優菜のおままごとに付き合っていた。


「ん……」

「どうしたの優菜?」

 体を小さく揺らして、何やら落ち着かない様子の優菜。


「おしっこ……」

「えっ……」

「えっ……!?」

 優菜の発言に緑依風も、そして千草も体を硬直させた。


「トイレって、そのドア開けなきゃじゃん……」

 千草の言う通り、トイレはリビングの外で、階段の近くにある。

 直接トイレに繋がる扉は無く、トイレに行くには開くしかない。


「ま、まぁ……アレがいるのは二階だし、一階のトイレならだい……じょうぶ、かな?」

「お姉ちゃん、目が大丈夫じゃないよ」

 誰もいない方向に視線を向けて言う緑依風に、千草がツッコミを入れる。


「……っていうか、私もさっきからトイレ行きたいんだよね」

「じゃあ、三人で行こっか……」

 まだ昼下がりの明るい時間に、すぐ近くのトイレに三姉妹で向かうという、何ともおかしな光景だが、状況が状況なので仕方ないと、緑依風は思いながら妹達に付き添った。


 交代で用を済ませた千草と優菜。

 せっかくなので、緑依風も一応トイレを済ませておく。


「さて……。あとは殺虫剤をお母さん達が買ってきてくれるまで、リビングで籠城を続けるか……」

「そだね……二階はまだやつがウロウロしてるだろうし」

 緑依風と千草がそう言いながら周囲を警戒していると、カサッと小さな音がしたことに優菜が気付いた。


「ん……?」

 前も後ろも何もいない。

 左右を見ても、あの黒い虫は見当たらない……。


 それなのに、時折カサカサと音がすると優菜が思ったその時だった。


 ――ポトッ。


 三姉妹の視界に、黒い影が落下してきた。


『え……』

 三姉妹は、ほぼ同時に同じ声を上げ、床へと舞い降りた落下物を見る。

 黒くてテカテカピカピカしたあの


 二階にいたはずの最強の嫌われ者が、「やあ、またお会いできましたね!」と言わんばかりに長い触覚を揺らして、松山姉妹の目の前で挨拶をしている。


『わあぁぁぁぁぁ~~~~っ!!!!』

 一、二秒の沈黙の後、緑依風も千草も優菜も、この世の終わりのような悲鳴を上げた。


「嘘っ、うそうそっ!!なんでっ!?ヤツは上にいたはずなのに!」

「下りてきたんでしょ!」

「ごわいっ、ごわいいぃぃぃ~~!!」

 千草と優菜は、真ん中にいる緑依風にしがみつき、大パニックになっている。


「ど……どうしよう、逃げ道が……」

 三姉妹が今いる場所はトイレ前。

 リビングに繋がる通路の曲がり角にはイニシャルGがおり、逃げることができない。

 トイレに籠るにしても、三人全員入るのには無理な空間だ。


 イニシャルGは、まるで楽しむように触角を動かし、人間の子供の慌てふためく姿を眺めている。


 カサッと一歩前に進めば、姉妹はまた「ひいぃぃぃぃ~!!」と叫んで後ろに下がって行く。


 *


 その頃、風麻は借りた漫画を読み終え、小腹が空いたのでスナック菓子でも食べようかと、自分の部屋から両親と兄弟のいるリビングにやってきた所だった。


『ぎゃあぁぁぁぁぁ~~~~!!!!』

 換気のために開けられた台所の小窓から、松山姉妹の大きな声が入り込んできた。


「あ……?」

 お菓子を探していた風麻も、ゲームをしていた秋麻や冬麻、趣味のビーズアクセサリー作りをしていた伊織や、新聞を読んでいた和麻も、一斉に松山家の方向を見た。


「……風麻」

「はいよ……」

 伊織に呼ばれた風麻は、もう母が何を言うのかわかっていた。


「緑依風ちゃんちアレが出たみたいだから、退治しに行きなさい」

「はいはい……」

 お菓子の代わりに、ハエ叩きを手にした風麻。


「ゴキ退治か⁉俺も行こっ!」

「ぼくも~!」

 秋麻はワクワクした表情で、殺虫スプレーを持ち、何も分かっていない冬麻は、何も持たずに兄達について行った。


 *


「ヤバい……。あいつジワジワこっち来てるよね?」

 千草が自分達とイニシャルGの距離を気にしながら、緑依風に話しかける。


「やだっ、ゆうなっ……!まだじにだくないぃぃぃぃ~~!!」

「大丈夫、死なないよ……!でも、ゴキブリってすごくバイキンだらけって言うよね……。手足に登ってこられたら、そこから変な菌に感染したりとか……」

「こ、怖いこと言うなーっ!!」

 千草が叫ぶと、イニシャルGはまるで嘲笑うかのように、その場でブリリと小さくうごめいた。


『ぎゃあぁぁぁぁぁ~~~~!!!!』

 ほんの小さな動作にも、三姉妹は悲鳴を上げて、一つの塊のようにぴったりとくっつき合う。


「ど、どうしよう……こんな状態で夜までずっと?」

「も、もうこれはしょうがない……!」

 千草は、必死に掴んでいた緑依風の腕から手を離し、わざとキリっとした顔を作って、姉を見上げる。


「お姉ちゃん、姉妹代表として戦ってきて!」

「えっ⁉」

 突然の戦場派遣に、緑依風は顔を引きつらせる。


「お姉ちゃんは姉妹の中で一番偉い!つまり、松山姉妹のリーダーでしょ!ほらっ、頑張れー!頑張れー!!」

「こ、こんな時だけお姉ちゃん扱いしないでよっ!!」

 千草に背中を押され、そうはいくかと足に力を込める緑依風だが、「わあぁぁぁん」と、恐怖に泣き続ける優菜を見ていると、あまりにも可哀相で、なんとかしなきゃという使命感に駆られた。


「う、わ……わかったよ!」

 そう言って、半歩踏み出す緑依風だが、武器は何も無い。

 足も素足で、スリッパすらない。


「(手で叩く?踏みつぶす……?)」

 どちらも嫌だと迷っていると、「来ないならこちらから行きますよ?」と、イニシャルGが緑依風に近付いた。


「――やっぱ、無理いぃぃぃぃ~~っ!!!!」

「ちょっ、お姉ちゃん!?」

 一瞬で白旗を上げて戻ってきた緑依風に、千草は信じられないといった顔になる。


「私だって怖いもん!姉にだって怖い存在はたくさんあるんだから~~!!」

「だからって、諦めるの早すぎでしょ!どーすんのコレ!?」

「おがあざぁぁぁ~~ん!!」

 阿鼻叫喚する松山三姉妹。


 敵に、この状況を哀れに思って立ち去ってくれるような感情があれば、なんとかなるかもしれない。


 しかし、イニシャルGはそんな姉妹を更に絶望させるように、前へ……また前へと進軍してきたのだった。


『いやあぁぁぁぁぁ~~~~っ!!!!』

 もうダメだ……と、思った時だった。


「開けるぞー!!」

 その声と共に、玄関のドアが大きく開け放たれた。


「お前らっ、うちまで声めっちゃ聞こえてんぞ!!」

 三姉妹が玄関を見ると、お隣の坂下三兄弟が、勢揃いで家の中へと入ってきた。


「風麻っ、そこっ!!そこにいる~~っ!!」

 緑依風が目の前のイニシャルGを指差すと、殺虫スプレーを持った秋麻が先陣を切った。


「息止めてろよ~~!!」

 秋麻はそう言って、床の上にいるイニシャルGに向かって、白いスプレーを噴射した。


 モクモクと霧状のものが振りかけられた途端、イニシャルGはもがき苦しむように、右側へと移動し、その隙に緑依風達はリビングに続く通路側へと避難する。


「……っにゃろ、逃げんな!」

 秋麻が更にスプレーを振りまくと、煙から逃れたいイニシャルGは、素早い動きで緑依風達のいる方向へと突き進んだ。


「きゃっ!」

「おにいちゃん、あっち!」

 怯んで身構える緑依風のすぐそばまで迫ったイニシャルG。

 冬麻は小さな指で、敵のいる場所を風麻に示す。


「よっし!!」

 バチン!と、軽快な音と共に、床とハエ叩きに挟まれたイニシャルG。

 風麻がハエ叩きをゆっくり上げると、丸々テカテカしていたイニシャルGは、ぺちゃんこになっていた。


「……ふぅ、退治したぞ」

 まだ周囲に漂ったままの殺虫スプレーを散らすように、手をパタパタとしながら風麻が言うと、妹達を背にして守るような体制をしていた緑依風は、「はぁ~っ……」と、深く息を吐いた。


「助かったよ……。風麻、ありがとう……」

「千草のすっげー叫びが聞こえた時は、何事かと思ったけど、三人揃ってギャーギャー言うからゴキだろうなって……」

「もう、ホントに……ナイスタイミングでした」

 緑依風がもう一度安堵のため息をつくと、風麻は何かに気付いたようにピクっと肩を上下させる。


「ナイスじゃないよ!もっと早く来て欲しかったぁ~!」

「助けてもらっておいて、その言い方は何だよ」

 文句を言う千草に、秋麻が反論する。


「あ~あ、カブトムシさんぺちゃんこ……」

「とうまくん、それカブトムシさんじゃないよ」

 幼い冬麻は、どうやらイニシャルGを別の虫と勘違いしているようだが、優菜が緑依風にしがみついた状態で、違うと教えた。


 *


 退治後。

 坂下兄弟は、潰れたイニシャルGの死骸の処理なども、率先してやってくれた。


 風麻は、手伝うと名乗り出た緑依風がビビっている様子を見て、「やってやるからあっち行ってろ」と、リビングで待つように言った。


 秋麻は死骸をティッシュペーパー越しに掴むと、少しだけからかうように、そのティッシュを千草の前に差し出して悪ふざけしていたが、「ギャー!!」と千草が後ずさりすると、「この辺拭いてないから、まだこっちくんなよ」と言って、殺虫剤と潰れたイニシャルGの体液で汚れた床を、ウェットティッシュで拭いてくれた。


 冬麻は、優菜とおままごとをして、兄達の仕事が終わるのを待っている。


 片付けが全て終わると、緑依風は明日、梨のタルトを作ってお礼に持って行くと坂下兄弟に約束し、兄弟は大喜びして家へと帰って行った。


 ポテトチップスを持って自分の部屋に戻った風麻は、先程の緑依風の言葉を思い出しながら、考え事をしていた。


「そうだ……俺、いつもタイミングが遅いんだ……」

 新学期に、体調を崩した亜梨明をおぶろうとした時も、夏休みやその前もだ。


 何か手助けをする前に、爽太にいつも遅れを取る。

 照れくささや、嫌がられないかという恐れに一歩、声を掛けるタイミングが遅れているし、爽太の行動力の強さに押し負けて、さりげない優しさどころか、もはや頼りない。


「まだ、まだ……負けねぇからな!」

 風麻は自分を奮い立たせるように、パンッと両頬を叩くと、今ここにいないライバルに闘志を燃やし始めた。


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