第105話 イニシャルG(前編)
三連休の日曜日の昼下がり。
風麻は緑依風から借りた漫画を持って、自分の部屋へと戻ってきた。
「はぁ~あ……。今の俺って、ホント脇役って感じだよなぁ~……」
月曜日、緑依風と爽太が二人揃って亜梨明の家へ遊びに行くと言った日。
風麻は冬麻のお守り役として、寄り道せずに真っ直ぐ家へと帰った。
それは、楓の家へ三人で向かうための嘘なのだが、真実を知らない風麻は、家で冬麻と留守番をしながら、緑依風や爽太を羨ましく思っていた。
「あ~……。なんで俺はいっつも、タイミングが悪いんだ……」
風麻が項垂れるように顔を手で覆いこんだ――その瞬間だった。
「ぎぃやぁぁぁぁぁ~~~~っ!!!!」
突然、窓の外から濁った悲鳴が聞こえた。
「……千草、か?」
少しびっくりした風麻だが、ベッドに寝転がって仰向けになり、借りた漫画を読み始めた。
*
ところ変わって、風麻が自分の部屋に戻る少し前の松山家。
緑依風は、風麻を玄関先で見送った後、楓からもらった梨を使って、タルトを作ろうとしていた。
奏音からもらったエプロンを手にし、父がお菓子作りの研究に使う調理室に移動しようとすると、「あぁん!」と、優菜の声が聞こえた。
「まって、まだみてるのぉ~!」
「いいから貸してよ。ちょっと調べたいことあんの!」
「何してるの?」
緑依風がリビングに向かうと、タブレット端末を頭の上に掲げた千草と、それに手を伸ばす優菜がいた。
「かえして!わたし、まだこれみてたのに~ぃ……」
「いいじゃん、お昼食べてからずっと独り占めしてたんだから!」
「おねぇちゃぁぁん~~!!」
優菜は泣き出しそうな顔で、緑依風にタブレットを取り返して欲しいと訴えている。
「ケンカするなら取り上げっ!」
「あっ――!!」
千草よりも背丈のある緑依風は、簡単にタブレットを取り上げて、画面を見る。
「……あと二分ちょっとで終わるじゃない。それ終わったら優菜から千草に交代させるから、少し待ちなよ」
『え~っ!!』
千草だけでなく、優菜もこれで動画を見られるのが最後になることを残念がるように、不満の声を上げる。
「優菜、あんまり動画ばかり見てると、目が悪くなるし疲れちゃうよ。これ見たらしばらくちー姉ちゃんに貸してあげて」
「う……」
優菜は、緑依風に千草に譲るように言われて、くしゃりと顔を歪ませたが、緑依風を困らせて怒られるのは嫌なので、「がまん……」と、小さな声で言いながら、緑依風に抱きついて、この動画を見終えたら千草に貸すことを承諾した。
「うん。また夜になったら、ちょっとだけ見せてあげるからね」
緑依風は、優菜の頭をよしよしと撫でると、今度は千草に向き直った。
「二分半くらい我慢できるでしょ。交代はさせるから少し待ちなさい」
「嫌だね!」
緑依風に反抗的な態度に出る千草は、腕を組んで斜め上に顔をやる。
「私は今見たいものがあるの!」
「待てないなら、パソコンの方使えばいいじゃない」
「やーだっ!起動するのめんどい!!」
「あんたねぇ……!」
緑依風も千草も互いに譲らずに睨み合うと、優菜は「う~っ……」と、声を漏らしながら、姉二人を交互に見ている。
「おねえちゃん……。わたし、おねえさんだから、がまんできる……。パソコン……つけて」
緑依風のために、自分がパソコンで動画の続きを見ると申し出た優菜。
それを聞いた緑依風は、「はぁ……」とため息をついて、優菜の頭をもう一度撫でた。
「ホント、優菜はお姉さんだね……」
そう言って、白けるように千草を見る緑依風。
「ふんっ、なにが『お姉さん』だ……。先に生まれたってだけで、姉ってそんなに偉いわけ?」
千草は面白くなさそうな様子で、緑依風に吐き捨てる。
「お姉ちゃんは昔っからそう!お母さん達の前だけじゃなくて、外でも大人ぶって、いつも偉そうでさ!そうやって、良い子でお姉さんな自分に酔ってるんでしょ?」
「そういうつもりは――!」
いっそ、そうやって酔いしれたらいいのにと、緑依風は思う。
自分がしたくて“良い子”でいられるのなら、どんなに楽しいだろう。
十三年間、母の言いつけに従い続けた結果の、今の性格だ。
「…………っ」
だんまりになってしまった緑依風の様子に、「そろそろ本気で怒られる」と勘違いした千草は、「わーかったよ!」と投げやりな息遣いと共に言うと、リビングから出て行った。
「優菜、観終わったらそれ持ってきて……」
「はぁい……」
優菜は緑依風と千草を交互に見ると、「おねえちゃん、おこってる?」と不安げな顔で聞いた。
「怒ってないよ……」
緑依風はタブレットを優菜に手渡すと、また深いため息をついた。
「終わったら、千草に持って行ってね」
優菜が「うん!」と頷くと、緑依風はダイニングのテーブルの上にあるバスケットから大きな梨を一つ手に取り、調理室に向かおうとした――その時だった。
「ぎぃやぁぁぁぁぁ~~~~っ!!!!」
松山家の空気全体を震わすような、千草の悲鳴。
「うそ……マジで……」
千草の姉となって十一年目の緑依風は、この叫びの原因をすぐに察した。
千草は虫が大の苦手――いや、大嫌いだった。
虫というのは、毛虫や
しかし、今の悲鳴はそれどころではない。
その悲鳴の理由は、蝶やテントウムシなら可愛いと思える緑依風ですら、遭遇したくないものだ。
「お、おぉぉぉぉぉぉ、おねえちゃあぁぁぁんーーーー!!!」
さっきまでの反抗的な態度ではなく、助けを求めるようなその呼びかけに、緑依風は「やだ……っ」と、頭を抱えた。
「ゴ、ゴキ……いや、ジー!!イニシャルGが出たッッ!!」
「やっぱり……っ!!」
千草がそう叫んだ瞬間、緑依風は床に座り込んだ。
イニシャルG――もとい、ゴキブリ。
テカテカした硬い鎧と長い触覚を持つ、嫌われ者の虫だ。
女の子の殆どが、そして男の子でさえも、遭遇すればたちまち震えあがり、逃げ出したくなる存在のイニシャルGが、松山家の屋内に現れたらしい。
「お姉ちゃんっ、スプレー!!殺虫スプレー持ってきてぇぇ!!」
二階から声を翻らせて叫ぶ千草に、緑依風は玄関付近に置いてある殺虫スプレーを持って、妹の救助に向かう。
「~~~~っ!!!!」
なるべく見るのも避けたい、恐ろしい存在。
しかし、殺虫スプレーは玄関にある一本のみだ。
トントンと階段を上がると、千草が腰を抜かして床に転がっている。
「は~っ、助かった!さすがお姉ちゃん!!頼りになる~ぅ!!」
「も~、調子いいことばかり言って……!で、どこ?」
「あ、あそ……あそこ、らへん……?」
千草が目を閉じて、斜め下を向きながら指差した方向を見る緑依風。
――しかし、緑依風は後悔した。
「ま、まってコレ……デカくない!?」
初夏から初秋の暑い時期になると、どうしてもしょっちゅう遭遇してしまう、イニシャルG。
それらは大体赤茶色の小さいもので、菓子作りのために果物の皮などといった、生ゴミを輩出しやすい松山家の勝手口付近を溜まり場としている。
もちろん、家周辺の清潔を保つため
だが、今目の前にいるのは、よく見るタイプの姿ではなく、軽く縦5センチはあるであろう容姿に、黒色の鎧を纏っていた。
「ちょ……コレは……っ!」
「――――ッ!!」
緑依風は目を伏せ、殺虫剤の噴出口を壁にいる目標に向けると、グッと指に力を込め、一気にスプレーを発射させた。
プシュ―――!!……と、勢いよく白い煙が飛び出すはずだった。
だが、予想とは全く違う音が赤いボタンから発せられ、緑依風はゆっくりと目を開けた。
シュッ、シュ……と、頼りない音しか鳴らない。
「え、うそ……」
緑依風が試しにスプレー缶を振ると、缶の中のスプレー液が無い。
「お、おねえ……ちゃん……?」
千草も目を開き、姉の声に不安を覚える。
「スプレー……切らしちゃってる」
「えぇ~~~~っ!?」
千草が再び大きな声を上げると、その声に驚いたのか、それとも敵のピンチをチャンスだと思ったのか、それまで微動だにしなかったイニシャルGは、急にカサカサと動き始めた。
『あぁぁぁぁぁぁ~~~~っ!!!!』
息ぴったりで同時に声を上げ、一階に避難するために階段を駆け下りる緑依風と千草。
坂下家では、風麻が借りた漫画を半分程読み終えたところで、彼はヒロインの心情をじっくりと熟読しているのだった。
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