第100話 すべてが消えた日


 ガラッ、バタバタッ!――と、乱暴に戸を開け閉めする音と、階段を駆け上がる足音に、友江と欣二は何事かと驚きながら、天井を見上げた。


「楓のやつ……まったく、いつまであの態度でいるつもりだっ!」

 欣二が説教をするため、階段を上がろうとすると、「ダメだよあんた!」と、友江が止めた。


「こっちに呼ぶ時に決めたでしょう。楓が立ち直るまで見守ってやるって……」

「だけど――!」

 欣二がもどかしそうにギリっと歯を食いしばる。


美奈子みなこ達が死んで悲しいのは、ワシらだって同じだろうが――。なのに、自分だけが不幸みたいなのを続けられちゃ……あいつらだって、浮かばれないさ……」

 もどかしい想いに拳を握り、肩を震わせる欣二。


「わかってる――……でもまだ、辛抱してちょうだい……」

 その夫の肩に手を添えた友江も、胸の奥に引っかかったままの感情を「ふぅ……」と、息に変えて吐き出した。


 *


 古い畳が敷かれた和室が、楓の部屋だった。

 ここは元々、母が高校時代まで使っていた部屋で、ベッドや鏡や机も母のお古だ。


 楓はベッドの中に潜り、いろんなものから身を守るようにうずくまった。


「何も知らないくせに……!幸せなくせに……っ!」

 腹の底から煮えくり返る感情……。


 楓は、何度も頭の中にこだまする亜梨明の言葉に、まだ怒りが収まらず、すっぽり被った掛布団の中で、ドンドンとマットレスを叩きつけた。


「こんなこと知ったら、天国にいる楓ちゃんのお母さん達、絶対悲しむよ……!」

 憤怒と嫉妬――それに混ざって、父と母の笑顔や声が楓の心に蘇る。


「う……うぅっ、う……ッ!!」

 優しく自分の名を呼んでくれた両親を思い出した途端、楓の口から嗚咽が漏れ始める。


 楓は掛布団から片手だけを出し、マットレスの下に隠していたカッターナイフを手に取った。


 左手の袖を捲り、刃を当てて力いっぱい滑らせる――。


「…………」

 痛みと共に、血がスーッと流れていく。

 生ぬるい血の代わりに、頬を伝う涙が止まり、頭も冷静さを取り戻した。


 エアコンの付いていない部屋は蒸し暑い。

 楓は掛布団から出ると、汗で顔に張り付く髪を避けながら、既に傷だらけの左手首を見つめた。


 *


 一年前の雲一つない、秋晴れの空――。

 楓の父親、昌行まさゆきは、カーテンを開けて大きく伸びをした。


「あ~っ、いい天気だなぁ!せっかくだから今日はお出かけするか!」

 振り返った昌行が、まだ朝食を食べている妻の美奈子と楓に言った。


「楓、どこに行きたい?」

 美奈子がデザートのぶどうを食べながら、楓に問いかける。


「ん~、そうだなぁ……。じゃあ、ショッピングモールに行って、レストランでご飯食べたいな!」

「よし、じゃあみんなでお買い物に行きましょうか!」

「さんせーい!」

 昌行と楓がバンザイをすると、美奈子はそんな夫と娘の様子をクスクスと笑った。


 楓の両親は、長い不妊治療の末に生まれた娘を、とても大事にしていた。

 楓も優しくて愛情深い両親が大好きで、兄妹がいなくても、寂しいなどと思ったことは無く、むしろ二人の愛を独り占めできることを喜ばしく感じる程だった。


 ショッピングモールに訪れた楓達。

 楓は新しい服と靴を買ってもらい、美奈子は食料品や日用品を。

 昌行は趣味のゴルフ用品を眺めていたところを、美奈子に「この間買ったばかりでしょ」とやんわり注意された。


 ショッピングモール内を歩き回っていると、ピカピカのランドセルや、ロフト付きベッド、学習机など、来年の春から小学校に入学する子供向けの展示エリアが、楓達の目に留まった。


「かわいいね」

 楓が、カラフルに並べられたランドセルを見ながら言った。


「楓はもうすぐ、ランドセルとお別れだね!」

「春からは楓もいよいよ中学生だからな。制服姿が楽しみだ!」

「うん!」

 あと数か月経てば、小学校を卒業し、中学生になる。

 今より少しお姉さんになった姿を、早く父と母に見てもらいたい――。


 幼稚園では入園式と卒園式両方に、夫婦そろって出席してくれた。

 小学校の入学式でも、家族揃って門の前で記念撮影をし、それを写真立てに入れて、リビングに飾っている。


 来年の春にはきっと、小学校を卒業した写真と、中学校に入学した写真が増えるだろう。


 楓は春を待ち遠しく思いながら、両親の腕を片方ずつ手に取り、ギュッと自分に寄せて歩いた。


 昌行と美奈子は、まだ少し甘えん坊な娘を見て、ふっと笑みを零した。


 *


 買い物をすべて終えた光月一家。

 ショッピングモール内のレストランエリアは、休日というせいもあり、どこもかしこも満席状態だ。


「並んでるね……」

 楓のリクエストで、今日は洋食がメインのレストランにしようと決めていたが、店外の順番待ち用の椅子も、その椅子の後ろも、たくさんの家族連れが並んで待っている。


「どうする……?」

 昌行が眉を下げながら、美奈子に聞いた。


「う~ん……他の洋食屋さんも、同じような状態だし……」

 美奈子も頬に手を当てて、キョロキョロと周囲を見回した。


「私待てるよ!おしゃべりしたり、スマホ見てたらあっという間だよ!」

「でも、楓お腹すいたでしょ……?」

 美奈子は、先程からぐぅ~と鳴る楓のお腹の様子を心配している。


「……あっ、そうだわ!」

 美奈子はパンっと両手を合わせ、明るい顔になった。


「モールからちょっと歩いたとこに、路面店の同じお店あるじゃない!そこにしましょ!」

「そうだな!もしかしたら、ここよりはすぐに入れるかもしれないし!」

「うん!」

 美奈子の提案で、三人はショッピングモールを出ると、横断歩道を渡り、徒歩十分程離れた同じ系列のレストランで食事をした。


「美味しかったね~!」

 お腹が満たされて、笑顔の楓。


 そんな楓に「また行こうな~!」と、昌行は大きな手のひらで、楓の頭を包むように撫でた。


「来週は、楓の誕生日ね!何が食べたい?」

「え~っ、今はお腹いっぱいだからなんにも考えられないよ~!」

「そりゃそうだ!あっははは!」

 親子三人、仲良く雑談しながら駅に向かって歩く――。


 このいつもの日常が最後になるなんて、誰が想像しただろうか……。


 ブォォォォォッ――!


 数十メートル後ろで、大きなエンジン音が聞こえてくる――。


「きゃあぁぁぁぁっ!!!!」

 そのすぐ後に、女性の悲鳴が聞こえた。


 楓と両親が振り返ると、大型トラックが猛スピードを上げ、クネクネと蛇行運転しながら道路を走っている。


「っぎゃぁ!」

 ドンッと、鈍い音と男性の短い叫びが聞こえた。

 トラックは、楓達がいる歩道の反対側の人を跳ねても、不規則な動きで走り続ける。


「――――!!」

 暴走トラックはスピードを保ったまま、楓達の方向へと走って来た。


「危ないっ!!」

 昌行が盾になるように、美奈子と楓を抱え込もうとする。


 ――だが、その前に昌行は背後をトラックに激突されてしまい、その昌行の体ごと突き飛ばされた瞬間に、美奈子も楓をギュッと抱き締めて、娘を守ろうとした。


「きゃあっ!!」

 母に抱えられた腕の隙間で、楓は頭と腕、足を外壁に打ち付ける。

 ズルッと、体が母と外壁の隙間に滑り落ちると同時に、楓は恐怖で閉じた目にグッと力を込め、両手で頭を覆った。


 トラックは楓達にぶつかった後も、狂ったようなエンジン音を立てながら前進している。


 頭上では、ゴリゴリと何かが削られる音と、ベキベキと金属が折れる音が続き、楓は声にならない悲鳴を喉奥から漏らして、耐えるように身を縮めていた。


 ブォォォォォン……。


 しばらくするとエンジンが止まり、それと同時に削られるような音達も鳴り止んだ。


「――大丈夫ですかっ⁉」

 知らない男の人の声が聞こえた。


「救急車を呼べ!早くッ!!」

「ひでぇ……なんてことだ……」

「ママっ、ママーーっ!!」

 一瞬の静寂の後。

 次々に耳に入ってくる悲痛な叫びに、楓はゆっくりと目を開け、状況を確認しようとする。


 ポタッ――。


 生暖かい何かが、楓の頭の上に落ちた。


「な……に……?」

 顔まで垂れてきた液体を拭うと、それは真っ赤な血液だった。


 恐る恐る上を見ると、額から血を流す母親と、全身真っ赤に染まった父親が、楓を見下ろすような姿で潰されていた。


「あ……っ、あぁ……ぁ……!!」

 ついさっきまで、一緒に笑っていた両親の変わり果てた姿。

 楓は、あまりにむごたらしいその光景に、叫ぶことも、開いた目を閉じることすらもできないまま、二人を見上げ続けた……。


 *


 事故から数日後。

 運転手の男性を含む四名が亡くなったと、ニュースで報道された。


 運転手が暴走した原因は、何年も続けた過重労働によって脳の血管が切れてしまい、朦朧とした状態で、アクセルを踏み込んでいたためだったとも告げられた。


 両親が殺されただけでなく、加害者まで死なれては復讐することもできない――。

 二重の絶望に、楓から笑顔が消えた。


 葬儀の後の親族会議で、楓の家から一番近くに住んでいた父方の叔父一家が、楓を引き取って育てると、真っ先に名乗り出てくれた。


 だが、他所の家庭の幸せな姿を見て、虚しさや苛立ちに心を支配された楓は、部屋に引きこもるか、暴れ狂うように家具や叔父家族に当たり散らし、遂には居場所さえも失くした。


 楓にとって自傷行為は、心の痛みを誤魔化すためのものだ。

 どうしようもないくらいの辛い気持ちを消すために、体に痛みを与える――。


 手首の痛みがあるうちは、事故の記憶、両親の思い出を忘れられた。

 思い出せば、ますます自分が壊れてしまうと思った。


 ――なのに今日は、何度手首を傷付けても、痛みを与えても、ひりつく心の痛みはすぐに復活して、楓を苦しめた。


「なんでっ……なんでよぉっ……!!」

 なんで私だけが生き延びたの……?

 なんでお父さんとお母さんが死ななきゃいけなかったの……?

 なんで、あの子の言葉がこんなに耳にこびりつくの……?


「消えろっ……!消えろ消えろ……っぅ、ぁあ……っ!あぁぁぁ~~っ!!」

 楓は顔をベッドに押し付け、両耳を塞ぎ、声を上げて泣き続けた。


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