第99話 生きたい少女と死にたい少女


 緩やかな坂道を上りきると、そこは十字の交差点になっており、左側に進めば亜梨明の家に続くのだが、亜梨明は曲がらずに、真っ直ぐ歩き続けた。


 先程助けたおばあさんの荷物を、家まで持ち運ぶためだ。


 交差点の道を更に数メートル歩き続けたところで、少し古びた木造建築の家が見えてきた。


「あっ、うちはあの家よ」

 おばあさんの家の前まで辿り着くと、表札には萩原欣二はぎわらきんじ友江ともえと、名前が記されていた。


 きっと、このおばあさんと、おばあさんの夫の名前だろう。

 

「はぁ~、助かったわ。お嬢ちゃんありがとう……」

 友江は、カラカラと家の引き戸を開けると、玄関にお菓子の袋を置き、「お礼するから上がってちょうだい」と、亜梨明を家に招き入れた。


 *


 友江の言葉に甘えて、家の中にお邪魔させてもらった亜梨明。

 友江は、玄関横の居間へと亜梨明を案内し、座布団を持ってくると、その上に座るよう亜梨明に言った。


「お茶を淹れるから、待っててちょうだい」

「はい……」

 畳の上に、薄い敷物を広げ、木目調のしっかりした造りのテーブル。

 井草の香りに混ざって、ほのかにタバコの煙とお線香の匂いもする――。


 亜梨明は、初めて訪れたというのに、この温かみのある家の雰囲気に、どこか懐かしさすら感じて、他人の家だというのに、ついうたた寝したくなるような気分になった。


「お待たせ」

「あっ、はい!おかまいなくっ!!」

 友江の声で、ウトウトした目がぱっちりと開いた亜梨明の前に、冷たいほうじ茶と、ロールケーキが並べられた。

 

「ふふっ……。さ、遠慮しないで食べてちょうだいね」

「はい、いただきます」

 亜梨明は両手を合わせ、フォークを手に持つ。


 すると友江は、小分けに包装されたせんべいや、チョコレート菓子を木製の器に詰めて、それを亜梨明の斜め後ろにある、仏壇の前に持って、お供えを始めた。


「さぁさ、お菓子また買ってきたからね」

 友江は、仏壇に飾られた男女の写真に語り掛けるように言うと、そっと手を合わせた。


 その男女は見た所、まだ三十代後半から四十代前半辺りの外見で、写真立ても写真自体も、そんなに古くないように思える。


 女性の方は、友江に似た口元を緩め、微笑むようにして写っていた。


「…………」

 亜梨明は、一口食べたロールケーキを飲み込みながら、その写真をじっと見つめる。


「あの、私もご挨拶していいですか?」

 亜梨明の申し出に、友江は「えっ?」と驚いたが、すぐに顔をほころばせると、「どうぞ……」と言って、仏壇前の座布団からずれるように移動した。


「食べてる時に煙たくなっちゃうから、お線香はいいわ」

「はい……」

 亜梨明は、手を合わせて目を閉じると、「こんにちは」と「お邪魔してます」という気持ちを込めて、写真の男女に挨拶をした。


 挨拶を済ませると、友江は「続き食べてね」と言いながら、亜梨明の正面に座って、亜梨明と同じロールケーキを食べ始めた。


「その写真はね、娘と婿なのよ……。去年、交通事故で亡くなってね」

 友江は仏壇に目を移して、静かに言った。


「そうだったんですか……」

 まだ年若い夫婦。

 友江の心情を思うと、亜梨明の心がキュッと痛む。


「――そういえば、あなた中学生?」

 友江は、暗くなった空気を変えるような、明るい声にして聞いた。


「はい、中学一年生です!」

「そうなの〜!それじゃあ、うちの孫と同い年だわ!」

「お孫さん?」

「そうよ、夏城中学校に通ってるの。もしかしたら、知ってるかもしれないわねぇ~」

 友江がお茶をすするように飲むと、「ただいま」と、しわがれた声が聞こえた。


 亜梨明と友江のいる居間に、少しがに股の老人男性が入ってくる。

 先程の表札に書いてあった、友江の夫で、家主の欣二だ。


「おじいさんお帰りなさい。……あら!りんごがたくさん!」

 欣二の手には、白いビニール袋いっぱいに詰められたりんごがある。


「秋山の駅前で、移動販売があってなぁ~!安く売られてたから、つい買いすぎちまった!」

「まったくもう、そんなにたくさん食べられないでしょうに〜……」

 友江が呆れていると、欣二が亜梨明に気付いた。


「お客さんかい?」

「お邪魔してます」

 亜梨明は座ったままペコリと頭を下げた。


「さっき助けていただいたのよ。――あっ、ちょうどいいわ!よかったらりんご何個か持って帰ってちょうだい」

 友江は、赤くて艶々した美味しそうなりんごを二、三個取り出して、亜梨明の目の前に置いた。


「え、でも……お菓子もいただいたのに悪いです……」

 亜梨明が両手をかざして、首を横に振りながら断ると、「あったって食べきれないんだから、もらってちょうだい」と、友江が笑顔で言った。


「……じゃあ、もらっちゃいますね!」

 亜梨明は友江の厚意に甘えて、りんごをいただくことにした。


 ――タンタンタン。


「ん……?」

 亜梨明がりんごをエコバックに入れていると、家の中で誰かの足音が聞こえた。

 しかし、表札に記してあったと思われる夫婦は、亜梨明と共にこの部屋にいる。


「あ、孫だわ。起きたのね……」

 亜梨明の視界の先にある振り子時計の針は、十一時五十五分と示している


「あの子はまだ寝てたのか?」

 欣二がしょうがないなという顔で言った。


「しっ……今は、そっとしておいてあげて」

 友江は人差し指を口の前に立て、夫に小声で注意した。


「…………」

 ――黒くて薄い人影が、居間の入り口前に作られる。

 ゆっくりとした動作で入ってきたのは、二組の転校生、光月楓だった。


「楓ちゃんっ!?」

 亜梨明が驚いて声を上げると、寝ぼけ眼だった楓の顔が、一気に険しくなった。


「なんで、あなたがいるの……!」

 薄い長袖のシャツに、デニムのパンツを履いた姿の楓は、亜梨明をキッと睨みつけると、ドスドスと床を鳴らしながら、玄関に向かう。


「コラっ、楓っ!どこに行くんだっ!!」

 欣二が叱るような口調で楓の背に叫ぶが、楓は足早に家の外へと出て行ってしまった。


「おじいさんっ――!あ……ごめんねお嬢ちゃん」

 友江は夫を宥めると、背後にいる亜梨明に振り返って謝った。


「いえ……」

「孫と、知り合いだったのね……」

「知り合い、というか……」

 亜梨明は膝元のスカートをキュッと握り、縁側に移動する欣二の動きを目で追った。


 欣二は、亜梨明と友江に気まずそうに背を向けて、胡坐をかいて座った。

 友江も「はぁ……」と小さなため息をつき、組み合わせた両手を見つめるように、下を向いた。


「…………」

 しばしの沈黙の後――亜梨明は思い切って、楓のことを聞いて見ることにした。


「あのぅ……おばあさんの娘さん夫婦って、もしかして……楓ちゃんの……」

 亜梨明が恐る恐る質問すると、友江はそっと顔を上げ、口を開いた。


「――そう。その二人は、楓のお父さんとお母さん……。去年、楓の目の前で二人とも死んでしまったの。――楓も……軽い怪我をしたけど、二人が身を呈して守ったおかげで、命は無事だったわ」

「そう……だったん、ですか……」

 友江は仏壇前に移動し、自分の娘の写真を手に取った。


「子供がね……なかなかできないって、何年もずっと悩んでて。でもようやく授かった時、本当に嬉しそうだった。だから、なんとしてでも娘だけは守らなきゃって、必死だったんでしょうね……」

 友江は娘の写真を優しく撫でた後、「でもねっ……」と、涙に声を詰まらせ、鼻をすすった。


 欣二は友江の横顔を見た後、友江が写真を仏壇に戻し始めると同時に再び顔を隠し、タバコを取り出してライターの火を点けた。


 指先で涙を拭いた友江は、「ごめんなさいね……」と亜梨明に謝り、体を彼女の正面になるように向けて、話を続けた。


「楓は……あの事故で心が不安定になってしまって……。両親がいなくなってこれ以上環境を変えないようにと思って、最初は近くの親戚の方に引き取ってもらったんだけど、上手くいかなくて……。それで、最近私達の所に呼んだの……」

「…………」

 欣二の吐いたタバコの煙は、僅かに開け放たれた窓の外へと逃げていく……。

 空へ――遠い空へと昇って消えゆく白い煙と、ボーンと、正午を知らせる振り子時計の音が、三人の空間を余計に寂しくさせた。


 *


「お茶とケーキ……あと、りんごも……本当に、ありがとございました」

 亜梨明は、玄関先まで見送ってくれた萩原夫婦にお辞儀をすると、二人に背を向けて、家に向かって歩き出した。


「また来てね……」

 友江は門の外へ一歩出ると、振り返った亜梨明に手を振り、弱く笑った。


 亜梨明は、もう一度軽く頭を下げて、再び歩き出す――。


「…………」

 数メートル歩いたところで、亜梨明はピタッと足を止め、また後ろを振り返る。


 カラカラと戸を閉める音を遠くに聞き、夫婦が家の中へ入ったことを確認すると、亜梨明は萩原家のある方向に戻るように歩きだした。


 亜梨明はそのまま萩原家を通り過ぎると、春ヶ崎方面へと続く道路に向かって歩いて行く――。

 先程、楓が家を出て行った時、彼女がこちらの方向に走って行くのを見たからだった。


「(やっぱり、放っておけないよ……!)」

 緑依風に言われた言葉が浮かんでも、楓の事情を知ってしまった亜梨明に、もう彼女に干渉しないということは不可能だった。


 命がけで娘を守ったという、楓の両親――。

 亜梨明は、それなら余計に、楓に自分の体を傷付ける行為をやめさせなければと思った。


 自分をもっと大切にして欲しい――。

 爽太に言われた言葉を、楓にも伝えたい。


 亜梨明がそう思いながら、目を凝らして楓を探していると、いつの間にか住宅街から車の通りが多い交差点に出た。


 そして、その先には楓と思しき少女の後ろ姿が見える。

 少し急ぎ足で向かおうと思った亜梨明だったが、ふと楓の様子を不可解に思った。


 楓が立ち止まっている位置は横断歩道で、信号は青色だ。

 ――にも関わらず、彼女はそれを渡らずに、まるで何かを待つようにじっと佇んでいる。


 チカチカと、歩行者用の信号は点滅し、赤色に変わる。

 停止線で止まっていた先頭の車が動き出し、少し間を開けたところで、白い自動車が横断歩道に迫ってきた……その瞬間だった――!


 楓は、突然車の前に向かって走り出し、横断歩道の真ん中で身を固めた。


「楓ちゃんっ――!!」

 亜梨明の叫び――そして、クラクションの音と、キキーッ!!という、タイヤがアスファルトと強く擦れる音がその場に響く。


 轢かれると思った。

 ――だがしかし、車は幸運にも、楓まであと数センチという所で止まった。


「何やってんだッ!危ねぇだろがッ!!」

 坊主頭のおじさんが、楓に怒鳴り声をあげた。


「…………っ!」

 楓は両手両足を地面につけてその場に座り込み、車は楓を避けて走り去った。


「かえ、でちゃん……っ」

 亜梨明は、クラクションが鳴り響く横断歩道に出て行き、楓の腕を引っ張り上げる。


「立って……こっち、きて……!」

「…………」

 楓を歩道まで移動させると、亜梨明の体からも力が抜けていき、先程楓が立っていた場所に、二人でペタリと座り込む。


「楓ちゃんっ……!」

「…………」

「やめてよっ……!こんなこと知ったら、天国にいる楓ちゃんのお母さん達、絶対悲しむよ……!」

 楓が死んでしまうと思った。

 その恐怖に震える手で、亜梨明は楓の両腕を強く掴み、泣くのを堪えながら言った。


「悲しむなんて……そんなのわからないじゃない。もしかしたら、待っててくれてるかもしれない……」

 楓はそう言って、空を見上げた。


「――私は、死にたいの……」

「……っ、そんなこと言わないでっ!!」

 亜梨明の瞳から、堪えきれなかった涙が落ちる。


「そんな……死にたい、なんて……そんなことっ……!」

 衝撃的な光景と、泣くことで心臓に負担がかかったのか、胸の中心が重く苦しい。


 ――それでも亜梨明は、押さえたくなる自分の真ん中に手を移動させず、楓が逃げ去ってしまわぬよう、彼女の腕を離さなかった。


「楓ちゃん……あのね。私、小さい頃から体が弱くて、入院ばかりしてて……病院で、いろんな人が死んじゃうの、たくさん見てきたの……」

 亜梨明が話し始めると、楓は空を見上げるのをやめて、亜梨明の顔を見た。


「……知ってる人、大切な人がいなくなっちゃうのって、本当に悲しいし、寂しい……。だから私も、楓ちゃんの悲しい気持ち……すごくわかるよ……」

「…………!」

 楓はピクっと腕を震わせ、こうべを垂らす――。

 亜梨明は、その腕を握る手に更に力を込め、楓に想いを伝えようと言葉を続けた。


「……でもね、楓ちゃん!何があっても生きなきゃ!与えられた命を自分から終わらせちゃダメだよ!!辛くても、苦しくても……頑張って前を向いて、一生懸命生きてたら、きっと――!」

「……生きてたら、いいことある……って?」

「――えっ?」

 項垂れていた楓が、頭をゆっくりと上げる。


 目を赤くし、憤りを露わにする楓に、亜梨明はひるんで彼女の腕から手を離した。


「あなたの“知ってる人”ってのは、同じ病院の友達?顔見知り……?どうせあなたの両親や家族は、今も元気に生きて、あなたのそばにいるんでしょ……?」

「そ、それは……」

「それなのに、気持ちがわかる?前を向け?……ふざけないで!」

 楓は一喝すると、亜梨明を睨む目付きを更に鋭くさせた。


「一番大好きで、大切な人を目の前で失った私の気持ちっ――!あんたなんかに、わかるわけないじゃないっ!!」

「…………‼︎」

 亜梨明は後悔するように目をカッと開き、一筋、二筋と涙を流した。


「そんなのと一緒にしないでっ!知ったような口聞いて、軽々しく同情なんてしないでッ――!!」

「……あっ!」

 楓はすくっと立ち上がると、狼狽えたまま、涙を流す亜梨明を置き去りにして、走り去ってしまった。


「か、かえでちゃ……っ!まって……待ってっ!!」

 ようやく発することができた声で、必死に楓を呼び止めようとする亜梨明。

 ――だが、楓は戻ってくることは無く、あっという間に亜梨明の視界から見えなくなってしまった。


 歩行者用の信号は再び青色に変わり、そしてまた点滅して、赤色に戻る――。


「…………」

 亜梨明は地面に落としたままの荷物を持ち直し、ゆっくり立ち上がると、力無い足取りで自分の家へと帰った。


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