第98話 傷
一年一組の教室に戻った亜梨明、爽太、緑依風。
落ち着きを取り戻した亜梨明は、先程何があったのかをゆっくり、ゆっくりと説明した。
「自傷行為……」
亜梨明から、楓が自分自身の手首を切りつけたことを聞いた爽太は、眉間にシワを寄せた。
三人は、楓が何故、この暑い時期でも長袖の服を纏っているのか察した。
彼女が自分の体を傷付けたのは、恐らく今日が初めてのことでは無く、これまでにも繰り返して、その傷を隠すためのものだったに違いない。
楓が、私服姿でも長袖の服を着用していたのを目撃した爽太は、特にそれを強く感じていた。
「なんで……あんなこと、したんだろう……」
楓の行為を目のあたりにした亜梨明は、その衝撃的な光景が頭から離れず、脳裏に蘇るたび、涙を滲ませた。
「わからないけど……。そうしたくなることでもあったのかな……」
「前の学校でいじめ、とか?それで、精神的に辛くてしちゃうとか?」
緑依風が楓の動機を推測した。
「前の学校での出来事なら、もうここに来たら関係ないでしょ?」
亜梨明が緑依風の考えに反論する。
「“関係ない”とは言えないよ。もし、松山さんの言う通りなら、新しい学校に来ても、前の学校での嫌なことがフラッシュバックして、それによってあんなことをしたくなる衝動に駆られたのかもしれないし……。心の傷っていうのは、外傷よりも治すことに時間がいるものもある……」
「…………」
爽太の言葉を聞いて、亜梨明も緑依風も悲しげに俯いた。
*
「とりあえず、帰ろっか……」
教室の掛け時計を見た緑依風の言葉を合図に、解散することにした三人。
爽太は、大幅に遅れたが、これから部活に向かうと亜梨明達に告げた。
「――松山さん、悪いけど亜梨明を家まで送ってもらえないかな……」
階段を下りる途中で、爽太が緑依風に頼んだ。
「もちろん、そのつもりだよ。……亜梨明ちゃん、大丈夫?」
「あ……」
憔悴した顔で、力無く階段を下りる亜梨明を心配するように、緑依風は顔を覗き込みながら聞いた。
「……うん、多分びっくりしちゃっただけだから……」
少し前に、自分が泣いていた場所に視線を向けながら、亜梨明はそう答えた。
――だが、それは『違う』と、亜梨明は答えておきながら違和感を覚える。
確かに驚愕した。
亜梨明自身も、予期せぬ出来事で怪我をすることや、治療のために体にメスを入れたり、針を挿すことは、これまで何度もあった。
だが、自ら刃物で体を傷付け、しかも場合によっては命に関わる場所を、わざと切りつけるなど、亜梨明には理解できない行為であり、とても恐ろしく感じたのだ。
自分が怪我をしたわけでもないのに、亜梨明は何故か痛く思える左手首を、そっと押さえる――。
帰り道では、そんな亜梨明の考えを他のことに向けようと、緑依風が気遣ってくれたが、重苦しい気持ちが、緑依風の声を遮ってしまい、その内容は亜梨明の頭に三分の一も入ってこなかった。
「……緑依風ちゃん、ありがとう」
家の前に辿り着き、亜梨明は緑依風にお礼を伝えた。
「どういたしまして」
緑依風は柔らかく微笑み、亜梨明の顔を見つめる。
「――ねぇ、緑依風ちゃん。私、楓ちゃんに何かしてあげられないかなぁ……」
緑依風は「えっ?」と声を上げた後、困ったように眉を下げた。
「えっと……」
「楓ちゃんがもし、前の学校で何かあったなら、それを忘れさせてあげられるようなこととか、もうあんなことしないようにしてあげられることとか……!」
肩に掛けている鞄の持ち手部分をギュッと握り締め、亜梨明は緑依風に提案する――が、彼女はますます困った顔になり、小さく下を向いた。
「あのね、亜梨明ちゃん……。私は、そっとしておいた方がいいと思うな」
「どうして!緑依風ちゃんは、このままでいいって思うの!?」
「そうじゃないけどね……。光月さんが関わらない方がいいって言ったのは、光月さん自身が、そのことに触れて欲しくないんじゃないかなって、私は思うの……」
「…………」
亜梨明が落ち込むように俯くと、「もちろん、聞いてもらって気持ちが楽になることもあるよ!」と、緑依風は元気の無くなった亜梨明に、少し慌てた口調で言った。
「――でもね、そういう場合もあるの。光月さんがどっちなのかはわからないけど、しばらく様子を見ようよ……」
「うん……わかった」
亜梨明は、歯痒い気持ちになりつつも、緑依風に言われた通り、楓に何もしないことを選んだ。
*
土曜日。
亜梨明は、好きな漫画の新刊が発売されたので、その本を買いに行くついでに、母に頼まれたおつかいの品物も購入して、家へと帰る途中だった。
結局、楓はあの事件から二日間、学校に登校しなかった。
楓の怪我の具合が気になった亜梨明は、せめて様子だけでも伺おうと、こっそり二組の教室を覗いたり、楓の靴箱を見てみたが、靴箱の中身は上靴のままで、彼女が登校していないことを示していた。
緑依風に言われたせいもあり、楓に直接かかわることこそやめておこうと決めたが、大好きなピアノを弾いている時も、宿題や他のことをしている最中も、楓のことがふとした瞬間に思い出されて、心配になる。
そもそも、彼女の家族はこのことを知っているのだろうか……。
それとも、何も知らないままなのだろうか――?
亜梨明が緩やかな坂道を上りながら考えていると、数メートル前を歩いているおばあさんの布製の手提げ袋から、バリっと何かが裂けるような音が聞こえた。
それと同時に、おばあさんの袋の下からは、ジャガイモ、めんつゆのビンなど、様々な食材が落ち、坂道を転がりながら、亜梨明の目の前に迫ってくる。
「わっ、わ、わぁ~~~!!」
亜梨明はとっさにしゃがみ込み、ジャガイモ一個と、めんつゆのビンがこれ以上転がらぬよう、手で押さえ込んだ。
「あららっ!」
おばあさんも、もう一つのジャガイモと、塩が入った青い蓋のビンを慌てて拾った。
亜梨明は、拾った食材を届けるため、アスファルトに座って、これ以上食材が転がり落ちなかったことにホッと安心する、おばあさんに近付いた。
「はい、どうぞ」
「あら、お嬢ちゃんありがとう~」
亜梨明からジャガイモとめんつゆを受け取ったおばあさんは、申し訳なさそうな笑みで、亜梨明にお礼を言った。
「いえいえ、気にしないでください」
「ホントごめんねぇ〜……」
おばあさんは、亜梨明から受け取った食材を、再び袋に入れようとしたが、袋の中身を見た途端「あらっ!?」と、高い声を上げて、驚いた。
「あ……」
「まぁ、どうしましょう~……」
おばあさんの手提げ袋には、大きな穴が開いている。
「困ったわねぇ~……。何回も縫い直して使っていたのが良くなかったのかねぇ~」
おばあさんが袋の中を覗き込むと、穴からはまた食材がポトポトと地面に落ちていき、もうこの中に荷物を詰めることは出来なさそうだった。
「うちまで、まだ距離があるのに……。予備のエコバックも無いし……」
途方に暮れるおばあさんは、荷物と袋、まだ続く坂道を見て、困り果てた様子だ。
「あの、私のエコバッグまだたくさん入りますから、よかったらおうちまで荷物お運びしますよ!」
亜梨明は、まだ余裕のある自分のエコバッグを持ち上げながら言った。
「まぁっ!ありがとうねぇ〜!」
亜梨明の申し出に、おばあさんはとても感謝しながら、落ちた荷物の半分程を亜梨明のエコバックに入れ、お菓子が入った少し大きな袋系の荷物は、自分の両腕に抱えて、立ち上がった。
「家まではこのまま真っ直ぐなの。そんなに遠くないけど、でもこの荷物を置いて、往復して運ぶのには骨が折れちゃいそうで……本当に助かるわぁ~!」
おばあさんはそう言って、亜梨明を家まで案内した。
「はい、任せてください!」
亜梨明は、おばあさんの役に立てていることが嬉しくて、ちょっぴり重い荷物を運んでいるにもかかわらず、ふわふわと浮足立つような、軽やかな気持ちでおばあさんについていった。
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