第95話 助けられ、助け合う
下駄箱で靴を履き替えた亜梨明は、体育館に向かう奏音と別れ、爽太、緑依風、風麻の三人と共に、校門に向かって歩いた。
校門を出ると、亜梨明は近くの段差に腰を掛け、母の明日香に体調が悪いことを伝えるメッセージを送った。
「既読付かない……。用事終わってないのかな……」
亜梨明は、もし可能であれば、母親に学校まで迎えに来てもらうことも検討していたのだが、どうやらメッセージに気付いていないようで、返事は来なかった。
時折不自然な動きをする心臓の違和感に、亜梨明がギュッと身を縮めると、隣に座る緑依風はそれを落ち着かせようと、支え持つ亜梨明の肩や腕を、優しくさすった。
「待っててもらってごめんね。やっぱりダメだった……」
亜梨明は、すぐそばで立って待っていた爽太と風麻に謝った。
「気にすんなよ!」
「うん、ゆっくり帰ろう」
「ありがとう……」
亜梨明は、緑依風に支えられながら立ち上がると、二人にお礼を言った。
「あ……」
亜梨明の視線の先を、見慣れぬ人物が横切った。
豊かな長い髪をハーフアップにした少女は、気温が高くてうだる暑さにも関わらず、長袖のサマーカーディガンを纏い、歩いている。
背丈は、緑依風よりやや低いと言ったところだろうか。
「うわ、暑くねぇのかよ……」
「――あ、あの子だよ。二組の転校生」
緑依風が小声で説明した。
「……寒がり、なのかな?」
亜梨明は、すでに数メートル先を歩く転校生の姿を見ながら言った。
「日焼け対策じゃない?紫外線とか、すごく気にしてるのかもよ」
緑依風が言うと、三人は「なるほど」と、納得したように頷いた。
半袖姿の生徒の中を、長袖姿で歩く転校生。
少し離れた場所にいても、その姿は目立ってしまっていた。
*
細い路側帯の内側を、亜梨明は緑依風に歩幅を合わせてもらいながら、ゆっくりと歩いている。
前では、爽太や風麻が時々後ろを振り返りながら、亜梨明の様子を伺っていた。
「……っふ、はぁ……っ」
平坦な道を歩いていても、だんだんと息が上がり、普段ならあっという間に通過する電信柱までが、とても遠く感じる。
視界も、グラグラと揺れる――。
亜梨明は、青白い肌に玉のような汗を浮かべて、一歩、また一歩と足を前に運ぶが、とうとうその場にしゃがみ込み、熱を持つアスファルトに片膝をついてしまった。
「亜梨明ちゃん、大丈夫?」
緑依風もしゃがみ込み、とても心配した面持ちで声を掛けた。
「なんか……歩くと景色が揺れて、余計に気持ち悪くて……」
目を閉じてみたが、めまいの症状も、息切れの症状も軽減されず、亜梨明は立ち上がることさえも出来なくなっていた、
「動けないなら、俺運ぶよ」
「いや、それは僕がやるから、風麻は鞄持ってくれる?」
爽太は風麻に亜梨明の鞄を預けると、亜梨明の目の前に背を向けて座り込んだ。
「じゃあ、日下の鞄は私が持つよ。私達も家まで付いていくね!亜梨明ちゃん、掴まれる?」
「うん……ごめんね。みんなおうち別方向なのに……」
亜梨明は、か細い声で三人に謝った。
「大丈夫、大丈夫!」
緑依風が亜梨明を安心させようと、明るく笑顔を向ける。
「……ありがとう」
緑依風の笑顔に少し気持ちが解れた亜梨明は、小さく笑った。
「よっと……」
爽太は、背中に乗せた亜梨明を落とさないよう、腕にしっかり力を入れて、なるべく静かに歩くことを心がけた。
「家に着くまで寝ててもいいよ?目開けてたら、視界揺れちゃうでしょ?」
「うん……。じゃあ、目は閉じておくね」
亜梨明は目をつぶり、爽太の背中に体を預けた。
体の不調はまだ続くが、彼の背から伝わる体温や、彼自身の呼吸による小さな揺れは、亜梨明に安心感を与えてくれた。
その感覚にほんの少し、亜梨明の表情も柔らかくなる。
緑依風はそれに気付き、そっと微笑む。
正午が近付き、気温はますます上昇していく――。
亜梨明を背負って歩く爽太は、きっと三人の中でも一番暑く感じているだろう。
――だが、亜梨明を助けたいと願う爽太の表情は、険しくなるどころか達成感に満ちており、生き生きとしている。
先頭を歩く風麻だけは、ムスッとした顔のまま、背後の爽太に不満を感じていた。
*
相楽家の家の前に到着すると、亜梨明は爽太に背中から降ろしてもらい、鞄から鍵を取り出そうとしていた。
爽太は、亜梨明が家の鍵を探している間に、緑依風から預けた鞄を受け取っていた。
「亜梨明ちゃん、お大事に」
「うん。緑依風ちゃんも坂下くんも本当にありがとう……」
「おう……」
亜梨明のお礼に、緑依風は笑顔だけで応え、風麻は短い返事をした。
「日下は、亜梨明ちゃんの親が帰ってくるまで、ちゃんと看てあげてね」
「もちろんだ。大丈夫、任せて」
爽太に亜梨明を託した緑依風達は、元来た道を歩き始め、亜梨明は鍵を回して、ドアを開けた。
ガチャリ――と、取っ手を引っ張り、亜梨明が先に家の中に入ると、爽太もそれに続いた。
「暑いよね……?エアコン入れるね。あとお茶……」
亜梨明はそう言って、靴を脱いで玄関に上がろうとしたが、大きく横によろめき、転倒しそうになった。
「おっと――!」
爽太は、転びそうになった亜梨明をすかさず支え、そのままリビングのソファーまで連れて行った。
「まだ無理しないで。エアコンのリモコンこれかな?お茶も僕が淹れるから、冷蔵庫開けさせてもらうね。それからタオルも借りていい?」
「うん、ありがとう……」
亜梨明がソファーにもたれていると、爽太は冷たい麦茶と、氷水で冷やした濡れタオルを作って、彼女の隣に座った。
「横になって、あとこれ――タオルで顔とか首拭いて。冷たくて気持ちいいよ」
「うん……。ホントだ、ベタベタした汗だったから、すごく気持ちいい……」
亜梨明は爽太に言われた通り、ソファーに寝転がり、爽太はローテーブルの下に置いてあったうちわを見つけると、「部屋が涼しくなるまで、これで……」と言って、彼女の顔周りを扇いでくれた。
亜梨明は濡れタオルを目の上に置き、「ふぅ……」と息を吐く。
体を平らにしたおかげなのか、めまいの症状と不整脈も落ち着いてきた。
部屋の温度も少しずつ下がってきて、亜梨明が爽太に扇ぐのを「もういいよ」と、言おうとした時だった。
「あのさ――」
爽太の声が、先に亜梨明の耳に降ってきた。
「これから僕、亜梨明のこと毎回家まで送ってもいい?」
「えっ?」
亜梨明は驚き、そっとタオルを目の上から取った。
「毎日は無理だけど、僕の部活が無い日で、亜梨明が相楽さんと帰れない日だけ。今日みたいなことがあったら、一人で家に帰すのは心配でたまらないし、下校途中に具合が悪くなった時、一緒にいれたらいいかなって……」
「そこまでお世話になるのは……」
亜梨明と爽太の家は、決して遠すぎるわけでもないが、近くもない。
交差点の坂道を、それぞれ反対方向に上っていく。
爽太の負担が増えるばかりで、それは申し訳なかった。
「ごめん、お節介だよね……」
亜梨明の困った表情を見て、爽太は提案したことを後悔したように謝った。
「――違うの!」
亜梨明はガバッと起き上がり、爽太の誤解を解こうとしたが、爽太は上半身を起こした亜梨明の肩に静かに触れて、「僕があんまり喋ると、亜梨明まで喋らせちゃうね……」と言って、もう一度寝かせようとした。
「変なこと言ってごめん。寝てて……」
爽太の弱い笑顔を見てしまっては、もう眠ることは無理だった。
「……私、爽ちゃんに助けてもらって、お節介だなんて思ったこと無いよ」
亜梨明は横になりながら、自分から少し目を逸らしていた爽太に言った。
「いつも嬉しいの。爽ちゃんが私の体調気遣ってくれたり、何か挑戦する時もそばにいて、優しく見守ってくれること……」
亜梨明の言葉に、爽太は少しだけ目を開いて、逸らしていた視線を彼女に移した。
「――でもね、してもらうばかりで何も返せない自分が嫌なの。爽ちゃんの役に立ちたいって言ったくせに、何にも出来てないままだから……」
「…………」
夏休み、病院のデイルームで交わした約束。
爽太は「頼る」と言ってくれたが、あの日からも、亜梨明が爽太に頼られる場面は無く、相変わらず助けてもらうばかりだ。
言葉だけの約束は意味が無い。
もしここで爽太が、「そんなこと無い」と言ったって、亜梨明の悔しい気持ちは晴れない。
今度は、亜梨明の方が爽太に顔を見られるのが辛くなり、退けたタオルで顔を隠した。
――カランと、麦茶の中の氷がグラスを鳴らす。
どうやら、爽太がお茶を一口飲んだようで、コクンとした音の後に、「ふぅ……」とため息が聞こえた。
「……僕もね、亜梨明に頼ってもらうのが嬉しいんだよ」
静かで穏やかな爽太の声に、亜梨明はピクっと反応した。
「君に頼ってもらって嫌だなんて、一度も思ったこと無い。亜梨明の役に立てた時、誰かの助けが無いと生きていけなかった僕でも、ちゃんと役立てるんだって、嬉しくなる」
爽太は軽く自分の指を組み合わせ、昔を思い出すような表情で、亜梨明に語り続けた。
「――亜梨明が喜んでくれると、僕はあの頃の悔しさとか、もどかしさから報われたような気持ちになれる。だから、役に立ちたいなんて言うけど……結局、僕の自己満足なんだ」
爽太はそう言いながら、「ははっ」と、自身の可笑しさを笑った。
亜梨明は、爽太の乾いた笑い声を聞くと、「もし……」と口を開いて、顔を隠していた濡れタオルを取った。
「――ねぇ、爽ちゃん。もし、私が頼ることで、爽ちゃんの心が救われるなら……奏音がいない日は、一緒に帰ってくれる?」
「えっ?」
「これで、私も爽ちゃんにお返しできる……?」
初めて知った、爽太の想い。
爽太も今の自分と同じように、悔しさを持っていたこと。
亜梨明は、その爽太の悔しさやもどかしさを、全て共感できる。
それならば、答えは一つだ。
自分を助けるたびに、爽太自身の気持ちを救うことに繋がっているならば、爽太を頼ることで彼を救いたい、役に立ちたい――。
「うん……」
亜梨明の言葉に爽太はゆっくり頷いた。
「ありがとう、亜梨明」
「よかった……」
爽太の陽だまりのような微笑みが、亜梨明の気持ちを温かくする。
爽太は亜梨明に頼られることで、心が満たされる。
亜梨明は爽太を頼ることで、彼の心の傷を癒すことが出来る。
助けられ、助け合う関係――。
一方通行ではない、その関係に安心すると、亜梨明は再び目を閉じて……爽太は、何も言わずに亜梨明の母親が帰宅するまで、そばで見守り続けた。
*
三十分後、亜梨明の連絡に気付いた明日香が、とても心配した面持ちで帰ってきたが、爽太が介抱してくれていたと知り、ホッと胸を撫で下ろした。
明日香は爽太に何度もお礼を言い、出先で買ってきたお菓子を渡した。
相楽家を出た爽太が、家に向かって歩いていると、反対側の歩道をあの転校生が歩いていた。
少女は、私服に着替えたというのに、相変わらず炎天下の中を、長袖を着て歩いている。
「(松山さんの言う通り日焼けが嫌なら、なんで外を歩いているんだろう……?)」
爽太は不思議に思いながら、通り過ぎる少女を横目で見ていた。
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