第88話 君の名前と同じ物を


 ジワジワジワと、セミが力強く鳴く。

 風麻は、八年前の八月八日の記憶を遡っていた。


 幼い風麻は、イヤリングが完成した日から、早くそれを緑依風に渡したくて、うずうずしていた。


 あれからも緑依風を遊びに誘ってみたが、やっぱり彼女は家から出てこず、風麻に会ってくれなかった。

 窓越しに姿が見えた日もあったが、風麻と目が合うと、逃げるようにいなくなってしまう。


 嫌われたのかなと思うこともあったが、それでも緑依風は大切な友達。

 また仲良く遊べると、風麻は信じていた。


 早起きが苦手な風麻だったが、この日は家族の誰よりも早く目覚め、朝食の前にプレゼントを渡しに行こうとして、母の伊織に止められた。


 *


「プレゼントを渡しに行くなら、お昼ご飯食べてからにしなさい」

 伊織にそう言われていた風麻は、昼食を終えると、母からプレゼントを手渡され、「いってきます!」と、走って玄関に向かって、靴を履く。


 勢いよくドアを開けると、眩しい太陽の光を感じ、絶好の誕生日びよりだと思った。


 ピンポーン――。

 風麻は、松山家のインターホンのボタンを、背伸びしながら押して、緑依風の母の声を待つ。


「おばちゃーん、りいふちゃんにプレゼントもってきた!」

 風麻がマイクに向かって大きな声で言うと、葉子は「ちょっと待っててね」と言って、通話を切った。


 風麻は、小さな手に握られた、小さな紙袋をギュッと握る。

 握ったと同時に、せっかく綺麗にラッピングした紙袋はシワシワになってしまったが、風麻はそんなことよりも、緑依風が扉から出てきてくれるのを待つことに集中していた。


「(これをわたして、げんきになってもらうんだ。だから、きょうはでてきてね……)」

 葉子に渡してもらうのではなく、自分の手で緑依風に渡したい――。

 風麻がそう願っていると、ガチャ……と音を立てて、松山家のドアがゆっくり開いた。


「あっ!」

 緑依風は、葉子にそっと背中に手を添えられながら、家の外に出てきた。


「…………」

 緑依風の目は、まだあの日のように、暗く悲しい瞳をしている。


「りいふちゃん、プレゼントもってきたよ!」

「風麻くん、今日はありがとう。――緑依風、風麻くんにありがとうは?」

 葉子に背中を押されて、一歩前に出る緑依風。

 風麻もプレゼントを渡そうと、緑依風の前に一歩近付いた瞬間だった――。


「……――っ!!」

「あっ!」

 緑依風は急に走り出し、庭の方へと逃げてしまった。


 風麻はプレゼントをズボンのポケットにしまい、緑依風を追いかけた。


「りいふちゃんっ!」

 足の速い風麻は、庭に植えている木の前で緑依風の手を掴み、彼女がこれ以上逃げないようにギュッと握り締めた。


「りいふちゃん、なんでにげるの?」

 風麻が聞くと、緑依風は風麻に背中を向けたまま、「やめて……」と言った。


「なまえ、よばないで……」

「どうして……?」

「だって、へんななまえだもん……」

 緑依風は声を震わせて、風麻に言った。


「でも、りいふちゃんのなまえは、“りいふ”でしょ?じゃあ、なんてよべばいいのさ?」

 風麻が困ったように聞くと、緑依風はぺたりとその場に座り込み、「うぅ、うわあぁぁぁ~ん!!!」と、大きな声で泣き出してしまった。


「わたしっ、わた、しっ……なんで、このなまえなのっ!?もっと、“ふつうのなまえ”がよかったのにっ……!!こんななまえっ、だいっきらいっ!!」

 緑依風は、体から力いっぱい思いを吐き出すと、「わぁぁぁっ」と泣き声を上げ続けた。


 聞く者の胸までもが痛くなるような、緑依風の悲痛な叫びが庭中に響き渡る。


「…………」

 風麻は、そんな彼女の様子を見て、正直な気持ちを伝えることにした。


「――ぼくは、りいふちゃんのなまえ、すきだよ?」

 緑依風の目の前に座り込んだ風麻は、彼女の顔を見つめながら言った。


「えっ……」

 驚いた緑依風は、ひっくひっくと、喉を鳴らしながら風麻を見た。


「おかあさんがいってた。りいふちゃんのなまえのこと。りいふちゃんのなまえは、すてきないみがこめられてるって!」

 緑依風はまたもや驚いた顔になり、涙を拭きながら、鼻をすすった。


「……っく、でもっ……みんなは、へんっていうよ」

 まだ信じられない緑依風は、そんな風麻を疑うように言う。


「ぼくは、すてきだとおもう!」

「…………!!」

 風麻がにっこり笑いながら言うと、緑依風はスカートの裾をキュッと握って、風麻の言葉の続きを待っていた。


「ぼく、みどりのはっぱだいすき!だって、きれいだもんね!」

 風麻は、両手を木に向かって広げながら、枝に生い茂る木の葉の美しさを、緑依風に伝えた。


「あ、そうだ――!」

 風麻はズボンのポケットの物を思い出し、プレゼントが入った紙袋を取り出す。

 せっかく綺麗にラッピングしたのに、風麻はビリビリと閉じたところを破り、中身を手に取った。


「みて!これきれいでしょ?りいふちゃんのなまえとおなじだね!」

 風麻は、イヤリングを陽光に透かすようにかざし、緑依風にそれを見せた。


 イヤリングは、木漏れ日に照らされてキラリと光を放ち、緑依風もイヤリングを見上げると、感動するように深く息を吸いこみ、目を輝かせた。


「りいふちゃん、おたんじょうびおめでとう!」

 風麻が緑依風の誕生日を祝福すると、もう彼女の瞳から涙が零れることは無かった。


「ふうまくん、ありがとう!」

 久しぶりに見た、緑依風の笑顔。


 風麻は、緑依風の柔らかな手のひらに葉っぱのイヤリングを乗せると、にひひっと、笑った。


 緑依風もイヤリングを受け取ると、とても嬉しそうに目を細め、手の中にあるイヤリングを見つめて、微笑んでいた。


 *


「――――!」

 イヤリングをあげた日のことを全て思い出した風麻は、アルバムをパタンと閉じ、部屋を飛び出し、家の外へと駆け出していった。


「(――どこだ、どこにある!?はやく、見つけてやらないと!)」

 風麻は、さっき緑依風とケンカした場所まで走りながら、あのイヤリングを必ず探し出してやらねばと思った。


「(きっとあいつは、あれを心の支えにしてたんだ……!)」

 今でも『嫌い』だと言う、『緑依風』という名前。

 それでも、あの日自分が言った言葉に、緑依風の心は救われていたのかもしれない。


 その言葉が偽りではないという証の、葉っぱのイヤリング。

 風麻は、今の今まで、すっかり忘れていた。

 ――だが、あの誕生日に緑依風に言った言葉は、確かに本物だった。


 探して、見つけて渡さないと、緑依風はあの時のように、また笑わなくなってしまうかもしれない。

 そんなことは、絶対に嫌だった。


「……どこで落としたか聞けばよかったな。でも――……?」

 風麻が道の端っこを見ていた時だった、公園のそばの角道で、小学校低学年くらいの女の子が、四、五人集まって話をしていた。


「わぁ~、かわいいね!」

「きれいでしょ~!さっき公園で拾ったんだ~!」

「でも壊れてるよ?」

「この銀色のとこだけでしょ?こっちの葉っぱの飾りは壊れてないよ!」

 女の子が顔の位置までそれを持ち上げると、キラッと何かが光る――緑依風のイヤリングだ。


「――ごめんっ、それっ!!」

 風麻が近付くと、女の子達は振り向いた。


「それ……俺の友達がなくしたやつなんだ……」

「そうなの?」

「なくして困ってるんだ……。悪いけどお兄ちゃんに、それ返してくれないか?」

 風麻が言うと、女の子は「いいよ!」と快く渡してくれた。


「ありがとな」

 風麻はお礼を言うと、今度は緑依風の家へと向かった。


 *


 風麻が松山家のインターホンを押すと、「はいは~い」と、千草がドアを開けた。


「緑依風は?」

「なんか……泣いて帰ってきて、ずっと部屋に籠ってるけど?」

 千草は眉間の間にシワを寄せながら、階段の方へ首を振った。


「泣いてる理由知ってんなら、上がって慰めてやって……」

 千草はそう言って風麻を手招きし、風麻を家の中へ招き入れた。


 階段を上って、緑依風の部屋の前に来た風麻は、コンコンとドアをノックした。


「緑依風」

「…………」

 緑依風からの返事は無いが、鼻をすするような音がしており、彼女がまだ泣いていることがわかる。


「……入るぞ」

 風麻は少し慎重になりながら、緑依風の部屋のドアをゆっくりと開けた。


 ドアの向こうでは、緑依風がベッドの上で膝を抱え、その中に顔を埋めたまま座っており、風麻が許可なく部屋に入ってきても、何も言わなかった。


「……これ、見つかったぞ」

「えっ……」

 顔を上げた緑依風の目は、可哀そうなくらい真っ赤に腫れており、「どんだけ泣いたんだよ」と、風麻はびっくりした。


「小さい子が拾ってたらしい。……見つかってよかったな」

「…………っ!」

 風麻が壊れたイヤリングを緑依風の手に乗せると、緑依風はイヤリングをぎゅっと握りしめた。


「ありがとっ……ううっ……!よ、よかったっ、ふうまっ……ありがと……っ!!」

 緑依風はイヤリングを握り締めた途端、またボロボロと涙を流し始め、言葉を詰まらせながらお礼を言った。


「そんなに大事にしてくれてたとはね……。――ってか、目もっと腫れるぞ、泣くなよ……」

「……っふ、ぅ、ひっくっ、うんっ……!!」

 風麻は、まだ涙が止まらない緑依風の背中をあやすように、ポンポンっと優しく叩いた。


「――それ、渡した時のことも思い出したよ。お前が、自分の名前嫌いだって泣いてた時のことだろ?」

「うん……」

 緑依風は、隣に座った風麻に顔を向けると、こくんと小さく頷いた。


「お前、今でも名前気にしてるみたいだけどさ……もし、お前の名前をからかうやつがいても、俺がまた叱ってやるから」

「……うん」

「どんな名前を持っていても、お前は何にも悪くないんだから、堂々としていればいい!」

 風麻は、緑依風に元気を与えるように、さっきよりも強く、ドンっと彼女の背中を叩く。


「へへっ……ありがと!」

「おっ、やっと笑ったな!」

 緑依風の顔に笑顔が戻ると、風麻も安心して笑顔になる。


「――でも、イヤリングせっかく見つけてもらったけど、留め具部分が壊れちゃって、もう付けれないね……」

 緑依風の手のひらに乗ったイヤリングは、葉っぱのパーツ部分は無傷だが、銀色の取り付け部分はネジが無くなっており、耳に付けることはできなさそうだ。


 戻ったばかりの緑依風の笑顔が、再び曇ってしまう……。


「――それ、しばらく俺に預けてくれないか?あ、反対側も……」

「え……いいけど」

 緑依風は、訳がわからなかったが、風麻の言う通りに左耳のイヤリングを取り外し、彼に渡した。


「すぐ、返すからな」

 風麻は、口角を斜め上にあげて笑いながら、右手の中にあるイヤリングをギュッと握りしめた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る