第86話 その名が持つ意味


 ジワジワジワ――。

 セミの声が響く住宅街を、緑依風は走って、走って、走り続ける。

 悲しい気持ちが、これ以上自分を追ってこないように。

 苦しい気持ちが、風と一緒に吹かれて落ちてくれるように――。


「……はっ、はぁっ、はぁ……っ!」

 走ることが限界になり、緑依風は電信柱に手をついて、立ち止まった。


 炎天下を走り続けたせいで、前髪や顔周りの細い毛先からは、水滴となった汗がポタポタと落ち続け、荒れる息も湿っぽくて、普段より熱を帯びている。


「――けっきょく、わたし……だけ、なんだね……」

 追い付いた悲しみが、緑依風を背後から包み込む。


 あの葉っぱのイヤリングをもらった日を覚えているのは。

 特別に想う気持ちは……――。


 緑依風は、止まらぬ涙を抑えることなく、力無い足取りで家へと帰った。


 *


 緑依風が走り去った後も、しばらく呆然とした状態の風麻だったが、ようやく立ち上がり、膝に付いた細かい石粒を払う。


「あれを、あげた時のこと……」

 風麻はもう一度記憶の箱を開けて、緑依風が肌身離さず付けている、イヤリングのことを思い出そうとする。


「――……バカっ!風麻のバカっ!!」

 緑依風の泣き叫ぶ声が、風麻の胸に響いて消えない。


「まーた……俺、あいつのこと傷付けちゃったな」

 今までも、ケンカをして『バカ』なんて言われることはしょっちゅうだった。

 ――なのに、今回の『バカ』は、今までで一番堪えた。


 長年連れ添ってきた仲だというのに、緑依風のことを半分もわかっていなかった自分自身にも、『バカ』という言葉を投げかける。


「んんっ……?」

 ふと、先程の緑依風の泣き顔と、風麻のぼやけた記憶の中に、共通する面影が見えた。


 何かに大きく傷付き、声を上げて「わぁぁっ……」と泣く、幼い緑依風。

 これはいつのだ?と考えていくうちに、記憶が部分的に蘇っていった。


 *


 自宅に戻った風麻は、自室の本棚の奥の方にしまっている、ある物を探していた。


「あれをあげたのは、幼稚園の時の誕生日だよな……確か、年少組で――おっ、あった!」

 風麻は本棚から、幼稚園の時のアルバムを取り出した。

 イヤリングをプレゼントした頃の写真を見れば、その時のことも思い出せるかもしれないと。


「うわ、若いな……」

 アルバムには、幼き頃の風麻と緑依風が、隣同士に座って、ポーズを決めている写真がある。


「緑依風、優菜とそっくりじゃん……。――そういえば、緑依風って今はしっかりしてるイメージあるけど、昔は気弱だったし、いじめられてたこともあったよな……」

 緑依風は、今ではちょっと手を焼く男子にも、物怖じせずに向かっていく性格だが、昔は恥ずかしがりで、引っ込み思案な性格だった。


 初めて会った時も、母親の葉子の足にしがみつき、恥ずかしそうに顔をくっつけていた。


 風麻が緑依風に近付くと、緑依風は葉子の足を中心に、ぐるぐると周りながら逃げたが、風麻が先回りをして自己紹介をした。


「ぼく、ふうま。おなまえは?」

 風麻が名乗ると、緑依風はモジモジとしながら風麻の顔を見た。


「りいふ……」

 とても小さな声で、名前を伝える緑依風に、風麻は手を差し伸べて、握手を求めた。


「りいふちゃん、よろしくね!」

「…………」

 恐る恐る手を前に出す緑依風。

 風麻がぎゅっと握ると、ちょっぴり驚いたような顔をしたが、すぐにパッと笑顔になった。


「ふうまくん、よろしくね……!」

 今のしっかりした姿からは、思い出しにくい、出会った当初の緑依風。


 風麻は、「そっか、昔はそんな感じだったよなぁ~」と、懐かしむように頷いた。


「――と、それは昔すぎたな。えっと、緑依風の誕生日は夏休み中だから……あ、でも、夏休み中のプール学習には行ったよな?」

 プール学習の記憶を思い出そうと、目を閉じる風麻。


 記憶はそれよりも少しだけ前に遡り、夏休み前の出来事に辿り着く。


 *


「やーい!はっぱちゃん!」

「おまえのなまえおかしいって、おれのにいちゃんもいってたぞ!」

 同じクラスの男児たちが、二、三人で緑依風を囲み、いつものからかいを始める。


 幼稚園に入園したばかりの頃は、誰にも指摘されなかった緑依風の名前。

 ところが、一人の女児が発言したことにより、緑依風の名前はクラスメイトからの、からかいのネタにされてしまった。


「りいふちゃんって、へんななまえだよね~」

 最初は、「へんじゃないもん!」と言い返していた緑依風だが、明くる日幼稚園に登園すると、両親に彼女の名前を聞いた園児達は、次々に親から聞いた話を緑依風に告げていった。


 幼稚園という、たくさんの同年代の子供と過ごす環境に来るまでは、緑依風も自分の名前を疑問に感じたことはなかったのだろう。


 風麻もそれは一緒で、初めて出来た友達が緑依風だったこともあり、彼女の名前に対して、『珍しい』や『変わっている』などいう概念はなかった。


「きにしちゃダメよ」

 何も言い返せずに悔しそうに俯く緑依風を、幼稚園でできた新たな友達、晶子が手を引いて、いじめっ子から遠ざけようとする。


「そうだよ!ぼくのおかあさんは、へんっていわなかったよ!」

 晶子の後ろにいた利久も、しょんぼりとした緑依風にそう言って、元気付けようとした。


「……うん」

 緑依風は我慢するように、キュッと唇を噛みしめて頷いた。


 泣きはしないが、「へんじゃない!」という反論も、だんだんしなくなってきた緑依風。


 風麻は、大事な友達を傷付ける三人組を叱りたい気持ちでいたが、クラスの中でも小柄な自分が、縦にも横にも大きなガキ大将の男の子と、その他合わせて三人を相手にするなど、とても勝てそうもないと思い、どちらの味方でもないような位置で、ただ様子を伺っていた。


 休日の昼下がり。

 風麻は、母親の伊織に連れられた公園で、緑依風の名前について聞くことにした。


「ねぇ、おかあさん……」

「なぁに?」

「あのさ、りいふちゃんのなまえって、へんなの……?」

 本当はもっと前に聞こうとしていたのに、もし、自分の母親も他の子供達と同じように、緑依風の名前を否定する言葉を言ってしまったらと思うと、怖くて聞けなかった。


 伊織は、一瞬キョトンとしたが、クスっと笑うと「珍しいけど、変じゃないよ?」と言ってくれた。


 幼い風麻はそのことに安心し、さらに質問する。


「みんな、りいふちゃんのなまえを“へん”っていうんだ……。ぼくはへんじゃないっておもうんだけど……。でも、りいふちゃんのなまえは、なんでりいふなんだろうね?」

「……風麻、おいで」

 伊織は木陰のベンチに風麻を誘い出し、そのまま息子を自分の膝の上に乗せながら、首を上に傾け、木々を見つめた。


「ねぇ風麻、木が綺麗だね……」

「うん」

「緑の葉っぱをみてると、心が落ち着くね……」

「うん、おちつく!かぜがふいたらはっぱがサァァーってなって、きもちいいね!」

 風麻がそう言うと、伊織は優しく風麻の頭を撫でながら、話を続けた。


「この緑の葉っぱはね、汚れた空気を綺麗な空気に変えてくれるんだよ」

「へぇ〜!すごい!!」

「緑依風ちゃんの名前はね、この緑の葉っぱと、そばで吹く風って意味なんだよ」

「そうなの?」

 初めて聞いた、緑依風の名前の由来。

 伊織は、その意味も詳しく話してくれた。


『夏の暑い季節、緑色の葉が、りそう風に擦られて立てる葉音のように、人々の心を癒す、優しい子に育ちますように』

 幼い風麻には少し難しかったが、ちゃんとその名に願いが込められていたと知って、なんだか自分のことのように嬉しくなった。


「お母さん、緑依風ちゃんの名前の意味を聞いて、素敵だなって思ったの!」

「うん、すてきだね!ぼくもそうおもう!!」

「……だから、もし緑依風ちゃんがお名前のことで元気が無かったら、『素敵だよ』って、言ってあげて欲しいな」

「わかった!」

 風麻が元気良く返事をすると、伊織はふわりと微笑み、風麻を抱き締めた。


 そよ吹く風が、サァッ……と、木の葉を揺らす――。

 風麻は、この優しい時間に安らぎを感じながら、同じ意味の名を持つ友を思い浮かべていた。


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