第83話 風麻と少女漫画


 深夜一時。

 風麻はベッドの上で胡坐をかき、彼女の一番お気に入りの漫画を持ったまま、物思いにふけるような顔をしている。


 夕食を食べ終えてから、風麻は借りた漫画全てを一気に読破した。


 彼女から借りたラブストーリーというジャンルの少女漫画は、これまで少年漫画しか知らなかった風麻にとって、斬新で難しく、でも共感できる部分も、勉強になる部分もあり、読んでよかったと思えた。


 どのヒロインも、自分と同じように上手くいかないことで苛立ったり、傷付いたり――ほんの些細なことで、この上ない喜びを感じたりしていて、ヒロインのモノローグを読んでいる時は、思わず「わかる」と声にしたくなるシーンもあった。


 中には、ドキリとするストーリーや、展開もある。


 特に、亜梨明が一押しの漫画では、ヒロインが好きな男の子と、これまでヒロインの良き友だと思っていた男の子が、彼女を巡って対立してしまい、その板挟み状態にヒロインは心を痛めていた。


 ヒロインに全く見向きもされない、男友達の人物像を知っていくにつれ、もしかして今の自分は、亜梨明にとってこのポジションなのではと、風麻は考えてしまった。


 緑依風が一番勧めてくれた漫画では逆に、元々交際している相手がいる人を好きになったヒロインが、紆余曲折の末に、その人と想いが通じ合うようになり、ハッピーエンドを迎えた。


 “恋の教科書”を読んで風麻が学んだのは、一つは諦めるにはまだ早いということ。

 二つ目は、チャンスは自分から作る物。

 三つ目は、恋愛はいいことよりも、辛いことの方が多いということだ。


 そんな風麻が、何故今こうしてぼんやりしているかというと、それは緑依風のオススメである『恋、黄昏の空で…』という漫画を読み返しながら、ある言葉を思い出していたからだった。


 彼女は、風麻の「どういう気持ちでこういうの読んでるんだ?」の質問に対し、このように答えていた。


「こういう時、こうすればいいのかなとか、こうなったらいいなとか……――」

 風麻の手は、その漫画のヒロインのファーストキスのシーンで止まったままになっている。


……」

 他の漫画でのキスシーンは、照れくさいけれど、祝福する気持ちになれたのに対し、この漫画のキスシーンだけは、緑依風の家で流し読みをしていた時にも、何故か妙な気持ちになり、不快に感じた。


 風麻は、バフっと音を立ててベッドに寝転がり、そのシーンを凝視する。


 二人きりの、夕日が差し込む教室で、叶わぬと思っていた恋が成就したことで涙するヒロインが、大好きな人に強く抱きしめられたまま、幸せな気持ちで口付けを交わす……。


 緑依風も、好きな人といつかこうなりたい、こうしたいと願っているのだろうか。

 自分が知らない男に、このヒロインのような熱い想いを募らせ、いつか自分ではない者と一緒にいることが増えていくのだろうか……。


 そう考えた途端、風麻の胸の真ん中は、まるで真冬の空っ風が通り抜けるように凍え始めた。


「…………」

 ――寂しい。

 それが、風麻の冷えた心に最初に浮かび上がった感情だった。


 今、風麻が心の声を大にして『好きだ』と言いたい女の子は、確かに亜梨明のはずなのに、緑依風が自分の知らない人に対して、自分が亜梨明に抱く感情と同じものを持っていると思うと、なんだかとても寂しかった。


 寝転がっていると、眠気もだんだんと訪れてくる――。

 緑依風から借りた漫画が入った不織布のバッグは、ドアから入ってきたときに死角になる位置に置いてある。


 だが、もうそこまで移動して片付けるのも面倒になった風麻は、とりあえず家族に見つからぬよう、タオルケットの下に漫画を隠し、折れ曲がったりしないように気を付けながら、そのまま電気を消して眠った。


 *


 八月五日の朝が来る。

 ジージーと、セミの声が聞こえたと思ったと同時に、少し乱暴にドアをノックする音がした。


「――風麻っ!いつまで寝てるの!!」

「んぁ……?」

 うつ伏せになって寝ていた風麻は、ゆっくりと目を開け、腑抜けた声を出した。


 バタン!と、ドアが勢いよく開かれると、母親の伊織が「いいかげん起きなさい!」と、怒った口調で言った。


「もう秋麻達は朝ご飯食べちゃったわよ!!部活が休みだからってダラダラしてないで、ちゃんと起きなさい!」

 伊織は息子の目が覚めるように、部屋のカーテンを開けて、太陽の光を部屋に取り入れた。


「ふぁ~~……もうこんな時間か」

 大きなあくびを繰り返しながら、風麻は首周りをボリボリと掻く。


 結局、二日連続で夜更かしをしたのだ。

 ちょっとやそっとの日差しで、簡単に目が覚めるわけはなく、風麻はまだウトウトとしている。


「はぁ~……。緑依風ちゃんはもう起きて、お庭で洗濯物干してたわよ。宿題も全部終わったんですって!」

「りいふ……――あっ!」

 緑依風の名前を聞いて、風麻はタオルケット下の物を思い出し、一気に頭が覚醒した。


「ん……?なぁに、急に大声出して?」

「いや、別に……」

 伊織に聞かれると、風麻は後ろにあるタオルケットを触りながら、キョロキョロと目を泳がせる。


 挙動不審の風麻を怪しむ伊織だが、年頃の息子が慌てて背後を隠すような動作をしても、特にそれに突っ込むような野暮なことはせず、「あらそう……」と言って、部屋を出ようとした。


「――あっ、そうだわ!」

「えっ?」

 風麻がホッとしたのも束の間、伊織は再び息子の元へ戻ってきた。


「お小遣い少し多めに渡すから、お昼ご飯食べた後、緑依風ちゃんのプレゼント買ってきたら?」

「緑依風にプレゼント……?」

 寝間着から着替えはじめた風麻は、キョトンとしながら首を傾げた。


「八日の日、緑依風ちゃんの誕生日じゃない」

「あぁ~……」

 黒いTシャツを着た風麻は、伊織に告げられて初めて、彼女の誕生日が近いことを思い出した。


「いつもみたいに、母さんが適当に選んで買っておいてよ」

 プレゼント選びが苦手な風麻は、一応母親と一緒にプレゼントを見に行くものの、緑依風の誕生日に関心は無く、伊織の「これなんてどう?」の提案に対し、「ふーん、まぁいいんじゃない」と、返事をするのみで、真面目に選んだことが無い。


 伊織が選んで購入したプレゼントを、ただ渡して「おめでとう」を言う。

 それが、風麻が緑依風に対して行う、彼女の誕生日祝いだった。


「あのねぇ~……アンタもう中学生なんだから、そろそろお母さんに選ばすんじゃなくて、自分で選んで買ってきなさい」

 呆れるように言う伊織に、風麻は「めんどくせぇ~」と駄々をこねる。


「何言ってるの……。緑依風ちゃんにいつもケーキ作ってもらったり、勉強教わってるのに……」

「わかったよ……。買いに行きゃあいいんだろ」

 風麻が不満げな返事をすると、伊織はそんな息子に、残念な気持ちで小さな息を吐いた。


 *


 場所は変わって、お隣の松山家。

 洗濯の手伝いを終えた緑依風は、リビングのソファーに座って、テレビを見ながら休憩していた。


「緑依風、ちょっといいか?」

 父親の北斗が、スケッチブックを持って、緑依風の隣にやって来た。


「今年のケーキ、どんなのがいい?」

「わーい!待ってました!!」

 緑依風はパンっと手を叩き、はしゃぐような笑顔を見せた。

 松山家では毎年、北斗が娘達のリクエストを聞いて、その要望通りのケーキを作ってくれる。


 例えば、千草なら嫌いなフルーツが乗ってない、チョコやマカロンばかりが乗ったケーキをリクエストするし、日曜日に放送される、魔法少女系アニメが好きな優菜なら、その妖精キャラの顔のケーキをリクエストする。


「今年は大人っぽいケーキがいいな!チョコとラズベリーソース使って、ちょっとほろ苦さもあるようなやつ!」

「大人っぽいやつ……ね。デコレーションは?」

「フルーツたくさん乗っけて!あと、白い生クリームもアクセントで!」

 緑依風が北斗に寄り添いながらスケッチブックを見ると、北斗は素早く手を動かし、ラフスケッチを緑依風に見せた。


「うーん……こんな感じ?」

「うん、おしゃれで大人っぽい!これがいい!」

 緑依風はスケッチブックを手に取ると、「やっぱり、お父さんはすごいなぁ……」と、感動しながら言った。


「じゃあ、これを元にもう少し考えて、また見せに来るよ」

「ありがとうお父さん!!」

「お祝いのご馳走は?」

 母親の葉子も、メモを持って緑依風の元に来た。


「ちらし寿司と、シーザーサラダと、あと唐揚げが食べたいな!」

「いつもの定番ね!」

 まるでケーキのように、華やかに飾られたちらし寿司と、いつもより少しいい鶏肉を使って作る唐揚げ、カリカリのベーコンとパルメザンチーズをたくさんかけたシーザーサラダ。

 緑依風の誕生日は、毎年主にこの献立だった。


 普段は大人びた振舞いが多い緑依風だが、この時ばかりは、年相応の少女の顔になる。


「今年は、どんな誕生日になるかな……」

 夏休み真っ最中だが、別荘で亜梨明や星華などの女友達は、プレゼントを持って、家にお祝いしに行くと言ってくれた。


 緑依風は、ワクワクした気持ちに心が弾ませながら、リビングの壁にあるカレンダーを見つめた。


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