第82話 恋の教科書(後編)
「――とりあえず、いくつかピックップしてみたから、試しに読んでみて」
緑依風がベッド横に積み上げた漫画を指差すと、風麻は一番上にある単行本を手に取った。
「……うわ、少女漫画って絵がめちゃ綺麗で可愛いな!」
「でしょ?その人の絵好きなんだ!ストーリーも面白いし、一番オススメだよ!」
それは緑依風が一番好きな漫画だった。
緑依風と同じように、想いを隠し続けるヒロインが、困難を乗り越えて、最後は好きな男の子と結ばれる物語だ。
真っ先に手に取ってもらえるように仕組むなんて、我ながら狙いすぎかなと、緑依風は心の中で苦く笑う。
「それは完結してるから、全部貸してあげる」
「サンキュー」
緑依風が他の漫画を探していると、風麻はパラパラと流し読みを始めた。
「あ~……全然別世界だ」
「だろうね。風麻はギャグ漫画とか、スポーツ漫画が好きだもんね」
「どういう気持ちでこういうの読んでるんだ?」
風麻が聞くと、緑依風は「え~……」と、困ったように彼に振り向いた。
「恋の教科書……てきな?」
「教科書?」
「こういう時、こうすればいいのかなとか、こうなったらいいなとか……。男の子が勇者とかリーダーに憧れるようなもん……って言ったら、近いかな?」
「ふーん……」
緑依風が答えると、風麻は再び漫画をパラパラと捲り続け、次の巻へと手を伸ばした。
教科書と言ったが、緑依風が実際にその少女漫画の主人公のような行動に出たことは無く、ただ『こういう時にこんな風に言えたらいいけど、言えるわけないじゃん』と、フィクションとノンフィクションの世界の違いに虚しくなるだけだ。
風麻は緑依風が厳選している間、ずっとページを捲りながら流し読みをしていたが、とあるページに辿り着いた瞬間、ピタッと手が止まった。
「?」
紙の音がしなくなったことで、緑依風は彼の動作が停止していることに気付いたが、風麻がどのシーンを読んでいるかまでは、わからなかった。
「……なぁ、緑依風」
「ん~~?」
「お前の好きなやつって、どんな人?」
「えっ……」
風麻がゆっくりと、緑依風の方へ首を回した。
「……俺の知ってるやつ?」
「…………」
やや硬い表情の風麻。
緑依風も、彼に負けないくらい硬直した顔になる。
「さぁ、知ってるんじゃない?……でも、教えない」
緑依風は、少し素っ気ない口調で回答を拒否した。
「だっはー!やっぱりな!!」
風麻は残念そうに笑いを含めてそう言うと、手に持っていた漫画を床に置き、次巻を手に取った。
「教えたら、アンタぜったいからかってきたり、言いふらしそうだもん!」
「しねぇよ!」
「……っていうか、風麻に教えたの誰っ!もしかして星華じゃ……」
緑依風が思う、一番口が軽そうな人物の名前をあげると、風麻は「それは違う!」と、焦りながら否定した。
「内緒にしてって言われたから言えねぇけど、空上ではない!それは本当だ!」
風麻が両手を振りながら、星華の無実を証明しようとすると、緑依風はしばらく疑いの眼を向けていたが、ふぅ……と息を吐いて「わかった、信じる」と言った。
「――まったく、寄りによってなんで風麻に……あ、これもいいかも!」
「どれだ?」
安心した風麻は立ち上がり、緑依風の背後に近寄った。
「『チックタック☆ロマンス』っていう漫画」
「へぇ~……中学生の学園ラブストーリーね」
風麻は、緑依風からその漫画の一巻を手に取ると、朗らかで世話好きな主人公の女の子が、同じクラスの男の子に恋をするという、紹介文が背表紙に表記されていた。
「それね、亜梨明ちゃんが大好きな漫画なんだって!」
「相楽姉が……」
「亜梨明ちゃん、その漫画を見て、野外活動の飯盒炊爨でカレー作るのが夢だったんだってさ!」
緑依風は、亜梨明が五月の野外活動の説明を受けた後、飯盒炊爨が無いことを知ってがっかりしていたことを思い出し、クスっと笑った。
風麻は、彼女のその話に返事をせず、ぱらりぱらりとページを捲って、その漫画のストーリーに集中していた。
「……――これも、借りるわ」
「うん、いいよ。それはまだ連載中だから、続きが出たらまた教えるよ」
「あぁ、頼む……」
風麻は、亜梨明が好きな漫画なら、彼女の気持ちを知れるヒントもここにあるかもしれないと、まるで分厚い事典を読むような目つきで、一コマ、ひとつのセリフを、じっくりと見つめる。
そんな彼の気持ちを知らない緑依風は、学校の教科書ですらこんなに真面目な顔で読んだことが無い風麻の横顔がついおかしくて、「ふふっ」と声を漏らした。
*
緑依風と亜梨明の一押しの作品の他にも、二種類の恋愛少女漫画を借りることにした風麻は、緑依風に少し頑丈な不織布のバッグに漫画を詰めてもらっていた。
「しばらく借りっぱなしでいいか?一週間くらい」
「返すのはもう少しゆっくりでもいいけど、漫画ばっか読んでないで、夏休みの宿題もちゃんと進めなよ?」
「わーってるよ!……ったく、お前と付き合う男子は、絶対苦労するぞ……。小言だらけで、すぐガミガミ言うんだからよ」
「ガミガミ言われないとやらないじゃない……。夏休み終わりになって、毎年後悔してるのは誰?」
バッグに漫画を詰め終えた緑依風が言うと、風麻は「チッ」と短く舌打ちして、「可愛くねぇ女子は、一生モテねーぞ」と言った。
「…………」
その言葉に、一瞬緑依風の手に力が込められる。
「……可愛くないのなんて、わかってるよ!」
緑依風が横髪を耳に掛けながら言うと、彼女の耳についているイヤリングが揺れた。
「あぁもう、ホラさっさと帰って!お泊り会の荷物片付けなきゃいけないんだから!あと、これおじさんに渡して!」
緑依風は、床に寝転がりながら借りなかった漫画を読んでいた風麻をパシパシと叩き、起き上がるように促した。
「へいへい……」
まるで自分の部屋のように、だらしなくくつろいでいた風麻だが、緑依風に背中を叩かれると、渋々と起き上がり、数十冊の漫画本が入ったバッグを手に持って、部屋を出て行った。
「じゃ、ありがとよ」
「はいはい、またね……」
――パタンと、ドアが閉まると、緑依風は散らかった漫画を本棚に戻し始めた。
テキパキと片付けを開始し、最後に床に残っていた本も持ち上げると、緑依風は何気なくその漫画を開き、ぱらりぱらりと読み始める。
「……漫画のヒロインは、いつだってすぐに結ばれるのに」
一年、あるいは二年……。
緑依風のように、五年以上も片想いを続けて結ばれないヒロインは、彼女のこれまで読んできた漫画では見たことがない。
「あと四日で……八年目か」
緑依風が風麻に恋をした日――……それは五歳の誕生日だった。
「少女漫画を読んでいたって、ぜんっぜん、自分の恋愛の参考になんてならないよ……」
参考になっていれば、風麻の前で刺々しい態度もとらないし、とっくに勇気を出して告白をしているはずだ。
なのに緑依風は、何年も現状維持を続けて、次こそ、来年こそと、行動する決断を先送りにしっぱなしだった。
「(私だって、素直になりたい……。風麻に可愛いって思われたいよ……。でも、どうしたらいいってわかってても、怖いんだもん……)」
緑依風は、最後の漫画も本棚に戻し終えると、旅行用鞄のファスナーを開き、荷解きを始めることにした。
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