第79話 知ってたよ
――ガチャ。
重厚感のあるドアを開いた風麻。
ついさっきまで、自分の後ろにいたはずの爽太が、部屋の中に入っていなかったため、どうしたのかと思ったのだ。
「おい、そう――……」
彼の名前を呼ぼうとして、風麻はそれをやめた。
男子部屋と女子部屋のちょうど中間の壁の前で、爽太は亜梨明と会話をしていた。
亜梨明は何かを手にしながら、爽太に「ありがとう、爽ちゃん!大事にするね!!」と、嬉しそうな笑顔で、彼にお礼を言った。
「…………」
苦しい――。
大好きな人の笑顔なのに、彼女の笑顔に息が詰まるような気がして、風麻はドアを閉めた。
*
数分後、爽太が扉を開けて男子部屋に戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
利久の問いに「ちょっとね」と、爽太は詳しく語ることなく、明日帰るための荷造りを始める。
風麻は、鞄の中を綺麗に整頓する爽太の横顔をじっと見つめた。
「(相楽姉と、なに話してたんだ……)」
聞きたいのに、声が出ない。
聞いたらこの胸の引っ掛かりが、ますます大きくなってしまいそうで怖い。
風麻がそう思いながら悩んでいると、視線に気付いた爽太が「どうしたの?」と振り返った。
「あっ……べ、別に――」
「そう?何か用があるのかなって思ったんだけど」
穏やかな表情で問いかける爽太の目を見れなくて、風麻は「俺もちゃっちゃと荷物詰めよう!」と、雅子や老婦人が洗ってくれた服や下着を、ぐちゃっと鞄に押し込んだ。
*
「(眠れない……)」
電気を消してからだいぶ経つのに、モヤモヤとした感情と、爽太と亜梨明の仲睦まじい姿が頭から離れなくて、風麻は何度も寝返りを打っては、小さく唸り声を上げる。
野外活動の時と同じだ。
張り切るだけで、上手くいかないことばかり。
嬉しい気持ちよりも、悔しい気持ちの方が多かった。
風麻は上体を起こし、自分の隣のベッドで眠る爽太を見つめる。
「(いいヤツなのに……。こんな風に思いたくないのに……)」
ずるい、羨ましい……。
そう感じてしまう自分が嫌になる風麻。
普段は、爽太と一緒にいると楽しくて、お調子者の自分を優しく制してくれたり、テスト前になると、嫌な顔一つせずに根気よく勉強を教えてくれる彼のことを、風麻は大切な友達だと思っている。
なのに、亜梨明と一緒にいる爽太に対しては、苛立ちや嫉妬ばかり感じてしまう。
爽太は何も悪いことはしていない。
似た境遇の亜梨明が困っていないか、健康に生まれ育った自分や、緑依風達には理解できない部分を気遣い、友として接しているだけだ。
だから、こんな風に感じること自体がおかしいのだと、風麻は頭ではわかっているものの、感情がそれとは違う方向に動いてしまうことが、何よりも苦しかった。
「(――やっぱり、それは……)」
風麻が心の中で、その真の理由に触れそうになった時、バルコニーの方で物音が聞こえた。
風麻がカーテンを開くと、隣の女子部屋から、亜梨明が一人で外に出ている。
「…………」
ゴクっと、緊張する喉を動かし、風麻は寝室を出て、リビングの方からバルコニーに出ることにした。
*
月明かりが、漆黒の夜空を照らす中、亜梨明は指先で何かを摘まんで、空にそれをかざしていた。
風麻が、亜梨明を驚かさないようにそっと窓を開けると、亜梨明がゆっくりと振り向いた。
「坂下くん……」
「よぉ……」
亜梨明に短く返事をした風麻は、早くなる鼓動を気にしながら、亜梨明の隣に立った。
「こんな時間に何やってんだ?眠れないのか?」
「うん、ちょっとね」
亜梨明はにっこり笑いながら答えた。
「ここに来て、楽しいことばっかりで……。ベッドに入った後、それをずーっと思い出してたら、体は疲れてるはずなのに、頭の中が元気すぎて全然眠れなくて……」
疲れているとは言っても、亜梨明の表情は、月の光に負けないくらい明るい。
「――だからね、お外に出て、これをお月さまに透かしてたの!」
亜梨明はそう言って、手の中にある小さな青い欠片を、風麻に見せた。
「なんだそれ?」
「シーグラスっていうんだって。爽ちゃんがさっきくれたの!」
「爽太が……」
笑顔を保ち続ける亜梨明に反して、風麻の表情は陰りを見せる。
チクチクと痛む風麻の心。
ついさっきまで、美しく思えたそのガラスの欠片が、今はなんだか憎い物に見えてしまい、風麻は亜梨明の手のひらから視線を逸らした。
亜梨明は、シーグラスを大事そうにギュッと握り締めたあと、もう一つの手を重ねて、自身の胸元に持って行く。
「宝物にするんだ~。すっごく綺麗だし、それに――……」
亜梨明はそう言いかけた後、ハッとした顔をして「お、思い出記念だからね!」と、やや焦るように言って、「あはは」と軽く笑った。
「…………」
ザァッという波音が、夜の空気に溶け込む――。
その波と同じくらい、風麻の心の奥にある、知りたくないと封印したものが、音を立てて正体を知らせようとする。
「三日間、あっという間だったね~」
「ああ……」
「泳いだり、美味しい物食べたり、本当に楽しかったなぁ~」
「うん……」
バルコニーの手すりを正面に並んで、そう語る亜梨明の声色が、本当に楽しくて充実したものだったと、風麻に伝えてくる。
――しかし、今の風麻はもう、短い返事をすることさえも、いっぱいいっぱいの状態で、彼女とこの旅行の思い出を振り返ることが出来ない……。
「俺、眠くなったから先に戻る。……相楽姉は?」
「私はもうちょっと、ここにいたいかな?」
「そっか……」
潮風が、二人の衣服や髪を揺らす――。
風麻は、「じゃあ……」と言って、亜梨明に背を向けようとする。
「坂下くん!」
亜梨明が風麻を呼び止めた。
「…………ん?」
風麻がもう一度亜梨明に振り向くと、月の輝きを受けた亜梨明が、頬笑みを湛えながら、風麻を見ている。
「おやすみなさい。また、明日ね!」
「おぅ、おやすみ……」
風麻も微かな笑顔を浮かべて、亜梨明に挨拶を返した。
*
室内に戻り、カーテンを閉めた風麻は、その隙間からもう一度亜梨明を眺める。
亜梨明は先程と同じように、爽太からもらったシーグラスを月明かりに照らして、嬉しそうにそれを見つめる。
「…………」
風麻はカーテンを完全に締め切ると、寝室の自分のベッドに潜った。
「(知ってた……知ってたよ――。相楽姉に好きな人がいるって……とっくの昔に……俺、知ってたよ……!)」
被った掛布団の中で、風麻は丸くなりながら、苦しさに耐える。
「(それを認めたくないから、わざと目を逸らし続けて、心の箱に押し込んで、知らないフリをしていたんだ……)」
本当はずいぶん前に気付いていた真実。
風麻はそれを、ようやく認めた。
亜梨明は、爽太が好きなのだと――。
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