第77話 黄昏の海で


 最終日のメインイベントだった、プールでの遊びも遂に終わった。

 西日が差すバスの中では、それぞれが名残惜しそうな表情で、背もたれに体を預けている。


 車酔いしやすい星華だけは、旅行の余韻に浸れずに、こみ上げる吐き気と格闘をしていたのだが――……。


 *


 バスが駐車場に辿り着き、一同が降車すると、何やら香ばしい香りが辺りいっぱいに立ち込めている。


「この匂いはもしや……!」

 風麻が鼻をヒクヒクとさせながら、みんなと共に建物の中に入ると、「あら、お嬢様達、おかえりなさいませ」と、老婦人がにこやかに出迎えた。


「おかえりなさい。さぁ、最後の夜はバーベキューですよ!お肉も野菜もたくさん召し上がってくださいね!」

 老婦人の横で雅子が言うと、全員が歓声を上げて、急いで部屋に荷物を置きに行った。


 *


 オープンテラスに出ると、テーブルの上には数種類のソフトドリンクが置かれており、各々好きな飲み物をグラスに注ぐ。


 晶と雅子は細長いグラスにスパークリングワインを。

 紀行とシーザーは、外国産の瓶ビールを手にしている。


 老夫婦が網の上に肉や野菜を用意する中、紀行はビールを手にしながら、息子と娘の友人達に向けて、感謝の言葉を述べ始める――。


「みんな、今年も遊びに来てくれてありがとう!特に、今年は新しい友達もたくさん来てくれて、最高のバカンスだった!これからも、晶と晶子をよろしく頼むよ!――乾杯っ!」

 紀行が挨拶をすると、『かんぱーい!』と、みんな一斉に飲み物を上に持ち上げた。


 銀色の網の上には、綺麗な脂の模様が付いた赤い牛肉、緑色のピーマンや黄色のトウモロコシ、艶やかな深い紫色のナスや、円形にカットされた白いタマネギが並んでおり、香ばしいお肉の香りで、ますますお腹が空いた若者達は、大喜びで各自好きな物をお皿に乗せた。


 バーベキューコンロはもう一つ用意されており、その上には、真ん中がくり抜かれたカマンベールチーズのチーズフォンデュや、きのこのホイル焼き、エビやイカなどの魚介類、醤油ダレが塗られた焼きおにぎりが置かれている。


 車酔いにぐったりしていた星華は、すっかり元気を取り戻し、キラキラした表情で「これ毎年楽しみなやつ~!!」と叫びながら、サイドテーブルに用意されたパンをチーズに浸した。


 星華の様子に興味を惹かれた奏音も、お肉のコンロから移動し、チーズフォンデュを楽しみ始め、晶とシーザーは、老夫婦自家製のベーコンをおつまみにしながら、中学生にはちょっと難しい話を、面白そうに語り合っている。


「はい、爽ちゃん!お肉たくさん食べてね!」

 爽太と並んで網の前に立っている亜梨明は、焼き上がったばかりのお肉を自分の皿ではなく、爽太のお皿の上にせっせと乗せていく。


「こんなにお肉ばかり食べたら、野菜が食べれなくなっちゃうよ……」

 爽太の皿の上には、何重にも積み重なった焼肉の山が作られており、彼は困った笑みを浮かべながら、野菜も欲しそうに訴える。


「ダメダメ!今日もたくさん泳いだし、また貧血になったら大変でしょ?お肉食べて!」

「はいはい……」

 爽太は苦笑いしながらも、彼女が自分のために盛ってくれた肉を食べ始め、亜梨明はその様子を見て、にっこりと満足そうにしている。


 そんな二人の様子を、風麻は彼らの斜め向かい側で、箸を止めながらぼんやりと見ていた。


「…………」

 亜梨明が焼肉のタレを皿に継ぎ足していると、仕返しとばかりに今度は爽太が、亜梨明の皿に肉を数枚トングで乗せて、それに気付いた亜梨明は「も~っ」と言いながらコロコロと笑っている。


 美味しい物を食べているのに、風麻の口の中は、肉のわずかな焦げが味を強調するように広がり、苦くなっていく――。


「あー!野菜少ない!」

 風麻の皿の中に肉とタマネギしか入っていないのを目撃した緑依風は、彼の隣に立つと、もう一つのトングを使って、彼の苦手なピーマンを三枚、ナスを二枚、タマネギを一枚乗せた。


「お肉食べた分野菜も食べなよね!」

「お前はどこに行ってもお母さんだな……」

 風麻は、嫌そうな顔をしながら箸でピーマンを掴むと、前歯で小さくちぎるようにして、渋々食べた。


「風麻の健康のこと考えてるんでしょ!偏った食事ばかりしてると、後で後悔するよ!」

「あ~もう、人の世話ばっか焼いてないで、焼き上がったもん食ってろよ~!」

 いつも通り小さいケンカを始めた二人を見ていた星華は、近くにいる晶子と呆れるようにため息をついた。


「な~んか、いつも通りだね。どっちも……」

 学校にいる時と同じように、一緒に居てても甘い雰囲気など感じられない、亜梨明と爽太。

 世話焼きの姉と困った弟のようにしか見えない、緑依風と風麻。


「またダメでしたか~……」

 晶子がとてもがっかりとしたように、肩を落としていると、「晶子」と、彼女のそばへやって来た利久が、声を掛けた。


「飲み物入れてくるから、コップ貸して」

 利久が空っぽになった晶子のグラスを手に取ると、「何がいい?」と聞いた。


「では、りんごジュース入れていただけますか?」

「うん」

 利久が晶子のグラスを持ってその場から去ると、その時の利久の表情を見た奏音は、星華に「ねぇ、幸田ってもしかして……」と、小声で耳打ちした。


「うん、幸田は晶子が好きだよ。でも、晶子の方は……」

「知らないの?」

「多分知ってるよ~……。でも、晶子はなーんにも幸田に対して、そういった素振りは見せないの。自分の恋より、人の応援をしたいの一点張り」

「ふ~ん……」

 晶子は、奏音と星華がひそひそ話をしていても、聞こえているのか聞こえていないのかわからないような表情で、利久がドリンクを持ってきてくれるのを待っている。


「――はい、お待たせ」

「ありがとうございます」

 晶子がグラスを受け取ると、利久は「それから……」と言った。


「はい?」

「歌……聴きたいな」

 利久が頬を掻きながら、照れ臭そうにする。


「歌ですか?」

「海……いい感じだし、この景色で晶子の歌聴いたら最高かなって……」

「いいですよ!――あ、そうです!亜梨明ちゃん!」

 晶子が何かを思い付いたように、亜梨明を呼んだ。


「なぁに?」

「歌の伴奏をお願いしていいですか?」

 亜梨明は、夏休み前に約束したことを思い出すと、「もちろんだよ~!」と、晶子に駆け寄った。


 *


 晶子が、オープンテラスの室内側の窓の隣にある、重厚なカーテンを開けると、木目調のグランドピアノが見えた。


 亜梨明と晶子は、曲目を決め、それぞれ演奏の準備を進めた。

 亜梨明は、晶とシーザーが窓際まで移動させたピアノの椅子に座り、晶子は夕日を背景にして、家族や友人の前に立って、小さくお辞儀をした。


 亜梨明が伴奏を始めると、晶子は深く息を吸って、透明な声で歌い始める。


 黄昏の海――。

 オレンジ色の夕日と二つの音楽が、この場にいる人々の胸いっぱいに入り込む。

 時折、晶子の髪がふわりと海風に揺られるが、彼女はその風にも歌声を乗せて、遥か遠く――地平線の向こう側にさえ届けるように、心を込めて歌った。


 亜梨明も、晶子の歌に影響されるように、鍵盤を押す指に想いを込めながら演奏をしていた。


 ここに来て楽しかったこと、感動したこと、ちょっぴり悔しくて悲しかったことも全部が、一生忘れられない、忘れたくない思い出となるだろう――。


 歌のクライマックスでは、亜梨明も晶子もそれぞれ目を合わせ、より感情を乗せていった。


 *


 演奏が終わると、紀行が大きく拍手を始め、それに続くように他の者達も手を叩いて、二人を讃える拍手を送った。


 利久は、教会で聴いた時と同じように、涙を流しながら感動している。


 紀行は、歌いきって満たされたように微笑む晶子のそばに歩み寄ると、愛娘と目が合うように、首を下げる。


「晶子の歌を聴いたのは、随分久しぶりだった……」

「そうですね。会うことはあっても、お父さんの前で歌ったのは、かなり昔ですから」

 星華や利久の父親と同じく、仕事による多忙な生活で、めったに子供達と会えない紀行。

 晶子も、幼い頃こそ両親の前で歌を披露していたが、大きくなるにつれて、そういったこともすっかりなくなっていた。


「驚いたよ。こんなに上手になっていたんだね……」

「本当ですか?」

 父に褒められた晶子は、嬉しそうに父に聞く。


「来年も……――いや、また家に帰ったら、他の歌も是非、聴かせておくれ」

「はい!」

 紀行に頭を撫でられ、元気良く返事をする晶子を見て、雅子と晶は微笑ましそうにしている。


「君も、とてもピアノが上手だ!将来はピアニストかな?」

 晶子の頭に乗せていた手を離した紀行は、亜梨明の方に振り向きながら言った。


「いえ、そんなことないです!……私は、好きで弾いているだけですから」

 亜梨明は恥ずかしそうに手を振ったが、シーザーは「謙遜することはないよ」と、紀行の言葉を肯定した。


「君の演奏に感銘を受ける人はたくさんいるよ。少なくとも、ここにいる人間は全員ね!」

 シーザーがみんなのいるオープンテラスに視線を移すと、それに同意するように全員小さく頷いた。


「あ、ありがとうございます……!」

 亜梨明は照れるように、モジモジとしながら感謝の言葉を述べた。


 日は完全に沈み、満天の星空と黄色い光を放つ月が姿を現す――。

 だが、旅行の楽しみはまだまだ続くようだ。


「――さぁてと、最後の夜はバーベキューだけじゃないぞ!」

 食事も演奏も終わって、ちょっぴり寂しくなっていた子供達の顔を見た晶が、大きく声を張り上げる。


「そうそう!最後の最後まで、思いっきり楽しまなきゃね!」

 シーザーは、ニカッと笑って白い歯を見せた。


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