第76話 さりげなく


 流れるプールから少し離れたところにある、白いベンチに座った女の子達。

 先程までの楽しい雰囲気が一転して、暗く、静まり返ってしまった。


 特に、一番大はしゃぎしていた亜梨明は、見ていて可哀相なくらい落ち込んでおり、俯いたまま顔を上げることすらできない……。


「ごめん、緑依風ちゃん……。私のせいで、坂下くんに怒られちゃったね……」

 亜梨明が涙交じりな声で、緑依風に謝った。


「気にしないで、亜梨明ちゃんのせいじゃないよ」

 緑依風はそう言って励まそうとするが、亜梨明は返事を返せない。


「ごめん、私が奏音のこと叩いちゃったから……」

「私こそ、ちゃんと押さえるって言ったのに……」

「今のは……誰も悪くないですよ?みんな、元気出してください」

 晶子も四人の顔を見ながら言うが、全員黙り込んでしまう……。


「私……来ない方が良かったね……」

 ――ぽたりと、亜梨明の膝上に、一滴の涙が落ちる。


「そんなこと、言わないでください!」

「そうだよ〜!亜梨明ちゃんとここに来るの、私達も楽しみだったんだから!」

 晶子と星華が否定しても、亜梨明は首を横に振った。


「私がいたら、みんなに気を使わせちゃうのに……。坂下くんだって、私のこと心配してくれたのに……あんなこと、言っちゃったっ……」

 自分の軽率な行動で、楽しい旅行を台無しにしてしまった。

 病弱な自分の身を案じてくれる友の気持ちを、酷い言葉で拒絶してしまった。

 自分が参加しなければ、こんなことにならなかったのにと、亜梨明は自分を強く責め、止まらぬ涙を流し続けた。


 膝の上に乗せた手を握り締めながら、泣き続ける亜梨明。

 緑依風や奏音が、亜梨明の肩や頭を慰めるように優しく撫でていると、彼女達の斜め後ろの方から、誰かの足音が近付いてきた。


「兄さん……」

 兄の足音に気付いた晶子が振り向くと、晶は手に紙コップを持っていた。


「――あったかいココア。飲める?落ち着くよ」

 晶はそう言って、亜梨明に自動販売機で購入したココアを渡した。


「ありがとうございます……」

 亜梨明は冷えた手でココアを持つと、ふーふーと吐息で冷ましながら、ゆっくりココアを飲んだ。


「さっき晶子も言ってたけど、誰も悪くない。君も、ここに来て良かった」

「……はい。でも、せっかく楽しかったのにケンカしちゃって……」

 亜梨明が肩をすくめて言うと、晶は亜梨明の小さな頭に、大きな手をポンっと乗せた。


「ケンカなんて、どんな状況だろうがするさ。友達なら、付き合いが長ければ長い程ケンカすることも増えるし、晶子と緑依風と星華だって、小さい頃ケンカなんてよくしてたけど、今だって仲良しだろ?な?」

 晶が三人の顔を見つめた。


「確かに……」

「しましたね、たくさん」

「うちらなんて、手も出たもんね!」

 緑依風、晶子、星華の三人は、幼い日の記憶を思い出してクスッと、笑った。


「もう少ししたら、仲直りしに行こう。風麻もきっと、同じこと思ってるよ」

「はい……」


 *


 波の出るプールの前の人工砂浜では、風麻が爽太の隣で座り込み、膝を抱えたまま落ち込んでいた。


 最初は、利久も二人のそばにいようとしたが、シーザーが二人で話をさせて欲しいと言い、利久を引き留めた。


 爽太は、顔を膝に埋めたままだんまりの風麻が、自分から何か話すのを待つように、小さな波の音を聞きながら、プールの最奥を眺めていた。


「――俺は……お前が羨ましい」

 風麻が頭を上げずに言った。


「俺だって、相楽姉のこといつも心配してる。相楽姉が何か困ってないか、いつも見てる……。なのに、俺が心配するより、お前が助けに行った方が、相楽姉は嬉しそうな顔をするんだ……」

 爽太にだけは、亜梨明のことに関しての想いを打ち明けたくなかった。

 ――けれど、嫉妬の念やプライドよりも、今はただ……ただ、この悔しくて悲しい気持ちを、風麻は横にいる爽太に聞いて欲しかった。


 反省しているのは亜梨明に対してだけじゃない。


 一番の理解者だと思っている緑依風にも、中学校に入ってから仲良くなった奏音や星華にも、彼女達の話に聞く耳持たずに、高ぶる感情をそのままぶつけて、傷付けてしまった――。


 亜梨明が怒るのも当然だった。

 ――なのに、「心配してやった」だなんて、まるで恩着せがましい言葉を吐いて、亜梨明に嫌われたかもしれないと考えると、風麻はますます罪悪感に襲われ、泣きたい気分だった。


「…………」

「…………」

 プールの奥では、ザァァァ~……と、音を立てながら大きな波が作られた。


 波は、風麻と爽太のつま先ギリギリまで来た所で、またプールへと戻っていった。


「風麻……。それは、仕方がないんだよ」

 爽太が静かに口を開いた。


「僕は、亜梨明と同じ経験があったからこそ、彼女がどうして欲しいのか、こういう時にどう思うかって、予測ができるから……――でも、風麻は違う。ずっと元気で健康で……僕らが難しいと思うことも、簡単だと思えることも、きっと全部が危険なものや、退屈なものに見えるかもしれない……」

 風麻はそっと顔を上げ、自分の足を見ながら爽太の話を聞き続けた。


「でもね、それを全部そうだと思わないで。亜梨明がやりたいって思うことや、できると思ったことは、なるべくチャレンジさせてあげて欲しいんだ」

「…………!」

 風麻が爽太の顔を見ると、爽太は少しだけ笑みを浮かべながら、隣にいる風麻との距離を詰めた。


「もちろん、危なすぎることは止めるけど……でも本人が、自分が何ができて、何ができないかって、一番わかってる。一緒にいる相楽さんだって、亜梨明の限界をちゃんと知ってる。あまり周りに行動を制限されすぎると、亜梨明は何もできない自分に苦しむし、気を使わせてるって、常に遠慮して生きていかなければならなくなる。それは、亜梨明が可哀想だ」

 爽太の言う通りだと、風麻は思った。


 自分が亜梨明に対する『心配』は、本当の意味で、彼女に寄り添ったものではなかった。

 ただ、そうしている自分にどこか酔いしれ、彼女との会話を増やすために、爽太の行動を真似たり、自分以外の人が先に彼女を気遣うことで苛立つなど、亜梨明が喜ぶはずがない。


 亜梨明が好きだからこそ、自分の損得無しに、もっと彼女の気持ちに寄り添わなければと、風麻はこれまでの行動を反省し、考えを改めた。


「亜梨明はもう、無理はしないってみんなに約束したし、本当に困った時は、きっと風麻にも頼ってくれるよ」

「……うん」

「だから今度は、ただ心配するだけじゃなく、何がしたいか聞いてあげて欲しいな」

「何がしたいか……か」

「さりげなく……ね」

「やってみる……!」

 風麻は、親身になってアドバイスをくれた爽太に、「ありがとう」と告げ、離れた場所で待機していた利久やシーザーを誘い、残りの時間をめいっぱい遊ぶことにした。


 *


 バスの迎えが来るまであと一時間半を切ったので、一同はお風呂に移動した。

 水着のまま入れるお風呂なので、男女混浴だ。


「お風呂っていうより、お湯のプールって感じだね」

 奏音が湯船に浸かりながら言った。


「あったかくて気持ちいいね〜!」

 亜梨明は広々とした浴槽の中で、手足を大きく伸ばして喜んでいた。


 女の子五人がゆったりと湯船に浸かってリラックスしていると、彼女達のいる場所に、やや緊張した面持ちの風麻が一人でやって来た。


「相楽姉……ちょっといいか」

 風麻が亜梨明に声を掛けた。


「仲直り、しておいで」

 緑依風が亜梨明の肩をポンっと叩いた。


「うん、行ってくるね!」

 亜梨明が風麻のそばへ行くと、まずは風麻から謝った。


「ごめんな……あんな言い方して」

「ううん、私こそ。坂下くん今日だけじゃなくて、いつも心配してくれてたんでしょ……。ごめんね。ありがとう」

 亜梨明が笑いかけると、風麻も強張った表情を緩めて、口角を上げる。


「緑依風達も……ごめんな!」

 風麻が、奥にいる緑依風や奏音達にも、頭をペコっと下げて謝ると、「いいよ、もう気にしてない!」と、緑依風は湯船に浸かったまま風麻に言った。


「帰る前に仲直りできてよかったよ」

 星華も安心したように、ヘラっと笑って言った。


「――あっ、そうだ!坂下くんもこっち来てあったまりなよ。木のお風呂気持ちいいよ!」

「えっ⁉」

「えっ、ちょっと亜梨明ちゃんっ――!!」

 亜梨明は緑依風に気を利かせようとしたのか、緑依風と自分の間の場所を指差した後、風麻を手招きしてお風呂に誘った。


 風麻は亜梨明と彼女が示した場所と、浴槽の中で自分に視線を集める緑依風達を交互に見ると、まだお風呂に入っていないというのに、顔を茹でダコのように赤く火照らせていく。


「おっ、おれっ――!!爽太と泡風呂入ってくるっ!!」

 いくら亜梨明と一緒といえど、さすがに女子しかいないお風呂に入るのが恥ずかしかった風麻は、逃げるように小走りで爽太の元へと急ぎ、途中で滑りそうになって、「――ひえっ、お、おわ~っ!!」と甲高く、情けない叫びを上げていた。


「よかったね」

 奏音が立ったままの亜梨明を見上げて言った。


「うん!」

 亜梨明は奏音に振り向き笑顔で返事をすると、再び湯船に浸かって、みんなとのお風呂を楽しんだ。


 *


「松山さん達と入ってくればよかったのに」

 爽太が言うと「絶対やだね」と言いながら、風麻はブクブクと泡が立つ湯船に、顎まで浸かった。


「ハーレムじゃん。面白そうだから入ってきたら?」

 利久が茶化すと「お前が行けっ!」と風麻は怒ったように言った。


 晶とシーザーは、サウナで暑さの我慢対決をしている。


「俺さ〜、風麻くんの好きな子わかっちゃった」

 シーザーは、座っている椅子の上に両手を付け、天井を見上げながら言った。


「俺も、さっきのでな」

 晶は右手を顔の横でパタパタと動かしながら、プールでの出来事を思い出していた。


「――で?シーザーは風麻の応援?」

「まぁ、そうかな。他の子達はまだ、風麻くんの気持ちに気付いていないみたいだけど、なんだか複雑なことになっちゃってるなぁ~」

 シーザーは腕組みをして、「大変そうだ」という表情をしている。


「俺は、緑依風の応援を続けるよ。――もし俺が勝ったら、シーザーは将来、俺の専属秘書な」

 晶の提案に、シーザーは「乗った!」と、快活な声で賛成した。


「じゃあ俺が勝ったら、晶は会社を継がずに、俺と新しいビジネス始めるぞ!」

「それも面白いな!」

 晶とシーザーはガシッと手を組み、こっそりと自分達の未来を、子供達の恋の行方に賭けたのだった。


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