第73話 らく


 海から戻ると、皆交互にシャワーを浴びて、海水や汗を洗い流した。

 部屋の浴室を二番目に使用できた風麻は、三番目の利久と交代した後、タオルでバサバサと髪を拭きながら、ドライヤーのある寝室へと向かう。


 開けっ放しの寝室のドアの向こうでは、爽太がドライヤーで髪を乾かし終えたばかりで、彼は鏡越しに映った風麻に「使う?」と、手に持っていたドライヤーを渡した。


 爽太の白い肌が、日に焼けてやや赤くなっており、よく見れば鼻先もほんのりピンク色になっていた。


「サンキュ」と、短い返事をした風麻は、爽太からドライヤーを受け取ると、自分の髪に温風を当てた。

 爽太はリビングルームに移動し、風麻は寝室に一人となった。


「(……爽太って、褒める以外には相楽姉に何を話してたっけ?)」

 鏡に映る爽太の背中を見ながら、風麻は思う。

 今日一日――いや、夏休みよりもっと前の爽太の行動を思い出しながら、風麻は彼が日頃、どのように亜梨明に接していたのか考え始める。


 *


 夕食後――。

 女の子の部屋では、亜梨明と晶子、星華の三人が、今日の海水浴での出来事について盛り上がっていた。


 亜梨明も日焼けで腕や顔が赤くなっており、時短のために、奏音と二人でシャワーを浴びていた時は「痛い痛い!」と、騒いでいたが、今は日焼けの痛みも落ち着いているようで、常に笑顔だった。


「――それでねっ、私泳げないけど爽ちゃんがゴーグル貸してくれたから、顔だけ水につけて海の中も見てみたの!綺麗な透明の世界が見れて、すっごく感動しちゃった!!」

 亜梨明の会話を聞きながら、緑依風は別のソファーで、クッションを抱き締めてぼんやりとしている。


 そこへ、バレー部の友達からの連絡事項に返信を終えた奏音が、「どうしたの~?」と、緑依風の隣へやって来た。


「緑依風は坂下と今日どうだったのさ?」

 可愛いロングシャツタイプのパジャマを着た亜梨明と違い、英語のロゴが入ったシャツに、ハーフパンツのルームウェアを着た奏音は、ペットボトルの水を手にしながら緑依風に聞いた。


「うーん……。遊んだし、楽しかったけど、いつもとあんまり変わらないんじゃないかなぁ~」

 水着の話題の時は、褒めることもけなすこともなく、興味がないといった返答をされ、期待はしていなかったものの、やはり風麻から見た自分は、どんな格好をしても同じなんだと、緑依風は改めて感じさせられた。


 しかも、途中から風麻の様子がやや不機嫌に見えて、休憩していたところを無理矢理誘ったことが原因だと思ってからは、あまり行動的になれなかった。


 風麻はそうじゃないと言ったが、緑依風としては、それ以外に彼の機嫌が悪くなった理由が思い浮かばない。


「慣れないことするんじゃなかった……」と、思っていても、それを口にすると余計に落ち込みそうなので、奏音にも話せなかった。


「――あ、そうだ!」

「ん?」

 緑依風は別荘に戻る直前にした会話を思い出し、ハッと顔を上げる。


「ねぇ奏音、風麻が私に話してる時ってどう見える?」

「ハナシ~ぃ?」

 緑依風に聞かれて、奏音は首を横に傾けた。


「一番自然体じゃない?私らが話す時よりも、信頼してるっていうか、良くも悪くも甘えられてるっていうか~……。うん、でもゴメン。恋人同士というよりは、やっぱり姉と弟に見えるかな」

 率直な奏音の意見に、緑依風は「だよね……」と、クッションに顔を埋めた。


『ラク』と言うのは、気を使わないからだ。

 気を使わないということはつまり、風麻が自分を恋愛対象として見ていないということだと、緑依風はひしひしと感じて、更にクッションに顔を深くうずめていく。


「――でもさ、それを変えようとしてるんでしょ?私は、晶子や星華が言ってるみたいにしなくてもいいと思うよ。焦るよりも、ゆっくり好きになってもらう努力する方が、緑依風だって挑戦しやすいんじゃない?」

「…………」

 緑依風は、斜め前にいる晶子達を見て、短くため息をついた。


「……元々、焦るつもりはあまりなかったんだけど、でも昨日、星華が言ってたじゃん?風麻にもそのうち、好きな人ができるかもしれないって……」

 最初は、例えどんなに晶子に言われようとも、自分のペースでいいんだと思っていた緑依風。


 しかし、自分がモタモタしている間に、風麻に好きな人が出来て――風麻を好きな人ができたらと考えると、さすがに心が焦り始めた。


 焦って失敗するのも、自分の想いが伝わらないうちに、風麻に恋人ができてしまうのも同じくらい嫌だった。


 でも、結局は動かなければ何も変わらない。

 日焼けして茶色くなった手足と同じように、緑依風の心もヒリヒリと痛む。


 *


 三日目。

 最終日の今日は、貸し切りの温水プールで遊ぶ予定なのだが、プールを使用できるのは午後からのため、午前中は持って来た宿題を多目的ホールに集まって、みんなでやることになった。


 緑依風、爽太、晶子、利久は、すでに夏休みの宿題を殆ど終えており、のんびりやろうとしていた残りのメンバーは、分からない問題を質問しながら解いている。


 晶とシーザーは車に乗って、ショッピングモールへ買い物に行ったようだ。


「私もオープンカー乗りたかったよー!!」

 星華が駄々をこねはじめたので、利久が「いいから早くそれ解いて」と注意した。


「……これ、組み合わせ合ってる?」

「はい、正解です」

 奏音は、英語が得意な晶子に問題を見てもらっていた。


 亜梨明と風麻は眠くてウトウトしており、今にもテーブルに頭をぶつけてしまいそうだ。


「――……二人とも、寝ちゃうなら起こさずにそのまま置いて、プールに行っちゃうよ?」

 爽太が言うと、二人はほぼ同時にガバッと目を冷ました。


「プール……行きたい」

 寝ぼけ眼の亜梨明がぽやっとした声で言う。

 亜梨明は、再びくっつきそうな瞼が閉じぬよう、目にギュッと力を入れて、ペンを持ち直す。


 その様子が面白可笑しくてみんなが笑うと、亜梨明はヘラっと顔を歪ませ、ちょっぴり恥ずかしそうにした。


 *


 昼食の準備ができたと雅子から呼ばれた子供達は、ホールを出て、ぞろぞろと食堂へ向かう。


 亜梨明はまだまだ眠いようで、移動中もぽ~っとした顔のままだ。


 風麻の後ろを歩いていた緑依風は、彼が手に持っている荷物からコトンと、何かが軽い音を立てて、床に落ちるのを見た。


 どうやら風麻は、ペンケースのファスナーをきちんと閉じていなかったようで、消しゴムがその小さな隙間から落ちてしまったらしい。


 消しゴムを拾い上げた緑依風は、「風麻」と彼を呼んだが、それと同時に、風麻は「なぁ、さが――……」と、前方にいる亜梨明に声を掛けるところだった。


 タイミングが被った……――と、思った緑依風だったが、風麻は自分の方へ振り向き、「なんだ?」と言った。


「あ、これ……落としたよ」

 緑依風が消しゴムを見せると、風麻は「サンキュ」と言って、緑依風から消しゴムを受け取った。


 風麻が再び前を向くと、亜梨明は爽太と雑談している。

 緑依風は、風麻も亜梨明に用があったのではと思うと、邪魔してしまって悪かったなと、申し訳なくなった。


 *


 お昼を軽く済ませ、昨日洗って乾かしてもらった水着やタオルをバッグに詰めると、風麻は一足先にバスに移動し、一昨日座っていた場所と同じ座席に腰を掛けた。


 みんなを待ってから移動しても良かったのだが、なんだか今は一人になりたかった。


「上手くいかないなぁ~……。もう明日には帰るのに……」

 風麻は先程、宿題中に自分と同じく眠そうにしていた亜梨明を、不慣れな旅行で疲労が溜まっているのではないかと心配していた。


 学校では、水温が低すぎて体調を崩しやすいからと、プール授業はすべて見学していた亜梨明が、昨日は朝から夕方までずっと海で遊び続けていたのだ。


 朝食の時こそ元気だったが、みんなと一緒に遊びたくて、無理をしているのではないか……?


 そう考えた時、風麻は思い出したのだ。

 普段の爽太なら、こういう時に彼女の体調を気遣い、声を掛けるのではないかと。


 爽太と同じように接すれば、自然な流れで亜梨明と会話することが出来る――。


 意を決して声を発した途端、自分が落とした消しゴムを拾ってくれた緑依風に呼び止められ、そのまま振り向いて受け取ると、亜梨明はすでに、爽太に自分が言おうとしていたことと同じことを聞かれており、風麻はまたタイミングを逃してしまったのだ。


「あ~あ……」

 自分の行いに後悔し、苛立つように荒く息を吐く。

 ――すると、誰かの足音が聞こえて、風麻はバスのドアの方へ視線を向ける。


「あれ、風麻……?」

 足音の正体は緑依風で、彼女の他には誰もいない。


「一人か?」

「風麻こそ……日下達は?」

「もうすぐ来るんじゃね?」

 膝より少し短い丈のデニムのスカートと、黄色いタンクトップを着た緑依風は、どこに座ろうかと、キョロキョロとして迷っている。


「こっち座れば?」

 風麻が自分の隣の座席を指差すと、緑依風は「うん……」と、小さな声で返事をした。


 バスのエンジンはまだついておらず、窓も開けられないため、蒸し暑い。

 夏らしく、外ではセミが大きな声で元気いっぱいに鳴いているが、バスの中では沈黙が続く。


 風麻がチラっと緑依風を見ると、緑依風は少し申し訳なさそうな様子で、風麻の視線に目を合わせた。


「――あの、さっきごめんね」

 突然緑依風に謝られ、風麻はその理由が思い当たらず「何が?」と、少し驚きながら聞いた。


「風麻、亜梨明ちゃんに何か言いかけたでしょ?タイミング悪く声掛けちゃったから、謝りたくて……」

「へっ?あれのこと……?なんでお前が謝るんだよ?」

 むしろ、落とした消しゴムを拾ってくれて感謝していたのに、予想だにしなかった理由で謝罪されたことに、風麻は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、緑依風に問う。


「だって、なんかその後機嫌悪そうな顔してたし……」

 それは、自分の行いでチャンスを逃したことを悔いていたのだが、緑依風にその理由は言えない。


 そう、まだ今は――。


「お前のせいじゃないし、言いたかったことは爽太が言ってくれたからいいんだよ」

「何を言いたかったの?」

「……さっき、相楽姉が眠かったのは、ただ勉強がたいくつってんじゃなくて、疲れて体調悪くなってないかなーって。でも、俺が心配しなくたって、そういうのは爽太や相楽がしてくれるし、もういいんだ。だから、緑依風も悪くない。謝んな」

 風麻が言い終えると、緑依風は少し何かを考えるような仕草をした。


「……風麻も、言えばいいんじゃない?」

「は?」

 緑依風の言葉の意味がわからず、風麻は深く座っていた体勢を直し、緑依風に振り向く。


「心配するっていうのは、悪いことじゃないじゃん。友達のことを気遣うのは当たり前……っていうか、そうやって思ってくれる友達がいるって知るのは、亜梨明ちゃんだって安心するんじゃないかな?しつこいのはアレだけど、『大丈夫?』『元気か?』くらいはさ。私なら……そうだし」

 緑依風は外ハネする毛先に触れながら、風麻にそう言うと、また黙って座席の正面を向いた。


 彼女の言葉に、少しだけ風麻の胸の詰まりが取れていく――。


「ははっ」

 風麻が軽い声で笑うと、「何さ……」と、緑依風がもう一度、風麻に振り向き、怪訝そうな顔をする。


「やっぱり、お前と話すのが一番ラクだ!」

「……そう。そりゃどうも!」

 緑依風は残念な表情で笑みを浮かべるが、風麻にその意味は理解できない。


「――……あら、風麻くんも先に来ていたんですね!」

 少しニヤけた表情の晶子を先頭に、亜梨明や爽太、晶やシーザー達もバスに乗り込んできた。


 全員がバスに乗ると、運転手もやってきて、エンジンを掛ける。

 ブルン……っと、鈍い音を立てて稼働するバスは、目的地を目指して発車した。


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