第67話 祈りの石
最初の関門、ナースセンターの前を、爽太はカウンター内にいる看護師に「ちょっと売店に飲み物買いに行ってきます!」と、爽やかな声色で言いながら通過する。
亜梨明は、彼の真横を硬い表情のままついていく。
次の関門は、時間外出入口横の守衛室なのだが、「ここの守衛さんは声を掛けられない限り、前を通る人を気にしないよ」と爽太は言った。
正面出入口に比べて小さな自動ドアが、ガーッと音を立てて開く――。
爽太と亜梨明が病院の外の世界に一歩踏み出すと、真夏の熱がぶわっと二人の体を包んだ。
「裏庭を通るよ」
爽太が亜梨明の一歩前を歩きながら、『良い所』へ案内する。
少し薄暗い雑木林の道に入ると、亜梨明の表情はますます険しくなった。
「正面玄関からでも行けるんだけど、こっちの方が近いし、パジャマのままで外に出るには好都合なんだよね~」
爽太は、背後にいる亜梨明に語り掛けるように説明するが、亜梨明は怪訝そうな表情を崩さぬまま、黙って爽太の後ろをついてきた。
雑木林の道を抜けると、正面にはサヤサヤと稲が揺れる田んぼが見え、左側には、どこかへ続く階段が見えた。
「ちょっと長い階段上るけど平気?」
落ち葉と泥だらけの階段を二段ほど上った爽太は、亜梨明に手を差し伸べて、彼女を引っ張る。
「私は大丈夫だけど……。爽ちゃん、今日安静日でしょ?本当は大人しくしてなきゃダメなんじゃないの~?」
亜梨明は爽太より一日早く検査を終えており、今日の午後三時には退院予定だ。
彼女は、本来静かに過ごさなければいけないはずの爽太が、こうして無断で病院の外を出歩くことを心配しているのだが、当の本人は、まるで小さい子供のような無邪気な笑顔を保ちながら、階段を上ろうとする。
「平気だって、もう着くよ!」
少々怒り気味の亜梨明を気にしない素振りで、爽太は彼女の手を引いたまま、階段を上がりきった。
「もぉ~~!」と、亜梨明は不機嫌な声を漏らしていたが、爽太に続いて階段を上りきった瞬間、目の前に広がる光景に大きく息を呑んだ。
「――――!!」
一面に広がる、青々とした芝生。
そして、その広場の中央には、銀色のアーチと、アーチの下には真っ白で、丸い石が存在していた。
小高い丘の上に、アーチと石。
ただ、それだけなのだが、それが余計にこの場所の美しさを際立たせており、遠くで、広場を丸く囲うようにそびえ立つ木々が、まるでこの場所を守っている様にも見える。
「すごい……。すごく綺麗な場所だね!なんだか、ここだけ夏城じゃないみたい!」
亜梨明が感動しながら言った。
「一応、ここも病院の敷地内なんだ。手入れはされるけど、滅多に人も来ないし、静かで良い所でしょ?――亜梨明、こっちにおいで」
爽太は、亜梨明を手招きしながら、白い石の方へと進んだ。
亜梨明は爽太に誘われるまま、サクサクと芝生を踏み鳴らして、石の前へと近付く。
「『祈りの石』っていうんだ」
亜梨明が隣に来ると、爽太は石を見ながら説明した。
「祈りの石?」
「――これはね、昔、重い病にかかった無名の芸術家が、もう治らないって、医者に宣告されて、最期の作品として作るつもりだったらしいんだけど、生きることを諦めきれなかった芸術家は、毎日『治りますように』って、祈りながら石を丸く削って……そしたら、本当に治っちゃったって、話があるんだ」
「へぇ~」
「それで、元気になったその芸術家は、自分の作品を完成させて、病院のこの空き地に寄贈したんだって。……地元の人の言い伝えらしいから、本当かどうかわからないんだけどね!」
爽太は「ははっ」と笑いながらしゃがみこむと、白くて丸い石を撫でた。
「……でもね。僕の母親はその話を信じて、僕が余命宣告された時、毎日ここにお祈りに来たんだって」
「爽ちゃんが治るように?」
亜梨明が聞くと、爽太はゆっくりと頷いた。
「――だから、僕はこの石に、神様がいるんじゃないかって思ってるんだ」
「うん、きっといるね……」
亜梨明も爽太の隣に座り、石に軽く触れた。
すると突然、涼し気な風が少し強めに吹いて、二人の間を駆け抜けていった。
ザアッと、芝生や緑生い茂る木々が、音を立てて揺れ始める……。
風になびく亜梨明の長い髪が、お日さまの光を受けてキラキラと輝き、それが爽太の肩を掠めた瞬間――爽太の心に、ある想いが生まれた。
今まで家族と高城先生以外に語ったことのない、将来の夢。
大親友の直希にすら秘密にしていたその夢を、爽太は何故だか、亜梨明に知って欲しくなった。
その想いは、心地よい風に、目を細めて微笑む亜梨明の横顔を見れば見るほど、大きくなっていく――。
「……亜梨明、僕の話――聞いてくれる?」
「?」
亜梨明は不思議そうな顔で、横髪を耳にかけながら爽太に振り向く。
「――僕、医者になりたいんだ」
「お医者さん……?」
亜梨明の唇から、コロンとその言葉が出ると、爽太は亜梨明の大きな瞳を見つめて、静かに頷いた。
「医者になって……自分のような子供達を治して、元気にしたいって思ってる」
「高城先生みたいな?」
「うん、なれるかわからないけど……」
爽太は頭の中に大きすぎる存在を浮かべると、亜梨明から目を逸らして、その視線を石に向けた。
「――……手術を乗り越えた日から……ずっと、そう願ってるんだ……」
爽太が夢を語り終えると、二人きりの丘に、沈黙が訪れる――。
爽太はハッと、我に返ったように短く息継ぎをし、それと同時に胸に押し寄せてきた恥ずかしい気持ちに、一気に顔を火照らせた。
無理だと思ってるかもしれない――。
僕如きが、あんなすごい人を目指すなんて、偉そうなことを言って、亜梨明はなんて感じただろう――。
羞恥心と後悔により、頬を薄紅色に染めながら、爽太は膝についていた手で、パジャマのズボンをキュッと握り締める……。
「――なれるよ!!」
亜梨明の強くはっきりした声が、小高い丘の原っぱに響いた。
爽太が、亜梨明の声と同時に顔を上げて振り向くと、亜梨明はキラキラと目を輝かせて、爽太の顔を見つめていた。
「きっとなれるよ!爽ちゃんなら、高城先生みたいなすごいお医者さんに!だって、爽ちゃんはいつもたくさん勉強してるし、困ってる人を助けてくれるし、優しいもん!」
「…………」
亜梨明の真っ白で、真っ直ぐな言葉が、爽太の胸に入り込む――。
「爽ちゃんがお医者さんになったら、元気な子供がいっぱい増えるね!私、たくさん、たっくさん応援するね!!」
両手を握り締め、全身に力をいっぱい込めるようにして気持ちを伝える亜梨明。
爽太は、そんな彼女の様子に、うわべではなく、心から自分の夢を応援してくれていると信じることができた。
そのひたむきな彼女の言葉を受けて、胸の奥が満たされた爽太は、嬉しさに目の奥を熱くさせ、涙を滲ませる……。
「――……ありがとう」
爽太は泣きそうな顔を亜梨明に見られぬよう、石に視線を落としながら、掠れた声でお礼を言った。
「……よし、私も決めた!」
亜梨明は感極まる爽太の隣で、強い声を上げる。
「爽ちゃん。私――大人になって、お医者さんになった爽ちゃんを見たい!」
「え?」
「だから、病気絶対治したい!……ううん、治すよ!」
「亜梨明……」
「手術をいつ受けれるかはまだまだ分からないけど、でも絶対乗り越える!爽ちゃんの夢を教えてもらったら、『生きたい』って気持ちが、今すごくいっぱいなの!」
亜梨明はそう宣言すると、ちょっぴり照れ臭そうに微笑んだ。
初めて会った日からは想像できないくらい、生命力に満ちた亜梨明の姿。
それは、爽太がずっと見たかったものだった。
爽太は、その姿をしっかりと胸に刻み込む――。
「……お祈りして、そろそろ帰ろうか」
「うん!」
爽太と亜梨明は、それぞれ石の上に手を置き、目を閉じて願いを心の中で唱える。
先に目を開けた爽太は、まだ祈り続ける亜梨明を見て、もう一度願いを石に託した。
元気な体となって、大人になった亜梨明を見たい。
医者になって、隣にいる亜梨明にその姿を見届けてもらいたい――。
「(亜梨明なら、きっと笑って喜んでくれる……)」
爽太の瞼の裏に、成長した亜梨明が、屈託のない笑顔で祝福してくれる姿が浮かんだ。
「――さ、看護師さんに見つかる前に帰ろう、爽ちゃん!」
祈り終えた亜梨明が、パンっと、手を軽く鳴らして立ち上がると、爽太も「うん……」と返事をしてゆっくり立ち上がる。
背中に蒼い風を受けながら、爽太は嬉しそうな足取りで前を歩く亜梨明についていく。
そして、もう一度祈りの石に振り向き、必ず夢を叶えると誓うのであった。
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