第66話 亜梨明との約束


 昼前から夕方まで眠ったのに、夜もぐっすりと、朝まで一度も起きずに眠り続けることができた爽太。

 まるで、この数週間分の寝不足を補うような、深い眠りだった。


 午前の外来診察。

 爽太は唯と共に、内田先生から、昨日まで受けた検査の結果報告を聞いていた。


「――……心臓の方は全く問題無しでした。血液検査は、やっぱり少し貧血気味だったけど、運動禁止までしなくても大丈夫。ただ、可能であれば貧血が改善されるまで、顧問の先生に練習メニューを調節してもらった方がいい。食事も、鉄分豊富なものを意識して食べて。他の検査も全部、異常無しです!」

 内田先生の説明を聞いて、爽太も唯も安堵した。


 爽太は、内田先生に言われた通り、先日断った自分のための練習メニューを、もう一度考えてもらえるか、竹田先生に相談することにした。


 唯も、部活から帰るたびに、疲れ果てている爽太がずっと心配だったようで、爽太はそれを知って、自分の為にも家族の為にも、焦らずに自分のペースで強くなろうと決めた。


 *


 診察を終えると、爽太はエントランスで母と別れて、一人病棟に戻っていく。


 この日は安静日で退院はできないものの、大人しく過ごすのであれば、売店行ったりなど、院内を歩くのは自由だ。


 エレベーターに乗ると、爽太は昨日の夕方に見た夢を思い出そうとした。


 夢というのは不思議なもので、嫌な夢ほど鮮明に覚えているのに、良い夢というのはおぼろげで儚く、所々記憶が抜けてしまっている。


 それでも、今まで認めたくなかった、自分の弱さを受け入れた爽太の心は、とても晴れやかで穏やかだった。


 ポーン――。

 エレベーターのアナウンスが『四階です』と、到着したことを告げる。


「あ……!」

 ドアが開くと、高城先生が立っていた。


「先生!」

 爽太が少し駆けるように高城先生に近付く。


「たくさん眠れた?」

「はい。食事もちゃんととりました。もう大丈夫です!」

 爽太が笑顔で答えると、高城先生は「それは良かった」とにっこり笑った。


「……さて、僕はまた他の患者さんに会いに行って来るよ。会えて嬉しかったよ、爽太くん」

 高城先生が爽太の肩に手を置いた。


「そっか……。もう、行かれるんですね」

 再び会えたというのに、もうお別れだと知った途端、爽太は残念そうに目を伏せる。


「元気でね……」

 高城先生は、寂しがる爽太の肩に置いていた手を離し、そう言った。


「はい……」

「――そういえば、昨日爽太くんの部屋の前に女の子が来てたよ」

「女の子?」

 爽太が首を傾げた。


「髪が長くて……ピンクのパジャマを着てたかな?目が大きくて可愛い子だったよ」

「もしかして……亜梨明かな?入院してたんだ」

 爽太はふと、誰かの視線を感じ、振り向いた。


 振り向いた瞬間、壁にサッと隠れる少女の姿が見えた。

 顔や体は見えなくなったが、長く揺れる髪の毛だけが、隠れきれずにはみ出している。


「あ、やっぱり亜梨明だ」

「そうそう、あの子」

 高城先生が手招きすると、亜梨明は見つかったことに気付いて、顔を真っ赤にして首を横に振った。


「おいでよ亜梨明!」

「~~~~っ!」

 爽太が声をかけると、亜梨明は恥ずかしそうにモジモジしながら、ゆっくり近付いて来る。


「こんにちは。やっぱりまた会ったね」

 高城先生が亜梨明に挨拶すると、亜梨明は「こ……こんにちは」と気まずそうに挨拶を返した。


「どうしたの?」

 ずっと赤い顔をした亜梨明を見て、爽太は聞いた。


「あ……あのね……爽ちゃんが入院してるって知って、どこか悪いのかなって気になって……そ、それで――!!」

「心配、してくれてたの……?」

 爽太がキョトンとした表情で言った。


「ごめんね!余計なお世話だったかもしれないけど!!……の、覗いてたのも悪気があって覗いてたんじゃなくて――っ!!」

 亜梨明が、バッと勢いよく頭を下げて謝ると、爽太はそんな亜梨明が面白くて「あはは」っと笑いながら、彼女の頭を優しく撫でた。


「気にすることないのに!心配してくれてありがとう」

「……うん!」

 爽太に頭を撫でられた亜梨明の、恥ずかしがりながらも嬉しそうな笑顔を見た高城先生は、「おやおや……」と二人の姿を微笑ましそうに見ていた。


「じゃあ、おじさんはお邪魔になるので……」

 高城先生は、まるで口笛を吹くように口先をすぼめながら、キャリーケースを持ち直す。


「爽太くん――……と、亜梨明さん」

「はい」

「はい?」

「また会おうね!」

 高城先生は到着したエレベーターに乗り込むと、サッと片手を上げて、二人に別れを告げた。


 *


 デイルームに移動した二人は、給水機の水を紙コップに入れて、それを飲みながら話をした。


「――ええっ!?あの人が、爽ちゃんの根治手術を担当した先生だったの!?」

 亜梨明が驚いて、ちょっぴり大きな声で言った。


「うん。あれ、前に写真見せなかったっけ?」

「一回だけだし覚えてなかった……。そんなにすごいお医者さんだったなんて……」

 亜梨明が「ほぉぉ…」と声を出しながら言うと、「クマさんみたいでしょ」と爽太が言った。


「定期検査だったんだね、よかった。やっぱりどこが悪かったのかなって思って……」

「そのことについて、亜梨明に謝らないとね……」

 爽太は、手に持っていた紙コップをテーブルに置くと、頭を少しだけ下に傾けた。


「――ごめん。この間亜梨明が言った通り、あの時体調崩してた。前に亜梨明にあんな偉そうなこと言ってたくせに、嘘を付いて……ごめんなさい」

 爽太が謝ると、亜梨明は小さく口を開けたまま、黙って聞いていた。


「――でも、もう大丈夫!高城先生のおかげで元気出たし、亜梨明からもらったキャンドルも……リラックスできた!」

 爽太から謝罪の言葉と、回復したことを聞いた亜梨明は、「……うん、それならもういいの!」と、頷いてにっこり笑った。


「私は、爽ちゃんが元気になってくれたなら、なんだっていいんだ!でも――……」

 亜梨明は言いかけた途中で、爽太の目の前にそっと小指を差し出す。


「今度は……辛い時とか、悩んでる時――……私のこと頼るって約束して!」

「…………」

「正直に言うと……頼られた時、どうしてあげられるかわからない……。でも、頼ってばかりっていうのは、嫌なんだ。私、爽ちゃんの役に立ちたい!」


 ――ああ、本当に……昔の僕にそっくりだ。

 だからこそ、爽太は亜梨明の気持ちを理解できる。

 自分が頼られることが嬉しいのと同じで、亜梨明もきっと、頼ってもらえたら嬉しいのだと。


「――わかった。僕も亜梨明を頼りにする!」

「ホント!?」

 少し前のめりになりながら、亜梨明が聞く。


「うん。もし何かあったら、今度は正直に話すよ。約束する!」

「約束ね!」

 爽太が亜梨明の小指に自分の指を絡めると、亜梨明の柔らかくてか細い小指に、キュッと力が込められた。

 爽太は、そんな亜梨明がとても頼もしく感じて、クスっと小さな笑みを零した。


 指切りを交わした後――元気いっぱいに鳴き出すセミの声が耳に入り、爽太はふと、窓の外に顔を向ける。


 鮮やかな青い空の下に、駐車場、木々に覆われた細い道の向こうにある、狭い田んぼ――そして、その斜め左の方角には、小高い丘が見えた。


「そうだ!」

 爽太は窓の外に視線を向けたまま、何かを思いついたように言った。


「亜梨明、良い所連れて行ってあげる!」

 対面にいる亜梨明に身を乗り出した爽太は、彼女の耳元で小さく囁いた。


「いいところ?」

 突然声を潜める爽太に、亜梨明は疑問符を頭の上に浮かべたように聞く。


「しっ!――こっそり行くよ。外だからね」

「そとぉ?」

 亜梨明が驚きながら爽太の顔を見ると、爽太は再び彼女の耳に顔を近付け、作戦を告げる。


「看護師さんには下の売店に行くって言って、時間外出入り口から抜け出すよ」

「見つかったら怒られちゃうよ〜?」

 小声で爽太を止めようとする亜梨明。

 ――しかし、爽太の口からは、普段の彼から想像できない言葉が飛び出した。


「……大丈夫!僕、こっそり抜け出すの得意だから!!」

 そう、宣言する爽太の表情は、まるでいたずらっ子のようだった。



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