第65話 強さも弱さも


 すぅー、すぅーと、健やかな寝息を立てる爽太。

 何日も熟睡できなかった彼は、心のしがらみから解放され、ようやく安心して眠ることができた。


 約一時間程、爽太のそばに付き添っていた高城先生は、ぐっすり眠っていても自分の手を離さない少年の手のひらを、ゆっくりと開いて退室しようとしていた。


「……ん?爽太くんの物かな?」

 高城先生は、足元に落ちていた薄紫色のアロマキャンドルを拾った。


 爽太が先程枕元に置いたキャンドルは、検査終了後の彼を運ぶときに転がって、この病室の床に落ちてしまったようだ。


 高城先生は、開いたままの爽太の白い手のひらに、ちょこんとキャンドルを乗せると、それを軽く握らせるようにして、自分の手の代わりに使った。


 *


 ――爽太の病室の外では、悶々とした表情の亜梨明が立っていた。


「……やっぱり、これ……爽ちゃんの名前だよね?」

 亜梨明は、病室の前にある表札をじっと見つめながら言った。


 白い札に油性マジックで『日下爽太』と書かれた名前。

 同姓同名ならいいが、亜梨明は爽太と同じ苗字を、この辺りで他に聞いたことが無い。


「爽ちゃん……やっぱりどこか悪かったのかな」


 ――頼って欲しかった。

 数か月前、爽太が自分に零した言葉を思い出す亜梨明。


「私だって……私だってそうなのに……」

 頼ってもらえるような人間じゃないことは、亜梨明自身もわかっている。

 直希に注意されたにもかかわらず、うっかり爽太が触れて欲しくなかったであろう部分にも、口を滑らせてしまい、戸惑う彼の表情を見た時は、これでは頼られなくても当たり前だと、後でものすごく反省した。


 それでも――……それでも、大好きな人の力になりたい。

 何をすればいいのかわからないけど、何かがしたい――!!

 亜梨明は、泣きべそを掻きながら、爽太の病室のドア横にある壁にもたれて、膝を抱えて座り込んだ。


 ――すると突然、ガラッと音を立てて、病室のドアが開いた。


「あ……」

「君は、さっきの……」

 爽太の病室から出てきたのは、爽太ではなく、高城先生だった。


 亜梨明はとっさの出来事に、逃げることも立ち上がることも出来ないまま、気まずい様子でオロオロとしている。


「爽太くんなら寝てるけど……君は爽太くんのお友達?彼女さん?」

「と、とと友達です!!」

 亜梨明は手を横に振りながらそう言った。


「…………」

 高城先生は、慌てふためく少女の服装が、パジャマであることが気になり、「君は……どこが悪いんだい?」と聞いた。


「えっと、心臓……ですけど」

 亜梨明が自分の左胸をそっと押さえて答える。


「そっか……。担当の先生は?」

南條なんじょう先生ですけど……あなたは……?」

 先程から、妙な質問ばかりする目の前の男性に、今度は亜梨明が質問をする。


「僕は〜……爽太くんの友達」

 高城先生は数秒程考えた後、そう答えた。


「ともだち……ですか?」

「いや、ヒーローかな?」

「?」

「まぁ、いいや。――明日も来るから会えるといいね。では失礼……」

「……?」

 高城先生は亜梨明に手を振り、去っていった。


 エレベーターに乗った高城先生は、あご髭を指で触りながら、何かを考えている。


「そっか、南條くんの担当患者か……」

 ――ポーンと、軽い音と共に、一階に到着したと告げるアナウンスが響く。


 高城先生は、そのまま正面出口へと歩いていった。


 *


 白い空間に、幼い少年が大きな声で泣きながら暴れている。

 爽太は、それが昔の自分だと理解した。


「また、昔の夢だ――」

 不安な気持ちは全て無くなったはずなのに、まだ過去の夢を見ていることに、爽太はがっかりしてしまう。


 ただ、この夢はいつもと違った。

 普段は自分自身が過去の姿に戻るか、今の姿で苦しむ夢だったのに、今日の夢は幼い自分を少し離れた場所で、客観的に見ているのだ。


「うわぁぁぁんっ……わぁぁぁんっ……!!」

 抜けてしまった点滴の針を刺し直されて、幼い爽太は母の腕にしがみついて泣いている。


「頑張ったねぇ~爽ちゃん。偉いよ、強い強い!」

 唯はそう言って、爽太の背中をさすりながら、何度も『頑張った』と褒めていた。


「……強くない。弱いじゃないか……」

 爽太は、母と自分自身にそう零す。

 あんなに泣いて、何が強い?

 そもそも強ければ、こんな病院に何日も寝泊まりしていない。


 それでも、目の前にいる母親は、小さな爽太を抱きしめたまま、しつこいくらいに彼を褒め続ける。


「……本当に、がんばったって、おもう……?」

 ひっくひっくと、しゃくりを上げながら、幼い爽太が唯に聞いた。


「うん、爽太は頑張ってるよ……。お母さん、いつもそう思ってる……!」

「あ…………」

 爽太は思い出した。

 あの時、確かに自分は精一杯頑張った。

 泣き喚いて、周りを困らせてばかりだったけど、自分なりに痛みに耐えて、耐えて、耐え抜いて――いつか、こんな日々が終わることを信じていた。


 爽太が過去を振り返っていると、幼い自分が、母の腕から離れて目の前にやってくる。


「ねぇ、ぼく……。きみは、ぼくのことを弱いって、おもってる?」

「……うん」

 爽太はコクリと頷く。


「こんなぼくのこと、はずかしい、忘れたい、かくしたいって、おもってるよね?」

「えっと……」

 本人――自分自身にそう尋ねられて、爽太はどう答えようか悩んでいる。


 中学生の爽太が黙り込んでいると、小さな爽太が「じゃあ……」と、先に口を開く。


「亜梨明のことは?」

「えっ……?」

「きみが、昔のぼくとかさねて見ている、亜梨明のこともはずかしいの?」

 その問いかけに、爽太は「違うっ!」と否定した。


「彼女は……亜梨明は、そんなこと――」

「だったらぼくもほめてよ!」

 小さな爽太は、頬を膨らませて怒った。


「こんなにがんばってるのに……!今のきみがあるのは、ぼくががんばったからなのに、きみは……ぼくがはずかしい、弱いって思ってるの?」

「…………」

 自分自身に指摘されて、爽太は返す言葉が無かった。


「弱いってなに?強いってなに?いつだって、きみはがんばってた。それを否定してかくすなんて……きみは、亜梨明にも同じようにおもっていたんじゃないの?」

「そんなことないっ!亜梨明は――!」

「……がんばってる。――でしょ?ぼくも、きみも、亜梨明もみんな……がんばってるんだ。はずかしい?」

 爽太は、幼い自分にふるっと、軽く首を横に振った。


「――……いや、恥ずかしくない」

「だよね!」

 小さな爽太は、にぱっと誇らしげな笑顔を見せた。


「うん……!」

 中学生の爽太が力強く頷くと、幼い爽太は満足したのか、唯の元へと戻って行った。


 直希のように、高城先生のように――。

 爽太はそう願って、根治手術を終えた日から、がむしゃらに憧れを目指して理想の自分を作ろうとしていた。

 そのためには、過去の自分と決別して、弱い自分は隠して捨ててしまおうと思っていた。


 そうしなければ、あの二人になれない――。

 理想のためには、過去より今だと思い込んでいた。


 捨てなくていいのだ。

 それも全て引き連れて、あの二人の元へ走っていけばいい。

 二人には無い経験をしたからこそ、彼らにはわからない人の痛みを知ることもできた。


 亜梨明が自分に向ける眩しい笑顔は、病気を持って生まれて、それを乗り越えた自分だからこそ、見ることができたのかもしれない。


 それを認めた瞬間、爽太の耳に懐かしい音楽が流れてきた。


「この曲は――」

 小さい時に一度だけ聴いた、プレイルームで出会った女の子が弾いた曲だ。


 見栄を張って嘘を付いたことを後悔し、泣きそうな爽太に聴かせてくれた、あの音楽が、爽太が今いる真っ白な空間の空から、降り注ぐように聞こえてくる。


 たった一度しか聴いたことが無いのに、爽太は大きくなった今でも、この曲がずっと記憶から離れなかった。

 妹にヤキモチを妬き、なかなか良くならない病状に苛立ち、癇癪を起しても、この曲を思い出せば、不思議と心が安らいだ。

 そうして少しずつ、感情をコントロールできるようになった。


 爽太は目を閉じて、その音楽に耳を傾ける――。

 そして……もう一度目を開くと、そこは夕日色に染まった病室だった。


「…………」

 爽太がドアの方角に首を動かすと、高城先生の姿はもう無かった。

 代わりに、爽太の手のひらには、亜梨明がくれたアロマキャンドルが握られている。


「……うん、ぐっすり眠れた」

 爽太はキャンドルを顔元に近付けると、優しい香りを吸い込んだ。


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