第64話 涙雨


 一晩経っても雨雲が留まり続ける夏城町。

 雨は一旦止んだものの、雲はまだ千切れず、再び降ってきそうな雰囲気だ。


 そんな夏城町の駅前に、小さな黒いキャリーケースを引きずりながら改札を出る、一人の男性がいた。


「ふぅ~……この時期はどこ行っても蒸し暑いなぁ~」

 無精ひげを生やした太った男性は、ズボンのポケットから取り出したタオルハンカチで、汗まみれの顔をゴシゴシと拭いた。


 男性はタクシー乗り場をチラリと見たが、タイミング悪く一台も止まっていない。

 ちょっぴり残念そうな顔をした男性だったが、ズボンの上にやや乗りあげているお腹を見ると、困ったようにため息を吐く。


「……さてと、ダイエットのために歩きますか」

 男性はそんな独り言を呟くと、夏城総合病院のある方角を目指し、キャリーケースを引きながら歩き始めた。


 *


 検査着に着替え、点滴を投与された爽太は、看護師の「液漏れはしていないですか?」の質問に「大丈夫です」と答えた。


 これから受ける検査は足の付け根の動脈から管を通して、心臓の動きを調べる検査なので、前日に受けたものよりも準備が大掛かりだ。


 看護師が一度病室を出て行くと、爽太は引き出しにしまっていたアロマキャンドルを取り出した。


 昨晩は、起きていると見回りに来る看護師に心配されるため、消灯時間を過ぎると観念して眠ることにしたのだが、病院という場所のせいなのか、やはり昔の夢にうなされ、何度も目が覚めた。


 亜梨明がくれたキャンドルを、顔の近くに持ってくる。

 ほんのり甘く、だが清涼感のある香りに、張り詰めた気持ちが少しだけ解れる気がする。


 眠る時は遠ざけていたので、亜梨明の安眠できるようにという目的のためには使っていないが、それでも嗅ぐと一瞬リラックスできる気がした。


「爽太くん、車椅子持って来たから行こうか」

「はい」

 看護師が引き出し近くに車椅子を止めたため、爽太はキャンドルをしまわずに枕元に置いた。


「(何もありませんように……)」

 爽太はそう祈りながら、看護師が用意した車椅子に乗って、検査室へと運ばれた。


 *


 一方その頃――。


 爽太が寝泊まりする病室と壁を隔てて反対側の廊下に、ピンク色のパジャマを身に纏った亜梨明がいた。


「は~~あ~~っ……」

 廊下の壁を背もたれにし、座り込みながらつまらなさそうにする亜梨明に、「あら、大きなため息」と、若い女性看護師、園田そのだが話しかけた。


「だって〜……今日は誰も遊びに来てくれないんですよ……。親も妹も用事があるし、検査なのに友達にお見舞いに来てなんて言えないし〜〜……」

 立ち上がって、頬を膨らませた亜梨明が愚痴を零すと、園田はそんな亜梨明が可愛らしくてクスクスと笑った。


「調子がいいから余計に退屈よね」

「そうなんです!でも、こんなに体調がいいなら、きっと結果もいいんじゃないかって思うし、そしたら八月にはお友達の別荘に遊びに行くんです!」

「へぇ〜!じゃあその楽しみのために今は我慢ね」

「はい!――……ん?」

 亜梨明はふと、背後に何か大きな気配を感じた。


「――――!?」

 亜梨明が振り返ると、彼女の後ろには、身長190センチ程のコワモテのひげ面で、眼鏡を掛けた太った男の人が立っていた。


 ビクッと、背中を震わせた亜梨明のすぐそばで、看護師の園田もやや警戒したように「どうされました?」と、男性に問いかける。


「いやぁ~、すみません!ナースセンターに用があったんですが、誰もいないから探していまして!」

 男性はとても低い声だが、口調や表情は明るくて、思ったより優しそうだった。


「お嬢さん、驚かせちゃってすまないね」

「あ、いえ……」

 亜梨明は、ドキドキと速く脈打つ胸を軽く押さえながら言った。


「すみませんでした、どなたにご面会ですか?」

「はい。日下爽太くんはこの病棟ですか?」

「(爽ちゃん……!?)」

 亜梨明は、見知らぬ男性の口から、爽太の名前が出来てきたことに再び驚いた。


「あ、失礼しました。私、こういう者です」

 男性は名刺を園田に渡すと、「内田先生にも許可は頂いています」と説明した。


「爽太くんは反対側の病棟で、今は検査中だったはずです」

「ああ、そうですか。後でもう一度内田先生に会う予定なのですが、今外来の診察で忙しいと聞いているので、申し訳ないですが、先生に私はレストランで時間を潰してると言伝ことづて願えますか?」

「わかりました。お伝えしますね」

 男性は「お願いします」と言うと、自分を見上げる亜梨明の顔を見た。


「どうかしたかい?」

「いえ……なんでもないです」

 男性はにっこり笑って、エレベーターの方へと向かった。


「園田さん、日下爽太くんって子……ここに入院してるんですか?」

 亜梨明が質問すると、園田はまずいといった表情になった。


「えっと……本当は、守秘義務っていうのがあって、詳しくは言えないんだけど……いるよ。知り合い?」

「同じクラスの友達……なんです」

「なんだ、そうだったの!」

「爽ちゃん、どこか悪いんですか!?」

 亜梨明が少し声を張り上げて尋ねると、園田は「ううん、大したことじゃないの」と、だけ答え、それ以上は言わなかった。


 園田は「じゃあ、私は仕事に戻るね」と亜梨明に言うと、少しだけ急ぎ足でナースセンターへと戻って行った。


「爽ちゃん……」

 亜梨明は反対側の病棟へ続く廊下を見つめながら、彼の身を案じた。


 *


 検査が終わり、ベッドに寝かされたまま病室に戻された爽太は、見たくもない白い天井をぼんやりとした表情で眺めていた。


 太い血管に管を通すこの検査は、検査中よりもその後が苦痛だ。

 止血のために、足が曲げられぬようおもりを乗せたまま固定され、寝返りすら打てないのだ。

 この体勢を、完全に止血できる夜まで続けなければならない。


 爽太が耳を澄ますと、窓の外ではまた、強い雨音が響いている――土砂降りのようだ。


「眠い……けど……」

 何度も閉じかける目を必死に開き、眠りたくないと睡魔に足掻く爽太。

 眠ってしまって、次に目を覚ました時、あの悪夢が正夢になってしまったら――。


 まだ何もしていない……。

 もう、不安を抱えたまま生きるのも、死ぬのも嫌だ……!


 最初に悪夢を見た日から、常に『自分は大丈夫だ』と奮い立たせていた爽太だったが、もうこの恐怖心は、一人で抱えきるには大きくなりすぎて、どうしようもできなかった。


 爽太がいよいよ睡魔に負けて、眠りそうになると、病室の外から二人分の足音が聞こえて、ドアの前でそれは止まる。


 コンコンコン――と、三回ドアをノックする音のすぐ後、爽太はスライドされたドアの向こうにいる人物に、息を呑んだ。

 

「あ…………!!」

 睡魔はたちまち消え去り、代わりに、強い高揚感を覚える。


「こんにちは」

「高城先生っ……!!」

 爽太は、病室に入ってきた大柄の男性に向かって、叫ぶように彼の名を呼んだ。


 思わず起き上がりそうになる爽太を、後ろにいた看護師が慌てて止める。


「爽太くん、久しぶり!」

 高城先生は、大きな手のひらを頭の横に掲げて挨拶をした。


「メールはよくくれるけど、会うのは四年振りかな……?」

「先生っ、先生……!!お会いしたかったです!」

「うんうん!随分大人っぽい顔立ちになったね。そりゃ中学生だもんね……。布団被せてるからよくわからないけど、背も伸びたでしょ?」

 高城先生は、嬉しそうに自分を見上げる爽太の頭を、ワシャワシャと撫でながら言った。


 看護師は、爽太の身に付けられている管の状態を確認し終えると、二人を残し、静かに病室を出て行く――。


 白い小さな病室に、爽太は憧れの人と二人きりになった。


「先生、どうして来てくれたんですか?」

 爽太が不思議そうに聞いた。


「先日まで海外で依頼された治療を終えて、日本に帰国してね。手術を担当した患者のことを主治医の先生達にメールで連絡して、経過を聞いてたんだ。そしたら内田先生から、爽太くんの定期検査が近いって教えてもらったから、データと主治医の話だけでなく、本人の口からその後の具合を聞こうとしていたんだ」

「そう、だったんですか……」

 爽太は、掛布団の上から心臓の辺りに触れると、高城先生から視線を逸らした。


 高城先生は、急に静かになり、元気が無くなった爽太の顔を見つめながら、ベッド横の椅子に腰を掛ける。


「――内田先生にさっき聞いたよ。君が、再発や拒絶反応に不安になっているって」

「――――!!」

 爽太はハッとした表情で、再び高城先生の顔を見た。


「あ……あのっ!!」

 爽太の心は、今とても焦っていた。

 せっかく再会できたというのに、これでは高城先生の腕を疑っているように捉えられてしまうかもしれないと――。


「君がそう思っても仕方がない……あの手術は当時……――」

 高城先生が困ったような笑みで言おうとした瞬間、爽太は「違うんですっ!!」と、遮った。


「違う……っ、違うんです……っ!」

 爽太は高城先生の腕を掴むと、必死に誤解を解こうとした。


「…………」

 高城先生は静かに頷くと、爽太の細くて白い手を優しく握った。


「爽太くん、大丈夫だ……。言いたいことも聞きたいことも全部聞くから、全部話してくれるかい?」

 爽太はギュッと下唇を噛みしめた後、震える唇を恐れるように開いた。


「――根治手術の後……僕は、この手術のことを調べました……。僕以外にも、この手術を受けた患者がたくさんいて……元気になった人と、それから……一度元気になっても、その後死んでしまった人がいると、知りました……」

「…………」

「それからは常に……頭の片隅にそのことが住み着いて……。忘れようとしても、時々夢に見るんです……昔の夢と、再発をする夢を……」

 高城先生は、爽太の言葉一つ一つに耳を傾けて聞き入っている。


「この間、貧血で倒れてからは、その夢が何日も続いて……。関係無いってわかっていても、この症状はもしかしたら予兆なのかとか……また……っ、病気が戻ったらっ、再発したらどうしようって、怖くて……っ!こわ……っ、うっ……ううっ……!」

 爽太は言葉を詰まらせた途端に、目から涙を溢れさせた。


「すみません、すみません先生っ……!こんなこと……っ!こんな……ことっ、いいたく、なかった……のにっ!」

 こんなこと言うはずじゃなかった。

 もし、再び会うことができたら、「先生のおかげで元気に過ごしています」「治してくれてありがとうございます」と、メールではなく自分の声で伝えたかった。


 それなのに、一度口を開いてしまえば、長年心に溜まっていた恐怖や疑惑の念が、かさぶたのようにボロボロと剥がれて、声に出てしまった。


 目の奥のダムは決壊したままで、爽太は嗚咽を漏らしながら、次々に涙を流し続ける。


 爽太は、みっともない顔を隠したくて、高城先生が握ってくれる手とは反対側の腕で、早く涙を止めなければと、声を押し殺しながら目元を押さえた。


 高城先生は、そんな爽太の頭にそっと手をかざすと、小さい子供を落ち着かせるように、ゆっくりと優しく撫で始めた。


「――爽太くん、謝らなくていい」

 爽太は顔を隠していた腕を退けると、真っ赤に腫らした瞳で、高城先生を見た。


「……確かに、君の言う通りだ。元気なままでいてくれる子と、そうでない子がいる。でもそれは、どの医療の世界でもそうなんだ。薬も、手術の技法も――完全に完璧なものなんて、きっと無い。百分の一、一千分の一にも、悪い方向に向かってしまうものが必ず出てきてしまう……」

 高城先生は、爽太の疑いを認めて、申し訳なさそうに語り始めた。


「君に施した手術は、医療の歴史としてはまだまだ浅いし、人の体は、どんなに知り尽くしたつもりでも、未知の部分も多くて、これから何があるかを予測するのは、とても難しい……。――でもね、僕は医者である限り、勉強も研究も続けて、もっといい治療法を探し続けるよ!」

 高城先生は、ニッと歯を見せて笑った。


「もし君の病が再発しても、また僕がきっと君を元気にする!そのために、僕は生涯医者であり続ける。君が十年後も、二十年後も……八十歳のおじいちゃんになっても元気で過ごせる方法を探す!……だから、安心して」

 高城先生の力強い眼差しに、爽太の心から一気に不安が消え去っていく――。


「……はい!」

 爽太は流れる涙を手の甲で拭き、返事をした。

 安心した途端、また強い眠気が爽太に訪れる。


「怖い夢ばかり見てたってことは、きっとよく眠れてなかったんだろう?……うなされてたら起こすから、眠りなさい」

 高城先生はそう言うが、爽太はもっと先生と一緒に居たくて、「でも……」と、眠ることを拒む。


「しばらく居てあげるから」

 高城先生に優しく前髪を掻き分けられると、爽太は静かに目を閉じた。


「……ありがとうございます」

 爽太は、お礼を言ってすぐに全身の力を抜き、健やかな寝息を立てて眠り始めたが、高城先生の手だけは、力強く握ったまま離さなかった。


 高城先生は、そんな自分の右手を見ると、「ははっ」と笑った。

 四年前の爽太は、同年代の子供と比べて、小さく柔らかい手だったのに、今はあの頃よりも骨っぽく、男の子らしい手に成長している。


 ――にもかかわらず、まるで赤子が大人の指を掴んで眠るように、爽太が自分の手をしっかり繋いでいることに、高城先生は困ったような、嬉しいような……そんな表情で、昔を思い出す。


「(あの頃も「怖い怖い」と泣いて、母親にしがみついていたっけ……)」

 高城先生は、懐かしい気持ちで爽太の寝顔を見つめている。


「……大きくなったけど、泣き虫なところは変わらないなぁ~」

 雨はいつの間にか止み、雲の隙間から陽光が差し込んでいる――。

 高城先生は顔を上げ、そのことに気付くと、ふっと柔らかく微笑んだ。



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