第63話 定期検査
七月二十五日。
夏休みに入り、爽太は年に一度の定期検査のために、今日から三日間入院する。
「最近ずっと体調悪かったし、しっかり調べてもらいなさい」
入院手続きを済ませた母親の唯は、爽太の着替えなどが入った鞄を持ちながら言った。
「うん、わかってる」
爽太は唯から鞄を引き受けると、看護師の後に続いて、母と共に病棟へ向かう。
案内された個室の病室に辿り着くと、唯は鞄の荷物をベッド横の棚に収納し、爽太は洋服から紺色のパジャマへと着替えた。
「あとで飲み物買って来るけど、暇つぶし用に雑誌とかもいる?」
「ううん、夏休みの宿題と本を何冊か持ってきてるから、飲み物だけでいいよ」
爽太が着替え終わって、さっきまで着ていた服を畳んでいると、唯は何やらニコニコと笑みを湛えながら息子を見ている。
「――もう中学生だし、お見舞い毎日来なくても大丈夫だからね」
「あらぁ~?昔はあんなに「帰っちゃやだぁ~!」「来るの遅い~!」って、わんわん泣いてたのに、大丈夫なの~?」
爽太の予想通り、唯は幼い頃の話を持ち出して、爽太をからかう。
「忘れてください……」
爽太が頬をほんのり赤く染めて苦く笑うと、唯は「はいはい」と言いながら、爽太の頭を軽く撫でた。
「検査結果の報告の時と、退院する時に来てくれたらいいから」
「わかってる。――でも、何かあった時とか、来て欲しいときはいつでも呼んでくれていいんだからね。お母さん、すぐに駆け付けるから」
唯はそう言うと、財布のみを手に持ち、売店へと向かった。
爽太は、残りの荷物を鞄から取り出し、自分が使いやすいように配置する。
携帯電話、宿題の問題集、筆箱、漫画本を一冊と、先日買ったばかりの医療に関する本を三冊、そして――。
「……結局、持ってきちゃった」
爽太の右手には、小さな薄紫色のキャンドルが握られている。
*
それは先週の出来事だ。
「――んじゃ、期末テストの順位書いたやつ配るよ~!」
終礼の時間。
波多野先生は、いつまでも雑談を続ける生徒の耳にも聞こえるよう、声を張り上げた。
中間テストの時と同じく、クラス順位と学年順位、十位以内の生徒にのみ配られる、小さな白い紙。
呼ばれた者の殆どが、中間テストの時のメンバーと同じだった。
「日下!」
「……はい」
爽太は、波多野先生に名前を呼ばれると、立ち上がって紙を受け取りに行く。
爽太がゆっくり、折り畳まれた紙を開くと、クラス上位を表す赤い数字も、学年順位を表す青い数字も、共に『2』と書いてあった。
爽太の斜め後ろでは、緑依風が「返してっ!返してったら~~!!」と、星華を追いかけ、星華は「緑依風また一位でーす!みんな拍手~!!」と、からかうように、クラスメイトに報告している。
――また、負けたのか。
爽太は、紙を持つ手に力を込めながら、敗北を味わった。
星華は足の速い奏音に捕まると、ゴチンと頭をグーで殴られ、「悪ガキか!」と、怒られている。
爽太が振り返ると、緑依風は顔を鬼のように赤くしながら、「恥ずかしいからやめてって言ってるでしょ!」と、奏音に取り返してもらった紙を、急いで筆箱にしまっていた。
「(堂々とすればいいのに、一番を取って何が恥ずかしいんだろう……)」
緑依風に嫉妬の感情が芽生える爽太。
その感情ごと閉じ込めるように、爽太は紙をきっちり畳んで、筆箱に入れた。
負けたくないのに。人にも――自分自身にも。
爽太はクラスメイトに勉強を教えている時も、帰宅した後も、悔しい思いに胸の奥を詰まらせていた。
*
終業式の日。
寝不足続きの爽太は、ウトウトしながら校長先生の夏休みの過ごし方の話を聞き、式が終われば、クラスメイトといつもより念入りに教室の掃除をこなした。
クラスで一番背が高い爽太は、窓拭き掃除を任された。
脚立に上り、亜梨明から濡れた雑巾を受け取ると、丁寧に窓ガラスを磨く。
相変わらず、亜梨明が自分をじっと見る視線が気になっていたが、話したいことがあるのかと視線を合わせると、彼女はパッと目を逸らす。
「じゃあ、また二学期に会いましょう!夏休み中も適度に勉強して、迷惑かけないように気を付けて、たくさん遊ぶように!」
波多野先生の快活な声が教室に響くと、緑依風が起立、礼の号令をかけ、一学期が終了した。
「そ、爽ちゃんっ!」
爽太が風麻と共に部活に向かおうとすると、亜梨明がソワソワした様子で呼び止めた。
「ん?どうしたの?」
「あの……これをね、爽ちゃんにもらって欲しくて」
亜梨明はスカートのポケットから、ハートの形をした薄紫色の小さなキャンドルを取り出した。
「これ……?」
爽太がそれを手に取ると、ふわりと優しい香りが鼻先を掠めた。
「これね、ラベンダーのアロマキャンドルなんだけど、すごくリラックスできるの」
「うん、良い香りがする。……でも、どうしてこれを僕に?」
爽太が尋ねると、亜梨明はギクリと体を硬直させた後「えと……」と、ややぎこちない顔になった。
「……爽ちゃん、最近元気無い気がするの」
「あ……」
亜梨明に悟られていたことに、爽太はショックを隠せなかった。
「あ、そのっ……!気のせいだと思うし、余計なお世話かもしれないんだけど!」
亜梨明は慌ててそう言った後、「でも……そう見えたの」と、静かに言った。
「…………」
爽太は、どこか申し訳なさそうな亜梨明の表情に、そうさせてしまったことを悔やんだ。
もっと上手く隠せたら、彼女にそんな心配をさせなかったかもしれない。
彼女を励ます立場でいなきゃいけない自分が、気を遣わせてしまった。
そんな自分が今、少しでも亜梨明の気持ちを軽くさせるのは――。
「……これ、もらうね」
爽太がそう言って笑いかけると、亜梨明のしょんぼりした表情が、パアッと明るくなった。
「――でも、元気が無いのは気のせい!僕は元気だから、安心して!」
「うん!」
亜梨明はにっこりした表情で頷いた。
「気のせい……だね!」
「亜梨明こそしばらく会えないけど、八月になったら、沖さんの別荘に行くんだから、体調悪くならないように気を付けてね」
「うん!」
*
――爽太は、夏休み前の出来事を思い出しながら、手の中でキャンドルを転がす。
「ラベンダーの香りってね、安眠効果があるんだって!これで暑い日も、爽ちゃんがゆっくり眠って、リラックスできるといいな~って思ったんだけど」
今の爽太にとって、眠ることは恐怖を思い出す物でしかなく、正直もらっても困る物だった。
それなのに、何故か気になってしまい、自宅にいる時も、キャンドルをしまってある机の引き出しから何度も取り出しては、その香りを求めてしまう。
近頃の爽太は、なるべく睡眠時間を削り、できるだけ夢を見ないようにしている。
もう正直、身体的にも精神的にも限界だった。
睡眠が人間にとってとても必要なことはわかっているが、眠って悪い夢に不安がどんどん募るより、マシだと思っていた。
せめて、今回の検査で良い結果が出れば、最も恐れている再発や拒絶反応の心配も和らぐかもしれない――。
爽太はそう思いながら、ドアをノックして入室してきた看護師に呼ばれ、検査へと向かった
*
午後からは採血、尿検査、心電図など、病院内のあちこちに移動して検査を受ける。
当日分の検査が全て終わると、爽太は問診と明日のカテーテル検査の説明を受けるため、外来の診察室に向かう。
爽太は、先日部活中に再び貧血を起こしたことを、主治医の内田先生に告げた。
「う~ん……。採血の結果が出たらわかるんだけど、爽太くんは多分、スポーツ貧血を起こしやすい体質なんだと思うんだよね」
「スポーツ貧血……」
「過去のカルテも見直したけど、元々少し貧血気味だったみたいだし。……まぁ、男の子だから成長して行くうちに治ると思うけど」
内田先生は過去のデータを爽太に見せ、正常数値と比べさせた。
内田先生の言う通り、爽太の前回の血液検査結果は、基準値よりやや低かった。
「……でも、これまで体育は普通に受けれたし、部活で貧血起こしたのも最近まで無かったんです」
「中学校の部活は体育よりもハードでしょ?君は他の子より体を激しく動かす経験が少ないからね。明後日の血液検査の結果次第では、部活はお休みしてもらおうかな」
「えっ……」
爽太の表情が暗くなった。
「それって、どのくらいですか」
「最低一か月かな?」
「一か月も……」
ひと月も部活を休めば、風麻や同じ一年部員との差が開くのは明らかだ。
せっかくここまで食らいついてきたのに、それを全て無に帰すようなことは避けたい。
俯いて黙り込んでしまう爽太。
内田先生は、「まだ決まったわけじゃないよ」と優しく声を掛けるが、爽太の表情は晴れない。
「……明日はカテーテル検査だ。今日の分の検査は全て終わってるし、部屋に戻ってゆっくり休みなさい。この間も言ったけど、あまり深く考えないで」
内田先生は穏やかな声で伝えると、爽太の診察を終えて、次の患者の診察準備を始めた。
*
爽太がエレベーターを使って、病室のある四階まで上がると、エレベーター横の窓から見える外では、大雨が降っていた。
窓ガラスを叩くように強く降る雨と、黒い雲……。
まるで、今の荒んだ自分の心を表しているようだと、爽太は思う。
病室に戻ると、爽太は少し乱暴にベッドの上に寝転がった。
――なんで、僕ばっかり……。
小さい頃、何度もそう思っては声にしていた言葉が、喉元までこみ上げる。
辛い治療に耐え抜き、根治手術を乗り越えた時は、もうこれからの自分には希望しか無いと思っていた。
だが、実際は違った。
病気の影は一生付き纏い、憧れの人達の背中は遥か遠い……。
理想に近付けないまま、惨めな気持ちになるばかりだ。
寝そべったままでいると、爽太にくらりと睡魔が襲い掛かる。
半分閉じかけた目をもう一度開くと、見慣れた白い天井が、過去と悪夢を蘇らせた。
「(ここにいちゃダメだ……)」
ギュッと、目と歯を食いしばり、ベッドから起き上がった爽太は、筆箱と夏休みの宿題を手に取り、デイルームへと向かった。
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