第62話 気のせいじゃない(後編)


 ――話は少し巻き戻り、期末テスト前の音楽の授業まで遡る。


「うーん……」

 亜梨明は、クラスメイトの歌声を聞き流しながら、誰にも聞こえなくらい小さな声で、静かに唸っていた。


「(爽ちゃん、なんかおかしかった……)」

 亜梨明は、ほんの十分くらい前の記憶を何度も脳内再生しては、爽太のことを考えていた。


 一歩後ろを歩いていたはずの、爽太の足音がしなくなり、振り返って戻ってみると、爽太は顔面蒼白となり、冷や汗を掻き、目を真っ赤に腫らしていた。


 爽太は、「目に何かが入った」と説明したが、たったそれだけで顔色まで悪くなるなど、聞いたことが無い。

 汗だって、いくら廊下が教室に比べて暑すぎるとはいえ、二分足らずで頬を伝うほど汗を掻くなど、今までの爽太はそんなことなかった。


「(なき、そう……?に見えたのは、気のせい?)」

 そんなに目が痛くなるほどのゴミが、空気中に浮いていたようにも思えない。

 でも、亜梨明が見た爽太の顔は、確かにそう見えたのだった。


 *


 その後も亜梨明は、時折爽太のことを観察していた。

 あまりに凝視しすぎて、奏音に「日下のこと好きすぎ」と言われてしまったが、好きというだけで、爽太を見ていたわけではない。

 彼が、あの時泣きそうになった理由を知りたかったのだ。


「(理由……。聞いたら、話してくれるかな……)」

 テストを返却されている最中も、掃除の時間となった今でも、亜梨明の頭の中は爽太のことでいっぱいだった。


 先程も、何かを思い詰め、疲れ切ったような顔をしていた爽太。

 亜梨明の声に気付くと、それを感じさせないように彼は話をしてくれたが、亜梨明はますます気になってしまった。


 ――でも、聞いて私に何ができる?

 胸の中の問いかけに、亜梨明は「むぅ……」と、口を尖らせる。


 亜梨明はバケツの中の水を廊下の水道に流しながら、自分を客観的に評価してみる。


 体も弱い、力も弱い、頭もそんなに良くない上に、相談されてもそれに対する返答を、上手くできる自信もない。


「わ、私って……良い所全然無い~~っ!?」

 自分のステータスを改めて知った亜梨明は、爽太の役に立てると自信を持てる部分が、何一つないことにショックを受けた。


「――な~にが、良い所無いんだ?」

「きゃっ!?」

 亜梨明が、背後からの声に驚いて悲鳴を上げる。


「み、三橋くん……!!」

 亜梨明の真後ろでは、短いツンツンヘアーが特徴的な、三橋直希が立っていた。


「驚いたよぉ~~……。心臓止まっちゃうかと思った!」

「わ、悪ぃ!……ってか、お前がそれ言うとシャレにならんからやめてくれ!今度は俺の心臓が止まるっ!!」

 直希は慌てたように亜梨明に謝ったが、亜梨明も体調が悪くなるほどの驚きではなかったため、「ごめ~ん……」と、大げさに表現したことを謝罪した。


「……昔、爽太にもそれ言われた時、俺すごく焦ったんだよなぁ~」

「三橋くんと爽ちゃん、ずっと前からお友達なんだもんね!」

「おぉ!大親友ってやつだ!」

「かっこいい~!」

「だろぉ~!」

 直希は誇らしげな顔で、胸を張る。


「……じゃなくて。なんだ、さっきのデカい独り言。良い所が無いって?」

 直希に尋ねられると、亜梨明は「うん……」と頷いた。


「ねぇ、三橋くん。三橋くんは、最近の爽ちゃんどう思う?何か話聞いてない?」

 亜梨明は、数メートル先で、クラスメイトの女子三人に囲まれながら、話をする爽太に視線を移しながら聞いた。


「話って?」

「何か悩んでるとか、どこか悪いとか、すごく辛いこととか、何か相談されてない?」

 直希はポリポリと、こめかみ辺りを掻きながら、「そうだなぁ~……」と言った。


「相談はされてないけど、元気が無いのは確かかもな。――でも」

「でも?」

「多分、あいつは言わないんだろうし、聞かない方がいい」

 直希は、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。


「どうして?わかってるのに何で聞いてあげないの?」

「――聞いたら、爽太は余計に殻にこもるタイプだからな」

「から……?」

 亜梨明がキョトンとしながら首を傾げる。


「元々、無理するタイプだったけど、治ってからは余計にそうなっちまった。最初、「もうみんなと同じだから、あんまり心配しなくても大丈夫だよ」って、言われた時は、爽太頑張ってるな~くらいに思ってたんだけど、今思えば、あの時「それでも辛い時はちゃんと言え」って、言ってやればよかったって、後悔してる……」

「それ、今言っちゃダメなの?」

 亜梨明が聞くと、直希は鼻から息を吐きながら、肩を上下させた。


「……今それ言っても、「別に辛くない」「大丈夫だ」って、言うだろうな。爽太自身がこの人なら言えるって思える人に頼むか、それとも……爽太がもう無理だって、自分で限界がわかるまで……。――なんせあいつは、意外と頑固で子供っぽいやつだからな」

「…………!」

 亜梨明は、爽太のことをもうたくさん知っているつもりでいた。

 心優しく、そして強い人だと思っていた。


 なのに、たった今直希の話を聞いて、自分はただ爽太の厚意に甘えるばかりで、全く彼のことをわかっていなかったと、なんだか恥ずかしくなってしまう。


 そんな自分に、爽太が悩みを話すわけがない。

 亜梨明の目に、熱いものがじわじわと生まれてくる。


「――それでも、何かしてあげたい時は……どうしたらいいの?」

 亜梨明は、俯いて涙を滲ませたまま、直希に問いかける。


 涙声で聞かれた直希は、「どうするって……」と、困った顔をした。


「さりげなく……としか言えないな。少し気持ちが楽になりそうなもんあげるとか、気分転換できる所に一緒に遊びに行くとか……。ごめん、俺もそれは答えられねぇや」

「ううん、教室……戻るね」

 亜梨明が直希に背を向けると、「亜梨明!」と、爽太が小走りで二人の元にやって来た。


「どうしたの?」

 二人が元気の無い理由が、まさか自分だとは思っていない爽太は、交互に亜梨明と直希の顔を見る。


「お前のせい」

 直希がため息交じりに言うと、爽太は「えっ……」と、驚いている。


「み、三橋くんっ!」

「――お前が、亜梨明ほったらかして、女子と話してるから、亜梨明が「さみし~い!」って、俺んとこに来た!」

「三橋くんっ!!!!」

 直希が大嘘を言うので、亜梨明は顔を赤くして怒った。


「えっ、そうなの……?」

「へっ?あのっ……!違うからね!今のは三橋くんのジョークだからねっ!!」

 亜梨明は手と首をブンブン振りながら、慌てて否定した。


「昨日のドラマの話だよ!ねっ?三橋くん!?」

 亜梨明が「話を合わせて」と眉をピクピクと動かしながら訴えると、直希は「まぁ、そんなもん」と、適当な口調で答えた。


「よかった……二人がケンカでもしてるのかと思ったよ」

 爽太が胸を撫で下ろすと、後ろから先程の女子達が「日下~!放課後の約束楽しみにしてるから~!」と、嬉しそうに手を振って、先に教室に入っていった。


「約束って……?」

 亜梨明が爽太に聞いた。


「ああ……テストのわからなかった場所教えて欲しいって言われたから、今日部活休みだし、いいよって言ったんだ」

「えっ……」

 亜梨明の心に、ヤキモチの感情が湧いてくる。


「勉強を「楽しみにしてる~」なんて、絶対それだけが目的じゃないだろ~……」

 直希が呆れながら首の後ろを押さえると、「何が?」と、爽太はまるでわかってないように言った。


「私、先に教室に帰るね……」

 亜梨明がトボトボとした足取りで教室に帰っていくと、爽太もそれに続こうとしたが、直希はその肩をガシッと掴み、「ちょっと待て」と止めた。


「――爽太、言いたくないなら言わなくていいけどな。無理だけは禁止……だからな」

「――――!」

 爽太の頭に、遠い記憶が蘇る。


「爽太、嘘禁止。無理も禁止。しんどい時はすぐに言うこと。俺以外に言いにくいなら、俺にだけは絶対言うこと!」


 幼い頃の、直希の言葉。

 忘れるわけがなかった。

 ――あの日、自分の嘘に気付いてそう言ってくれる直希の存在が、どれだけ心強かったのかも……。


「ありがとう……でも――」

「うん、お前が言いたくなったらでいい。俺らは超超大親友……なんだろ?」

 直希はニカッと笑って、爽太の両肩を元気付けるように強めに叩いた。


「今は悩んでる理由も、話さない理由も聞かねぇから……!どうしてもの時、お前には味方がいるって、ちゃんと思い出してくれればいい」

「……ごめん、直希」

「いいって、自分で頑張りたいんだもんな。頑張り屋さんだ!」

 直希は、爽太の頭をガシガシと撫でると、二組の教室へと帰って行った。


 ――やっぱり、直希にはかなわない。

 そう思いつつも、爽太は直希が自分の悩みを追求しなかったことに、心から感謝した。

 

 *


 放課後――。

 爽太に勉強を教わる女子三名は、チャンスと言わんばかりに、爽太との距離を詰めて、彼の周りを囲っている。


「ちょっと~、あれいいの?亜梨明ちゃんも混ざらないの?」

 先程、とあることがきっかけで、奏音にゲンコツをくらった星華は、頭頂部をさすりながら亜梨明に聞いた。


「良くない、けど……」

 亜梨明は、勉強を教えながらも、時折元気の無い横顔を見せる爽太を見て、眉間にしわを寄せる。


 ――すると、そんなヤキモチ中の亜梨明の鼻に、ふわりといい香りが漂った。


「……ん、なんだろ?いい匂い!」

「あ、これかな?」

 近くにいた緑依風が、鞄のサイドポケットから、小さな袋を取り出した。


「ラベンダーのサシェだよ。お店の学生アルバイトさんにもらったの」

「ふわぁ~……癒されるね~!」

 緑依風が、亜梨明の顔の近くでサシェをゆっくりと動かすと、爽やかで優しい香りに、亜梨明の燻る心がだんだん落ち着いてくる。


 ――ん?でもこれ、どこかで嗅いだような……。

 亜梨明はサシェの香りを吸い込みながら、どこで嗅いだのか思い出そうとした。


「ラベンダーって、リラックス効果があって、寝付きをよくしてくれたりするんだって!」

 緑依風が説明すると、亜梨明はハッと思い出す。


「あ、思い出した!これ、バザーで買ったアロマキャンドルと同じ匂いだ!」

 亜梨明が手をポンっと叩きながら言うと、緑依風は「そうそう!」と、言った。


「最近、寝る前にこれを枕元に置いてたら、すごく眠りやすくって。気に入ったから学校用の鞄にも入れて、持ち歩いてるの!」

「ケーキとかバニラの匂いのやつとかもあんのかな?」

 風麻が横から言うと、「バニラエッセンスでも鞄に塗れば?」と、緑依風は呆れたように言った。


「(ラベンダー……リラックス!)」

 緑依風の説明を聞いて、亜梨明にアイデアが浮かび上がる。


 *


 帰宅後、亜梨明は小物入れ用の引き出しに入れていた、薄紫色のハートの形をしたアロマキャンドルを取り出した。


「――うん、同じ匂いなら、きっとアロマキャンドルでも効果あるよね?」

 亜梨明は、手のひらに乗せたキャンドルをそっと顔に近付けた。


「これくらいしか、できないけど――元気、戻ってくれるといいな」

 亜梨明はキュッと、キャンドルを握りながら、爽太のことを思い浮かべた。


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