第61話 気のせいじゃない(前編)


 夏の夕暮れ――薄いオレンジ色の空に、子供達がきゃははと笑う声が響く。

 爽太は、楽しげな子供達とは真逆の、とても暗い表情で歩いている。


 彼の数歩前では、風麻が自分と爽太のスポーツバッグを、両肩に片方ずつかけてゆっくり歩く。


 風麻は、時折ふらりとよろめく爽太を心配し、振り向いて立ち止まった。


「大丈夫か?……少し休むか?」

「ううん……。家までもうすぐだし、鞄も――もう、自分で持てるから大丈夫だよ」

 爽太は、弱く笑いながら風麻に手を伸ばすが、風麻は「いいって」と言って、彼の鞄を渡さなかった。


「家まで運ぶ。お前背負って連れ帰るのはさすがに無理だけど、これくらいはさせろよ!」

 風麻はニッと歯を見せて笑うと、再び歩き始めた。


 期末テストが終わって、久しぶりの部活動は、テスト勉強で鈍った体を戻すため、筋トレや、ダッシュトレーニングが中心だった。


 七月中旬――この日も猛暑日だった。

 竹田先生はもちろん、部員達の熱中症を防ぐために、こまめに休憩時間を作り、練習中でも水分補給をさせてくれたのだが、ここ数日、悪夢による睡眠不足と食欲不振で心身共に疲弊していた爽太は、再び貧血で倒れてしまったのだ。


「日下――練習、辛いか?」

 竹田先生は保健室のベッドで横たわる爽太に、静かな口調で聞いた。

 担任ではないが、竹田先生も健康調査票を見て、爽太の病歴を知っている。

 爽太も、そのことは予想していたので、病気のことを竹田先生に話されても驚かなかったが、その後の言葉にとてもショックを受けた。


「練習メニュー……。日下だけ、別のメニューを検討しようか」

 竹田先生は、爽太のためを思ってそう言ったのだが、爽太の自尊心は大きく傷付けられた。


「――結構です。僕だけ特別みたいなことは、しないでください……」

 爽太はゆっくり半身を起こすと、竹田先生の目を真っ直ぐと見つめた。


「僕は、もうみんなと同じ体です。――みんなと同じ条件で練習をこなさないと、フェアじゃない……。今日はたまたまです。だから次の部活でも、みんなと同じ練習をします」

 爽太の強い気持ちに圧された竹田先生は、今回は保留にすると言ったが、爽太自身が本当に辛くなったら、いつでも言って欲しいと、困ったように眉を曲げて言った。


 爽太は、「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べたものの、その練習メニューには絶対に頼らないつもりでいた。


 ――弱い者扱いは、もう嫌だ……っ!

 竹田先生が保健室を去ると、爽太は悔しい気持ちを表すように、白いシーツをギュッと掴んだ。


 *


 家の前に辿り着くと、爽太は門扉を開け、風麻から鞄を受け取った。


「風麻ありがとう。ごめんね……風麻の家、全然違う方向なのに」

「気にすんなよ!おばさんは、妹の習い事の付き添いでいないんだろ?」

「うん……。本当に、すごく助かったよ」

「…………」

 風麻はじっと爽太の顔を見つめた後、少し考えたような顔をして、口を開く。


「――相楽姉には、内緒……で、いいか?」

「あ……」

 亜梨明の名前が出た途端、爽太はまた表情を曇らせた。


「――うん、そうしてくれると、助かる」

「相楽姉のことを心配するのは良いけど、俺は今、お前の方が心配だ……。お前、最近あまりメシ食べれてないだろ?」

 爽太はギクリと肩を震わせる。


「弁当もずっと残してたし、少し痩せたぞ?」

「……うん」

 風麻が指摘した通り、六月よりも体重が四キロ落ちた。

 元々細身の爽太だったが、ここ数日は顔周りの頬肉も落ち、とても健康的な姿とは言いにくい。


「夏バテしてるのかもしれないな。爽太って、見るからに暑さに弱そうだし!」

「いや、暑すぎるのも参ってはいるけど、寒い方が苦手かな」

「そうなのか?俺は暑い方が嫌だね!」

 風麻は、汗に濡れてしまった髪をクシャクシャと乱しながら、うんざりしたように息を吐いた。


「ちょっと寒いくらいの方が、遊びまくっても、汗で髪がヘタレないからな!」

「別に、真っ直ぐでもいいじゃないか。よく似合ってるのに」

 爽太が言うと、風麻は少し照れたように「サラッと褒めるのよせやい……!」と、手をぱっぱと振った。


「お前くらい背が高くて、イケメンだったら真っ直ぐでもいいけどさ~!あ~あ、一気に爽太くらい伸びねぇかなぁ~?」

「…………」

「――っと、悪ぃ!早く休みたいよな!じゃあ、俺帰るわ。明後日学校来れるといいな!」

「……うん、また明後日ね!」

 爽太は風麻に手を振って、家の中へと入っていった。


「――僕は、風麻みたいに元気な体が欲しいよ」

 パタンと閉めたドアに背をくっつけながら、爽太はぽつりと呟いた。


 *


 二日後――テストの返却日。

 この日の生徒達は、みな採点結果をとても気にしており、爽太が教室に入ると、テスト当日と同じくらい憂鬱な表情をした者が多い。


 睡眠不足が続く爽太は、クラスメイトと同様な面持ちで自分の席に座る。


 悪夢は、毎日見るのではない。

 ――だが、寝付きが悪くなってしまい、もう何日も熟睡できていない。

 熟睡すれば、またあの思い出したくない過去が、痛みが――そして、それが今の自分に再び戻ってきてしまいそうで、眠ることすら怖い。


「――爽ちゃん、大丈夫?」

「えっ……?」

 ふっと、爽太が顔を上げると、目の前に長い髪の毛を揺らした亜梨明の姿があった。


「亜梨明……。ごめん、気が付かなかった。いつからそこにいた?」

「さっきからずっといたよ?おはようって言っても、爽ちゃん全然返事しないまま俯いてたんだよ?……もしかして、体調悪いの?」

 最も心配かけたくなかった亜梨明にそう聞かれ、爽太の心に焦りが生まれる。


 体調を崩していること。

 病気が再発するのではと怯えていること。

 自分が元気付けなきゃいけないはずの亜梨明に、こんなことは絶対に知られてはいけない。

 爽太は、冷静を装いながらも、内心はとても動揺していた。


 亜梨明から顔を逸らさず、目だけを動かして、誤魔化す内容を探す――。


「……――いや、テストの結果が気になるだけ!」

 クラスメイトの会話や表情に助けられた爽太は、笑顔を作ってそう答えた。


 亜梨明は「え~?」と、言いながら体を傾ける。


「爽ちゃんは頭良いから大丈夫だよ~!私の方が心配だもん!」

「でも、亜梨明だって頑張ってたじゃないか。休み時間は僕や松山さんにわからないところを聞いてたし、この間だって勉強会しただろ?自信持って!」

「うん!赤点だけは回避してるように、祈っておく!」

 亜梨明はギュッと両手を握って、少しふざけるように笑った。


「あははっ!もう少し上を期待しても、大丈夫だと思うけどな~?」

 亜梨明が、「そうかなぁ~?」と、言っていると、キーンコーンカーンコーン……と、チャイムの音が教室に鳴り響く。


「――あ、じゃあ戻るね!」

「うん。――……?」

 亜梨明は、自分の席に戻って行った途中で、くるっと爽太の方へと振り返る。


「…………」

「(なんだろう……?)」

 離れた所から、先日と同じようにじーっと自分の顔を見つめる亜梨明に、爽太がニコッと笑いかけてみると、亜梨明はヘラっと顔を緩ませて、自分の席に着いた。


 *


「(やっぱり、気のせいじゃないよね……)」

 亜梨明は波多野先生の挨拶もそっちのけで、いつもより元気の無い、爽太の横顔を眺めた。


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