第58話 セミの声


 ――土曜日。

 夏城総合病院の待合所に、親の付き添いなしで座る爽太は、単語帳を見ながら、自分の診察を待っている。


 時折、子供が一人で大病院の待合所にいることを、珍しそうに見る大人がいるが、去年から一人で通院することを始めた爽太は、そんな視線ももう慣れっこだ。


 この通院日は、定期検査で入院するときのような、難しい説明や、体に針を刺すようなことは無い。

 主治医に問診をされ、経過を説明し、あとは薬を処方してもらうのみで、とても簡単な診察で終わる。


「……混んでるのかな?」

 予約は午後一時半からなのだが、五分過ぎても名前が呼ばれない。


 この病院には、小児科が無い。

 なので、子供も老人も同じ診療科で診察される。


 爽太が今いる場所は、循環器内科の待合所だ。


 爽太の二つ隣の席で、まだ幼稚園にも入っていないような、とても小さな女の子が母親に絵本を読んでもらいながら、診察を待っている。

 会話を聞いていると、言葉は外見年齢よりもとてもはっきりしているため、もしかしたら、実年齢はもう少し上なのかもしれない。

 爽太は女の子を横目で見ながら、きっとこの子も、昔の自分と同じ場所が悪いのだと思った。


「もうやだぁ〜!かえりたい……おうちかえろうよぉぉっ……!」

 ぐずり始めた女の子は、母親の腕に頭をグリグリと擦り付けながらべそをかく。


「――受付番号102番。日下さん、日下爽太さん。3診の部屋にお入りください」

 アナウンスを聞いた爽太が立ち上がると、長椅子の上で寝転がりながら「かえりたい」を連呼していた女の子と目が合う。


 爽太が女の子ににっこり笑いかけると、女の子は泣き止み、そしてなんだか嬉しそうな、恥ずかしそうな笑顔になって、両手で顔を隠した。


「(僕もあんな風だったな――……いや、もっとすごかったかも)」

 爽太が最も忘れたい、ワガママですぐに癇癪を起こしていた時の自分。


 女の子のように、駄々をこねる程度ではなく、ギャアギャアと大きな声で泣き叫び、椅子ではなく、床に転がって手足をバタつかせ、待合所の視線を全て集めてしまうような、そんな泣き方をしていた。


 母親の唯は、しかめっ面で睨む他の患者に何度も謝りながら、とても困った顔で、自分の機嫌を直そうと必死だった。


 ――と、そう思い出したところで、爽太の回想は半強制的に終了する。


 診察室の扉を開けると、爽太が九歳の頃から主治医を担当する、内田雅春うちだまさはる先生が「こんにちは」と爽太に挨拶をしたからだ。


 爽太も丁寧に「こんにちは」と挨拶を返しながら、鞄を指定の場所に起き、椅子に座った。


 *


 聴診、血圧測定を終えると、内田先生は爽太に「何か変わったことはあったかな?」と、質問した。

 爽太は先週起きた出来事について、詳しく説明した。


「――ふぅん、熱中症と貧血ね……」

 内田先生は、電子カルテに文字を打ち込みながら、特に心配する様子もなく呟いた。


「内田先生、貧血って……前の病気と関係ありますか?」

 爽太は重い口をゆっくり開いて、薄毛で白髪交じりな内田先生の横顔を見つめた。


 内田先生が、思い詰めたような顔で尋ねる爽太に発した最初の一声は、「ははっ」という、笑い声だった。


「全く無いと断言はできないけど、その可能性は薄いなぁ~。熱中症からの方が考えられる。心音も異常無いし、血圧が少し低い程度だ。体育の後はいつも何ともないんだよね?熱中症による脱水から起こす人もいるし、病気のことは、あまり気にすることはないと思うよ」

 内田先生は笑い声を含めたまま、爽太の質問に返答した。


 爽太の心に、不安な気持ちと苛立ちが一気に募る。


「もっと、真剣に診てくださいっ!」

 ――胸の内に生まれた言葉を発してすぐ、爽太は「しまった」と思った。


「…………」

「あ、そのっ――!」

 内田先生も、内田先生の補助としてそばにいた看護師の女性も、普段はおとなしい少年の爽太が、感情的になる姿を見て、驚いたようにポカンと口を半開きにしている。


「すみません、今のは失礼でした……」

 爽太は目を伏せて謝罪した。


「いや、僕の態度も悪かった。……でも、君の手術を執刀した高城先生の患者は、再発も拒絶反応もここ数年出ていないと聞いている。もし、今不安な気持ちの原因がそれだとしても、月末に定期検査があるだろう?何かあればきっとすぐそこでわかる。だから今は、あまり深く考えないで過ごした方がいい」

 内田先生は穏やかな笑みを湛えて告げると、今月もいつも通りの薬を処方すると説明し、診察を終わらせた。


「……ありがとうございました」

 爽太は一礼して、診察室を去ると、待合所に続く扉を開いた。


「あ、おにーちゃん」

 先程泣きべそをかいていた女の子が、爽太を見て言った。


 爽太は、笑顔を向ける余裕も、女の子の声に反応する余裕も無いくらい沈んだ心のまま、会計受付のあるホールへと歩いて行った。


 *


 ――最低だ。

 爽太は会計と処方された薬の受け取りを待ちながら、自分自身にその言葉を投げかけた。


 普段なら、何を言うべきか、何を言ってはいけないかと、もう少し考えてから喋れるのに、今日の自分は感情を抑えられぬまま発してしまったと、爽太は受付票の入ったクリアファイルを軽く握りながら、暗く曇った表情で反省していた。


「(感情をコントロールできないまま、人にぶつけるなんて、これじゃあ昔と変わらないじゃないか……)」


 ホールの中央にある時計を見ると、時刻は午後二時十分。

 最初は、早く終われば木の葉での勉強会に遅れて参加しようとしていたのだが、今の乱れた気持ちのままでは、大切な友達にも言ってはいけないことを言ってしまいそうで、それはやめることにした。


 爽太は自分の受付番号が、電光掲示板に表示されるまでの待ち時間を有効活用するために、診察前にも使っていた単語帳を鞄から取り出し、勉強を始めた。


 何度も繰り返し読み続けた単語帳は、もう考えなくても、裏面に書いてある答えがわかってしまうが、それでも爽太は一問一問を、時間をかけて丁寧に読んでいた。

 次の期末テストでの目標はもちろん、学年一位だ。

 

「(期末は松山さんにも、他の人にも負けない……)」

 前回、両親は学年二位の成績を大喜びしてくれたが、爽太自身は、その結果を不満に思っていた。

 勉強だけは、体の弱い自分でも唯一、みんなと同じ壇上で競える物だと思っていた爽太は、小学生の頃から自ら進んで取り組んでいた。


 最初は、体調不良による長期欠席が続いて、勉強の遅れを心配した母親の、「休んでるからわかりませんは、勉強できない理由にはならないよ」という、一言がきっかけだったが、起きていられる間に、コツコツと自宅学習をしていたおかげで、久しぶりに登校しても、授業の内容を全て理解することができた。


 特に算数は、直希を始め、特別親しくなかったクラスメイトも頼りにしてくれたおかげで、一番自信のある科目となった。


 勉学については誰にも負けないつもりでいた爽太だが、身近な所にライバルはいた。

 数学こそ、爽太の点数の方が上だったが、総合点数は緑依風より劣っていたことを知って、自分は得意な勉学すら一番になれないのかと、悔しさを味わった。


 スポーツでも、勉強でも何でもいい。

 何か一つ、自分も胸を張って誇れるものが欲しい。

 弱い自分、人よりも劣っている自分を否定したい――。


 そう願いながら単語帳を読み続けているうちに、爽太は番号が電光掲示板に表示されていると気付き、会計と薬の受け取りを済ませて病院を後にした。


 *


 ガサッと、爽太の鞄の中で白い紙の袋が鳴る。

 ひと月分――二十八日分の飲み薬が入った紙袋は、分厚くて重い。


 それでも大切な命綱。

 この先、十年、二十年――遠い未来を無事に生きたいならば、服用を続けなければいけない。


 爽太が、日光に照り尽くされた黒いアスファルトの上を歩いていると、ミーンミーンと、近くの高い電柱から、虫の声が聞こえる。


「――セミの声か」

 爽太は顔を上げると、強い日差しに目が眩まないよう、額のそばに手をかざしてそれを眺めた。


「短い命……。今の僕なら、どう過ごすのかな……」

 再び心臓が壊れ、余命を告げられたら――。

 あのセミのように、短くとも美しく懸命に生きるか。

 それとも、一日でも長く過ごせるように、無様でもあがいてもがくか……。


 ――爽太はスッと目を閉じ「やめよう」と、小さな声で呟いた。


「――……僕はもう、大丈夫なんだから」

 セミから顔を逸らした爽太は、アスファルトの熱で陽炎が揺らめく道を、ゆっくりと歩いて行った。


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