第57話 正夢


 ――カーテンの隙間から漏れる朝日が眩しい。

 それはもう、春の日差しのような柔らかいものではなく、瞼越しに眼球を刺すような、強い夏の太陽の光だ。


「爽太~!そろそろ起きないと、朝ご飯食べる時間無くなるよ~!」

 唯が、部屋のドアをノックしながら、爽太に伝えた。


 爽太が時計を見ると、いつも起きる時間よりも、六分ほど寝坊してしまったようだ。


 普段は、目覚めの良い方だと自負している爽太だが、結局あの悪夢の後、なかなか寝付けずにいたため、ようやく眠れそうだと思った時には、外が完全に明るかった。


 パジャマを脱ぎ、ズボンを履いて、シャツのボタンを閉じ、ネクタイを締める。

 夏城中は、夏服でのネクタイは自由着用なので外していてもいいのだが、爽太は、ネクタイを締めた方が気持ちが引き締まるように思えるので、これを朝のスイッチ切り替えの儀式のようにしている。


 ――キュッと、ネクタイを締める音がすると、眠気も薄れる。

 それでも、睡眠不足のせいで、体はほんの少し怠い。


 *


 爽太が一階に下りると、ダイニングテーブルの上には、唯が用意した朝食が並べられている。

 白いお皿の上に、サラダ菜と目玉焼きとベーコン。

 その手前には、食パンが一枚。

 いつもは、自分でマーガリンを塗って食べるのだが、爽太がなかなか起きてこないので、今日は唯が息子のためにすでに塗ってくれていたようだ。


 爽太はお礼を言った後、「いただきます」と、手を合わせて、食パンをかじる。

 隣では、腹持ちの良い白いご飯を食べ終えたひなたが、「いそげいそげ~!」と言いながら、服を着替えに部屋に戻っていった。


 ――サクっと、音を立てながら、パンを四分の一程食べたところで、もうこれ以上食べるのが難しいと思った爽太は、パンより口当たりの軽い目玉焼きに箸を伸ばしてみる。


「…………」

 ふうっ……と、短いため息をついていると、自分も朝ご飯を食べようと席に着いた唯が、食事がなかなか進まない爽太の様子に気が付いた。


「あれ?また食欲ない?」

 唯は自分の食パンにジャムを塗りながら、爽太に聞いた。


「うん、ごめんねお母さん……残していい?」

「風邪かなぁ~?」

 小さい頃のように、唯は息子の額と自分の額に手を当て、熱があるかどうか確かめた。


「……無いね」

「うん……熱っぽさは無いんだけど」

「夏バテ?」

「うん……そうかもしれない」

 爽太は、食欲が出ない原因は、自分の心が弱いからだとわかっていた。

 でも、「悪い夢見て気にしてる」なんてかっこ悪いことは、恥ずかしくて言えない。


 幼い頃なら、まだ素直に言えた。

 怖い、寂しい、辛い――言いたいことをそのまま伝えることができたのに、今は、倒れた時の亜梨明のような、心配を掛けたくないという気持ちよりも、弱い姿を人に見せるのが嫌だという気持ちが勝ってしまい、それが親だろうと言えなくなっていた。


 奏音の言った通り、亜梨明に偉そうに言える立場じゃないなと、心の中で苦く笑う爽太は、朝の薬を飲み、学校へ行く支度を始めた。


 *


 爽太が学校に到着して、靴を履き替えていると、「爽太~!」と、直希が肩を叩きながら呼んだ。


「おはよう、直希」

「おうっ!……おっ、なんだ爽太?目が赤い……」

「えっ……?」

 爽太が目の下に軽く触れると、直希は「お前も寝不足~?」と、にひひと笑う。


って……直希も?」

「だって、昨日は暑くて寝苦しかったろ~?おかげで変な夢見ちまった」

 直希は疲れたようなため息をついて、夢の内容を語り始めた。


 寝坊をする夢を見た。

 慌てて起きた直希は、急いで準備をして家を出たのだが、弁当を家に忘れたことに気付き、取りに帰った。

 すると、家の中が何故かハワイのリゾートビーチへと繋がっており、直希はそのまま海で遊び、結局遅刻して、担任の竹田先生に怒られてしまったという、夢だったらしい。


「……そしたら、ホントに寝坊して弁当忘れてさ!まぁ、こうして間に合ったけども、正夢になるとは思わなかったぜ~」

 直希と並んで歩きながら、爽太はクスクスと笑った。


 直希といると、面白くてつい自然と笑ってしまう。

 それは、今も昔も同じだった。


「(この関係だけは、昔と同じままがいい……)」

 爽太は、そう思いながら一組の教室の前で直希と別れた。


 *


 ――ガラッと、爽太が教室のドアを開けると、風麻や亜梨明達が一斉に爽太の方を向いた。


「あ~っ!日下やっと来た~!!」

 星華が爽太に指をさしながら言った。


 爽太が教室の時計を見ると、いつもより十分程遅れて教室に辿り着いたようだ。


「遅いよ日下~!もしかして寝坊?」

「……うん、寝坊した」

 ニヤニヤとからかうように聞く星華に、爽太が困った笑みを浮かべながら素直に答えると、星華は「えぇ~っ!意外っ!!」と、大げさなリアクションで驚いた。


「よかった……。もしかして今日、お休みしちゃうのかなって思ってたよ」

 亜梨明が安心したように爽太に微笑みかける。


「ちょっとちょっと~!暗記問題のクイズ続きするよ~!」

 奏音が亜梨明と星華に声を掛けながら、社会の教科書を持ち直した。


「クイズ?」

「そ、今みんな交代で問題出し合ってんの」

 鞄を置いてやってきた爽太に、奏音が説明した。


「あぁ~……期末はテスト範囲広いし、教科は増えるし最悪〜!」

 星華が机に伏しながら嘆いていると、亜梨明も「おまけに勉強はどんどん難しくなるしね……」とため息をついた。


「僕で良ければ、また解らないところ教えようか?」

「えっ、いいの?」

 爽太にそう言われた途端、憂鬱そうにしていた亜梨明の顔が、ぱあっと輝いた。


「テスト週間でしばらく部活も無いし、勉強一緒にやろうか」

「うん!ありがとう爽ちゃん!」

 亜梨明が嬉しそうにお礼を言うと、爽太の顔も自然とほころぶ。


「じゃあさ〜、土曜日にまた木の葉で勉強会やろうよ〜!いいでしょ緑依風?」

「土曜日……」

 星華が提案した途端、爽太は表情を曇らせる。


「うん、お父さんに頼んでみるよ!」

 緑依風が頷くと、星華と一緒に亜梨明が「やったぁ〜!」と、バンザイした。


「ケーキも!ケーキも頼んでくれ!」

 甘い物好きの風麻が緑依風にケーキを頼んでいると、星華と手を組んで喜んでいた亜梨明が、くるっと爽太の方を向いた。


「爽ちゃんも、勉強会来るよね?」

 期待した眼差しで問いかける亜梨明に、爽太は「ごめん……」と謝った。


「僕、その日は通院日で……薬をもらいに行く日なんだ」

 爽太が、ひと月に一度の通院日に重なっていることを告げると、亜梨明の大きな目は輝きを失い、下に伏せられた。


「そ、そっか……それじゃあ仕方ないね」

「本当にごめん、さっき教えるって言ったばかりなのに……」

「ううん……自分で頑張るし、気にしないで」

 爽太はもう一度謝ったが、亜梨明の表情はみるみる暗くなってしまった。


「…………」

 爽太は、しょんぼりと肩を落としてしまった亜梨明の様子に、とても心が痛くなった。

 期待をさせておいて、「できません」なんて告げてしまうことになった自分にも、腹が立ち始める。

 しかし、予約はひと月前からしていたし、他の患者のことも考えると、今更日にちを変えてくれなんて、病院側に言えるわけもなく、結局不参加になるしかない。


 *


 キーンコーンカーンコーン――。

 チャイムが鳴って、爽太が波多野先生に指示されて号令をかけると、風麻が爽太の目の前にやって来た。


「爽太、行こうぜ」

「うん」

 次の授業は音楽だ。

 教科書をもって、音楽室に移動する。


「歌のテストか~……俺、最近声出づらくて、高音自信ねぇよ~」

 風麻が喉元を押さえながら、気怠そうに言った。


「うん……」

 爽太はまだ、亜梨明をがっかりさせてしまったことを気にしており、風麻の話は半分も聞こえていない。


「暑いね~……」

「うん、暑すぎてバテちゃう。ぼんやりする……」

 亜梨明が滅入るような表情で星華に告げているのを聞いた途端、爽太はハッとして、後ろを振り返る。


「大丈夫?」

「えっ、あの……!大丈夫だよ!」

 爽太が駆け寄ると、亜梨明はわたわたとしながら答えた。


「でも、ぼんやりするって言ってたし……」

「大丈夫!廊下の空気が暑くてってことだから……!」

 爽太が心配そうに亜梨明を見つめると、亜梨明は教科書で、顔を半分程隠しながら言った。


「無理しないの約束……ちゃんと守るよ!」

 亜梨明はニコッと笑って、爽太にあの日の約束を守ると告げる。


「うん、しんどい時はすぐ頼ってね。――……?」

 爽太はふと、今の亜梨明との会話に違和感を覚えた。

 なんだか、どこかで同じようなやり取りを、すでにしていたように感じる。


「おーい、早く行こうぜ~」

 風麻が何故だか不機嫌な声で、緑依風の隣で自分達を手招きしている。


「(――この会話……この、景色……!!)」

 爽太は思い出した。

 これは、夢の内容と同じだと。


 ――理解した途端、爽太の顔から血の気が引き、手足が震えはじめる。

 ドクン、ドクン、ドクン――と、鼓動が速度を上げて、大きく音を鳴らす。


「……爽ちゃん?」

 亜梨明が、爽太が立ち止まったままなのに気付くと、ててっと、軽い足音を立てながら爽太の元に戻ってきた。


「爽ちゃん、早く音楽室に――……」

「――――っ!」

 亜梨明が近寄ると、爽太はビクッと肩を上下させた。


「そう、ちゃん……?」

「あ……ごめん。……すぐ、行くよ」

「爽ちゃん、どうしたの?なんか汗すごいし、目が赤いよ?」

 爽太の白い頬に、冷や汗の筋がつぅっ……と流れ、目の白い部分は、ほのかに赤みを帯びて、腫れている。


 ――怖かった。

 この後の続きまで、正夢になりそうで……。


 死の恐怖が再び自分に舞い戻り、亜梨明に拒絶されてしまうのではと考えたら、震えが止まらなくなり、目にも水が溜まっていった。


「…………っ」

 零れずに留まっている涙が流れぬよう、爽太は目に力を懸命に込める。

 人前で泣くなんて無様な格好は、強くなると誓ったあの日以降、もう見せないと決めていたから。


「――あぁ、目に何か入ったみたいだ」

 ふっと笑いながら爽太が言うと、亜梨明は「そっか~!」と言って、爽太の隣を歩き始める。


「早く行こうよ~!いつまでこの暑い廊下にいるのさ~!」

 蒸し蒸しとした廊下の温度に、星華がうんざりしながら言った。


「うん、早く行こっか!」

 いつもの調子で爽太が言う横で、亜梨明がじーっと、爽太の顔を見上げている。


「…………」

「どうしたの?」

「ううん、何でもないよ」

 亜梨明は、頬に張り付く長い髪を耳に掛けると、爽太に気付かれないよう、また彼の顔を見上げながら、音楽室へと足を進めた。


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