第56話 巻き戻る恐怖


「――先生、お医者さんになるにはどうしたらいいですか?勉強ですか?」


 病室のベッドにちょこんと座っている小さな男の子は、とても興味津々な様子で、熊のように大きな体の男性――高城元気医師に質問した。


 高城先生は、男の子の質問に「はっはっは!」と、豪快に笑う。


「もちろん、勉強も必要だけど、体力も必要だ。外科医……手術をするお医者さんは、ずーっと立ちっぱなしでいることばかりだからね」

「たいりょく……それって、どうやって増やせばいいですか?」

 キラキラした笑顔が、一瞬で難しそうな表情へと変わる。

 男の子にとって、一番自信のないものだ。


「まずは運動かな?お友達と、お外でたくさん遊ぶといい。……慣れるまではきっとしんどいと思うけど、君の体はもう他の子と同じで、元気そのものだ!もう我慢しなくていいんだよ」

 高城先生は、傷が塞がったばかりの男の子の胸の上に、大きな手をそっと置いた。


 男の子は、それを聞くと「はいっ!」とまた明るい笑顔になって、返事をした。


「それから、ご飯もたくさん食べてね。今までは、食べたい時に我慢しなきゃいけないこともあったかもしれないけど、モリモリ食べて、たくさん寝て、大きくなって。……あ、ただし、先生みたいなお腹にならないように!」

 不規則な生活と不摂生が続く高城先生は、自分のぽってりしたお腹をポンっと叩いた。


「あははっ!じゃあ、ほかには?僕も先生みたいなお医者さんになるには、あとは何を頑張ったらいいんですか?」

 男の子は高城先生に詰め寄りながら、興味津々な様子で質問を続ける。


「ん~……忍耐力、集中力、柔軟な思考と――……」

 高城先生は、腕を組んで唸りながら、小さな少年に丁寧に答えていく――。


 *


 ――カチャカチャと、食器の音をかすかに立てながら、夕食を共にする日下一家。


 今日の献立は、鶏むね肉を分厚く切って茹でたものを、温野菜の上に乗せた鶏肉のサラダと、厚揚げとキャベツ、ジャガイモ、ニンジンがゴロゴロと入った、具沢山のお味噌汁。

 そして、白くてツヤツヤのご飯と、そのお供に昆布や漬物などが用意されていた。


 肉や野菜が大きくカットされているのは、食べ応えを出すことで、やや肥満気味のひなたが満足感を得て、なるべく低カロリーに抑えられるように考えた、唯の工夫だ。


「…………」

「おかわりっ!」

 ひなたは、白いご飯をぺろりと平らげると、二杯目のご飯もお茶碗からはみ出るくらいの量を盛って、爽太の隣の席に戻ってきた。


「お兄ちゃん、お肉食べないの?ご飯も、お味噌汁も全然減ってない」

 部活の疲労のせいなのか――それとも悪夢のせいなのか、爽太は食欲がわいてこず、肉を一切れ、温野菜を三分の一、ご飯と味噌汁を二、三口程度食べたところから、箸が進まないのだった。


「ひな、お肉食べる?野菜も……食べれるならお兄ちゃんのあげるよ」

「わ~い!」

 ひなたは、爽太からおかずをもらうと、嬉しそうに胡麻ドレッシングをどばどばとかけた。


「ひな~、かけすぎかけすぎ!……まったくもう、これじゃあ低カロリーにした意味無いじゃない……」

 唯はがっくりとしながら、娘のダイエット計画の失敗に、深いため息をついた。


「爽太、もう少し食べられない?」

「うん……ごめん。美味しいんだけど、お腹いっぱいで……」

 爽太は、静かに箸をテーブルに置くと、冷たい麦茶を一口だけ飲んだ。


「はぁ~……小食のお兄ちゃんに合わせてご飯を作ると、ひなたが太っちゃうし、ひなたに合わせて低カロリーボリューミーにすると、今度はお兄ちゃんが痩せちゃうし……」

 唯は、明日の献立を今から悩み始めたようで、「う~ん……」と眉を曲げながら、食事を続けた。


「それでも、昔に比べたら随分と食べれるようになったじゃないか!な、爽太?」

 晴太郎に言われると、爽太は少しだけ微笑んで「うん、明日はもう少し食べるようにする」と答えた。


 *


 ――深夜十一時。

 湯浴みもとっくに済ませ、期末テストに向けて勉強をしていた爽太は、時計の時刻を確認すると、ベッドに潜った。


「今度は……昔の夢じゃないといいけど……」

 暗くて静かな部屋に、爽太の寝息の音だけが響いた――。


 *


 コーン……キーンコーンカーンコーン――。

 チャイムの音が、教室のスピーカーから聞こえてくる。


「はーい、じゃあ日下、挨拶お願い!」

 波多野先生が、ハキハキとした声で言った。


 爽太が「起立、礼――」と、号令をかけると、クラスメイトが爽太の声に合わせて立ち上がり、先生に向かってお辞儀をする。


「次、音楽だな。歌のテストか~……俺、最近声出づらくて、高音自信ねぇよ~」

 音楽の教科書を携えた風麻が、爽太の隣で喉元に触れながら言った。


「暑いね~……」

「うん、暑すぎてバテちゃう。ぼんやりする……」

 爽太のすぐ後ろで、亜梨明が星華にそう言っているのを聞き、爽太は思わず振り返る。


「大丈夫?」

「えっ、あの……!大丈夫だよ!」

 爽太が駆け寄ると、亜梨明はわたわたとしながら答えた。


「でも、ぼんやりするって言ってたし……」

「大丈夫!廊下の空気が暑くてってことだから……!」

 爽太が心配そうに亜梨明を見つめると、亜梨明は教科書で、顔を半分程隠しながら言った。


「無理しないの約束……ちゃんと守るよ」

「うん、しんどい時はすぐ頼ってね」

 亜梨明が約束を覚えていることに、爽太が安心していると、「おーい、早く行こうぜ~」と、風麻が緑依風達と前の方で声を掛けた。


「あ、ごめん。じゃあ、行こっか!」

 爽太が、亜梨明の手を引いて歩き出すと、亜梨明は「うん!」と元気良く頷いた。


「爽ちゃん、ありがと!」

 嬉しそうな笑顔でお礼を言う亜梨明に、爽太も嬉しくなっていた時だった。


「………ぅっ!」

 突然――心臓が不自然な動きを始めた。

 脈が乱れたかと思えば、あの日と同じ激しい痛みが爽太に襲い掛かる。


「……はっ、はぁっ……ぐぅっ……!」

 バサバサと教科書を床に落として、爽太自身もその上に崩れ落ちる。


「爽太っ、どうした!?」

「日下っ、日下っ!!」

 風麻と緑依風が爽太の異変に気付き、何度も呼び掛ける。


 ――そんな、嘘だっ……!先生っ……!


 治ったはずだ。

「もう我慢しなくていい」と、言ってくれた高城先生の言葉を思い出しながら、爽太はここにいない高城先生に、声に出せない助けを必死に求めた。


 ――先生……っ!助けてっ……!嫌だっ、僕は……戻りたくないっ!


 痛みに一度閉じた瞳をゆっくり開きながら、爽太が顔を上げると、先程まで自分に声を掛け続けた風麻達はおらず、代わりに真っ白な空間に、亜梨明が恐れを抱いた様子で、爽太を見ていた。


「うそつき……」

 亜梨明は震えた声で爽太に言った。


「亜梨明……」

「やっぱり無理なんだ……。元気になるなんて無理なんでしょう……?」

「亜梨明っ、違う……っ!こんなの、なんともないっ!何でもないんだ!大丈夫だから……!」

 爽太が体を這わせながら亜梨明に近付くと、亜梨明は後ろに一歩、また一歩と下がり、爽太から逃げていく。


「嘘つき……爽ちゃんの嘘つき!」

 亜梨明は、恐怖と怒りの感情を湛えた顔でそう言いながら、発作の苦しみに立ち上がれない爽太を見下ろし続けた。


「ちが……ぅ……こ、んな……はずじゃ、やめ……て、みないで……――!」


 視界が涙に揺らめく――。

 亜梨明の姿がぼやけて見えなくなる……。


 *


「…………!」

 ハッと目を覚ますと同時に、爽太はガバッと羽毛布団を跳ね除けて起き上がった。

 部屋は真っ暗だが、カーテンの隙間から見える窓の空は、薄く明るい――夜明け前だ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 爽太は荒い呼吸を繰り返しながら、もう一度辺りを見回した。

 ――自分のいる場所を確認したところで、先程の光景は夢だったのだとようやく信じることができた。


「今のは……」

 昔の夢ではない。

 現在の――中学生の自分の夢だった。


 ドッドッドッと、大きく早いテンポで動く心臓の動きを爽太は不快に感じ、その脈打つ部分のパジャマをギュッと鷲掴んだ。


「夢なのに……ゆめ、なのに……」

 目覚めたあとも、はっきりと覚えている発作の痛み。

 爽太は、体が内側からバラバラになってしまうのではないかと思うほどの、あの苦しみが、まだ小さな種を残して、再び芽吹くのを待ち構えている気がして、恐怖に背筋を凍らせた。


 ――嘘つき。


「…………!」

 再発を恐れた途端、爽太の脳裏に、夢の中で自分に言い放った亜梨明の言葉が蘇った。


 ――元気になるなんて無理なんでしょう……?


 失望した顔で、自分を見下ろす亜梨明のもう一つの言葉が、爽太の胸の中で渦を巻く。


「……無理じゃない、無理なんて思わせない……!」

 小さな独り言――。しかし、恐怖を振り払うように、力を込めて爽太は言った。


「強くなきゃ……。自分のためにも、亜梨明のためにも……!」

 弱い心が不安を招く。

 絶望を蘇らせる。

 そう考えた爽太は、ますます自分を追い込んでいくことに気付かぬまま、再び横になり、眠りにつくことにした。


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