第54話 悪夢
自分以外誰もいなくなった部屋の中で、爽太はゼリーを飲んでいたが、全て飲み切ることができず、半分程残して薬を飲んだ。
食事というにはあまりに少ないが、それでもエネルギーを使い果たした体は、甘いゼリーが入って来た途端、じわりと温かくなった。
生ぬるかった部屋の温度が、どんどん下がって快適になってくると、今度は急激な眠気が爽太を襲う。
「汗……流したいけど、もういいや……」
ベタつく体を清潔にしたいが、怠くて起き上がる気力も無い。
爽太は、薄い布団を頭まですっぽり被せると、そのまま深い眠りへと落ちた。
*
――その頃、相楽家では亜梨明が鼻歌を歌いながら、バザーで購入した物を薄いピンクのラグの上に並べて、ご機嫌な笑顔で眺めていた。
「は~っ、こっちの方が涼しい~!」
部活でたくさん汗を掻いた奏音は、シャワーを浴び終え、まだ冷え切らない自分の部屋ではなく、先にクーラーを効かせていた亜梨明の部屋にやってきた。
「あ、ただいま、おかえり」
「はいはい、ただいまおかえり。――なにそれ?」
奏音は、亜梨明の目の前にある水晶や、お菓子、アロマキャンドルを見て言った。
「バザーで買ったやつだよ!こっちは奏音におみやげ。手作りなんだって、可愛いでしょ~!」
亜梨明はハートの形の小さなアロマキャンドルを、奏音の手のひらにちょこんと乗せた。
「わぁ~、なんかいい香りする!」
「奏音のはローズの香りだよ。私は、こっちのラベンダーのやつ!」
亜梨明は薄紫色のキャンドルを鼻に近付けると、ふわりと香るその匂いに癒されるように微笑んだ。
「晶子ちゃんの歌もすごくよかったよ!」
「いいなぁ~。部活さえなければ聴きに行ったんだけど」
奏音が残念そうに言いながら、濡れた髪をタオルでバサバサと拭いた。
「お歌は再現できないけど、メロディー覚えたから、あとでピアノで弾いてあげるよ!」
「相変わらず、お気に入りの曲はすぐ覚えちゃうね~……でも、ちょっとだけ寝かせて~」
「うん、おやすみ~」
奏音は、亜梨明に背を向けたまま手を振って、自分の部屋へと帰っていった。
ベッドの上に座った奏音は、「あ、そういえば……」と、爽太のことを思い出した。
「――亜梨明に言ってないけど、いちいち言うことでもないかな~……ん?」
片手で髪をタオルドライしながら、反対側の手で携帯を見ると、風麻からの通知が入っていた。
――爽太から伝言。相楽姉に倒れたこと言うなってさ。
「……セーフ」
奏音はそう呟くと、『OK』と書かれたスタンプを送った。
「そうだよね……知ったら亜梨明、すごく心配するもん……」
奏音は携帯を枕元に置くと、ドライヤーで髪を軽く乾かし、お昼寝を始めた。
*
誰かの泣く声が聞こえる。
深く目を閉じて眠る爽太は、その声の主が母だと理解した。
「……そうたっ、爽太……!お願い、頑張って……!」
自分の手を握って懸命に声を掛ける母に、爽太は「なにを……?」と言いたかったが、喉の奥まで何かが詰め込まれて、何も言えない。
「――お母さん、旦那様が今入り口に……」
男の人の声に、唯は「わかりましたっ……」と、涙交じりに返事をした。
爽太はゆっくりと、固く閉ざされた瞼を開いた。
白い天井が見える。
口元に詰め込まれていたのは、酸素を送るための管だった。
口だけでなく、体中が様々な管や線に繋がれて動けない――。
――うそだ……。
声に出せない言葉。
爽太が唯一自由の効く、目だけを動かして辺りを見回すと、ガラス窓の向こうで、唯が駆けつけた晴太郎のスーツにしがみつきながら泣き崩れていた。
――いやだっ、嫌だっ!!戻りたくないっ!!
「…………!」
涙で視界が歪む中、必死に両親に向けて手を伸ばしていると、そこは病院ではなく自分の部屋だった。
日はとっくに沈み、外も部屋の中も真っ暗で、下の階からはトントントンと、母親が食材を包丁で刻む軽快な音と、ふざけあうように笑う父と妹の声が聞こえた。
爽太は深く息を吐きながら起き上がり、枕元に置いてあったペットボトルの水を飲むと、胸に手を当てて鼓動を確かめる。
――少し速く脈打ちながらも、不自然な動きはない。
寝汗をかいてしまい、昼寝をする前よりも体中がベタベタとして、シャツも濡れていた。
「体調悪かったせいかな……」
爽太は今でもたまに、過去の辛い記憶の夢を見る。
一番戻りたくない時の夢。
惨めでかっこ悪くて、死の恐怖に怯えていた頃の夢――。
そして、この夢を見るたびに、一つの不安が蘇る。
自身と同じ手術を乗り越えた子供全員が、生存しているわけではないということを……。
爽太は術後、ちょっとした好奇心でインターネットを使って、自分が施された手術について調べたことがあった。
いつか自分も医者になる――その夢のために、どんな技術を使って治療をしたのか知りたかったのだ。
病名、手術法、そして予後――知識欲の赴くままに、細かなことまで調べていった結果、手術を受けて一度完治したと思われた子供の三割は、その数年後に亡くなっていることを知った。
調べる前から、薄々予感はしていた。
治ったはずなのに、何故投薬が必要なのかと疑問に感じたし、検査もこの先永遠に続く。
それでもその真実を知った時、途方もない不安が爽太の心に押し寄せた。
もちろん、そのまま元気に過ごしている患者がたくさんいることも知っている。
無事、成人することができた人もいて、それを見て安心することもできた。
――でも……もし、その三割に自分も入ってしまったら……?
考えたくないと願っても、一度思い出すとなかなか消えてくれない。
「…………」
爽太が灯りも点けずに、ベッドに半身を起こしたまま座っていると、コンコン、と部屋のドアをノックする音が鳴る。
「爽太、起きた?晩御飯もうすぐできるよ」
夢の中とは違い、穏やかな声で呼びに来た母親に、爽太は「わかった」と短い返事をした。
「あら、すごい寝汗……」
唯は、部屋の灯りをリモコンで点けると、前髪が濡れている息子の様子に気付いた。
「シャワー浴びておいで。シーツもあとで取り替えないと……」
「うん、ベタベタして気持ち悪いや……」
爽太がクローゼットから着替えを取り出すと、唯は先に部屋を出て、階段を下りて行った。
「弱気になるな……僕は大丈夫、絶対大丈夫だ……!」
ぎゅうっと、胸元のシャツを強く握り締めると、爽太は何度も念じながら不安を打ち消した。
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