第53話 兄の姿
爽太を乗せた車が去っていくのを見送った風麻は、「ふぅ……」と短い息を吐いた。
炎天下の中、二人分の重いスポーツバッグに、自分より背も体重も上回る爽太を抱えながら歩くのは、やはり骨が折れた。
引きずりながら、やっぱり竹田先生を呼べばよかったかと後悔もしたが、途中で「やっぱ無理」なんて言ったら、男の名が廃るってもんだと、歯を悔いしばった。
――さて、帰ろう。と、した時だった。
「風麻!」と、自分の名前を呼ぶ声に振り向くと、背後には緑依風と亜梨明の姿があった。
「――――!」
予定もなく、休日に亜梨明に会えるなんて思っていなかった風麻の心が、思わず跳ね上がる。
「(私服だ……!)」
夏らしいレモンイエローのワンピースを纏った亜梨明を見て、風麻の心はキュンとときめいた。
可愛い、似合うと褒めたい気持ちがあっても、恥ずかしさと緑依風の手前で何も言えない風麻は、汗に濡れた髪を掻きながら「バザーの帰りか?」と、平然を装った。
「うん。風麻は?もう部活はとっくに終わってる時間のはずなのに、なんでこんな時間まで?」
「相楽と青木に手伝ってもらいながら、爽太と自主練してたんだよ」
「自主練っ!?」
意外そうな反応をする緑依風に、風麻は「なんだよ~」と、不機嫌になる。
「努力嫌いって、昔から言ってたのに……」
「ふっ、それは昔の俺。今の俺は大人になったんだ!……まぁ、勉強の努力は嫌いだけど」
「努力しなよ、期末泣いても知らないからね……」
緑依風が腕を組みながら呆れている横で、亜梨明は何か気になるような表情で、「あの、坂下くん……」と、風麻を呼んだ。
「ん?」
「さっき、坂下くんが爽ちゃんと一緒にいるの見たけど……爽ちゃん、何かあったの?」
おずおずとした様子で亜梨明が聞くと、風麻の心がドキリとする。
「あ、そうだ!なんか元気なさそうだったし、風麻背負っ――いや、引きずってたね、あれは……」
風麻は「いちいち一言多いなお前は……」と、緑依風にむっとしながら、どう誤魔化そうかと、思考を回転させていた。
「あ~……足っ、足つったんだよ。ビキッてなるやつ!」
苦し紛れに、風麻は爽太を助けるための嘘をつく。
「ジャンプたくさんするからさ、そんで足つっちゃって、おばさんに迎えを――」
「なんだ、足つっただけか」
「よかったぁ〜。もっと大変なことだったらって、心配しちゃったよぉ~!」
亜梨明がふにゃりと表情を緩めると、隠し通せたことに安堵した風麻も、緊張で張りつめていた心を、ホッとくつろがせた。
*
亜梨明と別れた後、風麻は悶々とした気持ちをどうにかしたくて、緑依風をチラリと見た。
「どうしたの?お腹すいてるなら、これあげようか?」
緑依風はバザーで購入した、にんじんのパウンドケーキを風麻に手渡した。
「あ、あぁ……もらうし、腹も減ってるけどさ……」
「?」
横から顔を覗かれると、「緑依風には、いいよな?」と風麻は小さく口を開いた。
「――本当はさ、爽太……練習中に貧血で倒れたんだよ」
「えっ――?」
緑依風が驚いて立ち止まると、風麻もそれに合わせて歩みを止めた。
「でも、相楽姉には内緒にして欲しいって。元気な姿しか見せたくないって……。だから、ああ言ったんだけど……」
「私には話してよかったの?」
緑依風が聞くと、風麻は「わかんねぇけどさ……」と、力無く言った。
「なんか、爽太の顔とか、その時のこと思い出したら――俺一人で黙ってんのしんどくて……。緑依風はすぐに言いふらしたりしないって信用できるし、なんでも話せるから……お前には話したかった」
「そ、そう……。そう言ってくれるのは、嬉しいし、秘密にするけど……」
緑依風はモジモジとしながら、外側に跳ねる毛先を指で触れて、このことを内緒にすると約束した。
「ん、秘密と言えば……あぁーっ!!」
「ヒッ!?」
風麻は、大事なことを思い出し、大声を上げた。
あまりに大きな声なので、目の前にいた緑依風は驚いて小さく悲鳴を上げる。
「な、なにっ!?びっくりしたじゃない!!」
「これ内緒って、青木と相楽知らない……」
風麻は慌てて携帯を取り出し、奏音と立花にメッセージを送った。
*
時間は少し巻き戻り、風麻に見送られた車に乗っている爽太は、まだ青白い顔のまま、体をぐったりとシートに預けながら窓の外を眺めていた。
「もう……貧血起こすなんて、最近なかったから驚いたわ」
唯はハンドルを握りながら、バックミラーに映る息子に話しかけた。
「うん、僕も驚いた。……多分、水分補給ちゃんとしなかったせいかも」
「暑いんだから気をつけてね」
「ごめん……」
唯は、普段自己管理ができている爽太が、不注意で崩れることを珍しく思いつつ、自分もまだ子供の体調について、注意深く見ていないとダメだなと思った。
以前はほんの些細なことも見逃さないようにと、常に気を付けていたのだが、完治後は爽太自身がしっかりと、自分の健康状態を理解するようになっていたので、油断していた。
「ご飯食べれる?家に帰ったら冷たいそうめんあるけど?」
「うーん……」
爽太はまだ、自分の胃が動いていないような気がして、「ちょっと無理かな……」と、答えた。
「でも、薬飲むから何か食べないと……」
「飲むタイプのゼリーはどう?あとスポドリも買わなきゃ。朝用意して切れちゃったから、コンビニ寄ってから帰ろっか」
「コンビニっ!?」
爽太の隣に座っていたひなたが、母親の言葉に目を輝かせた。
「おかーさん、アイス!アイス食べたい~!」
「え~っ、ひなご飯前にプリン食べたじゃない。最近お腹のぽっちゃりが、前より気になるなぁ~?」
「食べたい~!昨日新しいやつ出てるの!気になる~!!」
ひなたが駄々をこねて騒ぐと、唯は「わかったわかった」と、困ったように笑った。
「買ってあげるから静かにね。お兄ちゃんしんどいんだから」
「あ……」
ひなたは、隣に座る兄の状態を思い出すと、「ごめんなさい……」と謝った。
爽太は返事をする代わりに、クスっと笑いながら、ひなたのプニプニのほっぺたをつっついた。
*
自宅に到着すると、ひなたはアイスの入った袋を持ったまま、ご機嫌な様子で家の中へ入っていった。
爽太も、ひなたに続いて車から降りようとするが、まだ足元がおぼつかず、コンクリートの床に崩れ落ちそうになる。
「危ないから待ちなさい」
唯は、ゼリーとスポーツドリンクの入ったビニール袋を玄関前に置くと、まだ辛そうな面持ちの息子の元へと戻ってきた。
「あ……」
唯は、つい昔の癖で爽太をおんぶしようとしたのだが、すでに息子が自分より大きく成長していたことを思い出し、もう運べないと悟ると、夫を呼んで家の中に爽太を運ぶよう頼んだ。
180センチ後半の背丈の晴太郎は、「はいはい、ちょっと待ってね~!」と小走りで出てくると、爽太をおぶって玄関まで運んだ。
「あんなに、小さかったのにね……」
唯は、車の鍵を閉めながら、同い年の子供よりも体の成長が遅れていた爽太が、今では友人よりも大きく成長できたことを嬉しく思い、ひっそりと涙を滲ませた。
晴太郎は爽太の靴を脱がせると、再び背負って、爽太を二階の部屋まで運ぶため、ゆっくりと階段を上った。
「爽太、重くなったなー!おんぶしたの何年振りだろう?そりゃもう中学生だもんなぁ!」
晴太郎も、唯と同じく爽太の成長を実感し、喜ぶような声で話しかけた。
「ごめんねお父さん……」
「まだ運べるよ。はい、お部屋到着」
晴太郎が爽太をベッドに降ろすと、後から来たひなたが、飲むタイプのゼリーと水が入ったペットボトルを持って来た。
「ひなありがとう」
爽太がお礼を言うと、ひなたは「お兄ちゃんもアイス食べる?」と、自分がかじっていない方の棒についたアイスを、爽太に差し出した。
「ううん、ひなが食べていいよ」
「そう……」
ひなたは残念そうにアイスを引っ込めると、爽太に背を向けてアイスをかじった。
「お昼の薬は?」
「そこの引き出しかな……」
晴太郎は、爽太が指をさした引き出しから薬を取り出し、息子に手渡した。
「さて、飲んだら晩御飯まで寝てるといいよ。ひなはお父さんとリビングに行こうか」
晴太郎が連れ出そうとすると、ひなたは「はーい……」と、返事をして、父親と共に部屋から出て行った。
――パタン。
晴太郎が静かにドアを閉めると、ひなたは食べ終わったアイスの棒を持ったまま、しょんぼりとしていた。
「お兄ちゃん、こんなに元気無いのやだな……。また、前みたいにならないよね?」
「ひな……覚えてるの?」
爽太が手術を受けた時、ひなたはまだ四歳だった。
「ちょっとだけ……。元気が無くて、ずーっと寝てて、おうちにも帰ってこなくなったよね」
ひなたは遠い記憶を、途切れ途切れに思い出していた。
何日も家に戻らない兄に会うため、両親に病院に連れて行ってもらった時、窓越しに面会した兄は、どこか虚ろな表情のまま、ICUの中から小さく手を振っていた。
死を理解できずとも、ひなたはそんな兄の姿を見て、ある日突然いなくなるかもしれないと、大きな不安を感じたのを覚えている。
「ひな、だいじょーぶ!!お兄ちゃんすぐ元気になるよ」
晴太郎はひなたを抱き上げると、明るい笑顔でそう言った。
「もう大丈夫なんだよ。お兄ちゃんは元気。今日はたまたまだよ」
「うん……!」
父の言葉に安心したひなたは、アイスの棒を両手で握りながら笑う。
「――ところでひな。さっきアイス食べてたけど、そうめんの前に生クリーム乗っけたプリン食べてなかった?」
「おいしかった!」
「ひな~……最近抱っこするの大変になってきたよ~~!」
晴太郎はひなたを降ろすと、「失礼しちゃう!」とポカポカおしりを叩く娘を連れて、階段を下った。
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