第52話 白い
――ぐんっと、体を持ち上げられた感覚と同時に、爽太は脱力して竹田先生に身を委ねた。
音も、視界も――何かのフィルターがかかったかのように、ぼんやりとしている。
「爽太……」
爽太の耳に、不安そうな風麻の声がおぼろげに聞こえた。
竹田先生は、半歩後ろを歩く奏音と立花に、爽太が倒れた時の状況を聞きながら、低い声と共にため息を吐いた。
*
クーラーの効いた保健室のドアを立花が開く。
養護教諭の柿原先生は、今日は休みでいないようだった。
風麻が、爽太の履きっぱなしだったバレーシューズと靴下、サポーターを取り外すと、竹田先生は爽太をベッドに寝かせた。
カーテンを半分程閉めると、竹田先生は爽太以外の三人の前で腕を組み、もう一度、部活が終わった後の話を詳しく聞き始めた。
「――……まったく。自主練はいいけど、休憩はこまめにしてくれよ。オーバーワークもしないように」
竹田先生は険しい顔で三人を叱った。
「……すみませんでした。僕がやりたいって言ったんです」
四人の会話を聞いていた爽太は、ベッドに横になったまま、腕で目元を押さえながら言った。
「…………」
竹田先生は憔悴しきった爽太を見下ろすと、「次からは気を付けてくれよ」と、静かな声で注意した。
「相楽達はもう帰りなさい。日下はしばらく休んで、それでも立てないなら親御さんに連絡して迎えに来てもらおう。できるなら水分補給も少しずつしてくれ。一気に飲まないように……」
竹田先生が指導すると、風麻が「俺がしばらく看ます」と言って、爽太の看病を名乗り出た。
竹田先生は風麻に爽太を任せると、別件で立て込んでいた用事を済ませるべく、職員室に戻っていった。
パタンっと、戸が閉まる音が鳴ると、「はぁぁ~」と、風麻、奏音、立花は安堵したようにため息をついた。
「……焦った」
「私も……」
風麻と立花が肩を脱力させながら交互に言った。
「ごめん……みんなまで怒られちゃったね」
爽太が三人に謝ると、「それは気にしてない」と、奏音が言った。
「……日下も亜梨明のこと言えないんじゃない?……体調悪かったら無理しないでよ」
奏音が腰に手を当てて言った。
「それが……突然だったんだ。元々バテやすい自覚はあったけど、運動中に貧血になったのは久しぶりで……」
手術を終えたばかりの頃は、不慣れな全力疾走をして貧血を起こしたことがあったものの、その回数は少しずつ減り、ここ二年くらいは全く症状が現れなかったため、爽太は今回のことを不思議に思っていた。
「でもさぁ、日下部活中もやっぱり顔色悪かったよ?まっ、元々真っ白だからわかりづらいし、本人が一番わかってるだろうと思って言わなかったけど」
「…………」
立花にそう言われると、爽太は自分の手の甲を見た後、自分のそばに立つ三人の腕や顔を見た。
――見比べると、その白さに自分が弱々しく思えて、なんだか情けなくなる。
「ん?どうしたの日下」
「あ、いや……なんでもない。でも、今度から気を付けるよ」
立花に聞かれた爽太は、その手を隠すように布団の中に入れると、眉を八の字に曲げて弱く笑った。
「俺らも気を付けなきゃだな。来週からは期末テスト一週間前だし、体調管理しっかりしとかないと、赤点取っちまう……」
風麻は言い終えた後に、近寄るテストの現実にがっくりと項垂れた。
奏音も立花も勉強は苦手なので、風麻の言葉を聞いて苦い顔をしている。
*
奏音と立花が帰ると、爽太は風麻から自分のスクイズボトルを受け取り、一口だけスポーツドリンクを飲んだ。
つい先程まで、喉がカラカラに乾いていたはずなのに、今は胃がそれを拒むように押し返そうとした。
「俺、こっちにいるから、寝てていいぞ」
風麻はそう言うと、ベッドから少し離れたソファーに座って、携帯をいじり始めた。
爽太は短く息を吐くと、風麻に背を向けて、白いシーツをキュッと握った。
――悔しい、情けない……。
爽太の心に、この二つの感情がじわりと黒く滲んだ。
風麻達は、同じ環境で練習していたにもかかわらず、少し休めばすぐに元気になっていたのに対し、自分はなんて脆くて弱い体なんだろうと、爽太は思った。
元気になったと大喜びし、何でもできると希望を持てたのに、最初から健康体の者達とは、差が歴然だという現実を突きつけられたようだ。
「(亜梨明がもし、このことを知ったら……)」
爽太の脳裏に、ふと亜梨明の顔が浮かんだ。
自分が話す、根治手術を受けた後の話を熱心に聞き、その話に少しずつ生きることに前向きな思考を持ち始めた彼女が、今の自分を知ってしまったら……。
――やっぱり、本当に元気になるのは無理なんだね……。
亜梨明が憂いを帯びた瞳で、がっかりとする姿を無意識に想像すると、爽太はそれを消したくて、ふるっと、軽く頭を振った。
「――爽太?どうした、寒いか?」
爽太の体が震えていると勘違いした風麻は、「温度上げるか?」と、爽太に聞いた。
「あ、いや……大丈夫。寒くないよ」
「ならいいけど……まだしんどそうだな。親に迎え頼むか?」
爽太は、「そうするよ」と言って、風麻に自分の携帯電話を取ってもらい、母親の唯にメッセージを送った。
爽太が枕元に携帯を置くと、風麻は爽太が寝ているベッドに腰を掛けた。
「気分は?」
「うん……まだ体が重いや」
「そうか……」
短い会話が終わると、そのまま保健室に沈黙が続いた。
サァァーっと、涼しいエアコンの風が吹き出る音と、微かな時計の針の音だけが、二人の耳に聞こえていた。
「風麻」
爽太がか細い声で名前を呼んだ。
「なんだ?」
風麻は、振り向かずに返事をして、彼の背に自分の背を軽くくっつける。
「今日のこと――僕が倒れたこと……亜梨明に言わないで欲しいんだ」
「いいけど……なんで?」
風麻はぶらぶらと足を揺らしながら聞いた。
「亜梨明には、元気な僕しか見て欲しくない……」
爽太の秘密の理由に、風麻は少しだけ間をおいてから「どうして?」と言った。
「僕が体調を崩したなんて知ったら、亜梨明はもしかしたら、治すことに前向きになれなくなるかもしれない……。亜梨明に元気になって欲しいから――そのためには、僕はずっと元気じゃなきゃいけないんだ」
「……そんなの、どんなに元気なやつだって、雨にも風にも負ける時くらいあるだろ?俺だって、たまーに風邪引くんだぞ?」
風麻はチラっと爽太の顔を見るが、爽太は浮かない顔のまま、風麻と目を合わさなかった。
「……会ったばかりの頃、亜梨明は自分の人生を諦めてた」
「え?」
「きっと、大人になるまで自分は生きれない、無理だって言ってた」
「…………」
「でも、僕が元気になれたならって――今、やっと治すことに希望を持ち始めてくれたんだ。……だから亜梨明には、僕を見て、自分もそうなれるって思ってて欲しい」
爽太は目を閉じると、出会った日から昨日までの亜梨明の声や表情を思い返した。
「――私、自分が大人になる姿って想像できないんだ」
「爽ちゃんの話を聞いてると、本当に元気になれそうって思ってきちゃう!」
「爽ちゃんとお揃いって考えたら、なんか気持ちが楽になった!」
出会ってからまだほんの三か月。
それでも、亜梨明は初めて会った日とは比べ物にならないくらい、命の光を増している――自分の言葉で、変わってくれている。
弱い姿を人に見られるのは嫌いだ。
――でも、亜梨明にそれを見られるのはもっと嫌だ。
同じ境遇の友達で、昔の自分の面影を見せる亜梨明の存在は、爽太の中で確実に大きなものとなっている。
「言わねぇから、そんな顔すんなよ……」
爽太が目を開けて風麻を見ると、彼はクシャクシャと、爽太の短くてふわふわの髪の毛を乱した。
「前に言ったろ……俺らみんなで、相楽姉を支えようって。相楽姉がお前を見て元気になれるなら、あいつに絶対言わねぇし、相楽姉がなにがなんでも治してやるって思うくらい、俺達が楽しくさせてやれたらいい」
「風麻……」
「あいつが今の爽太みたいになれたらいいって思うのは、俺とお前だけじゃなくて、緑依風も空上も――みんなだ!」
風麻が優しい眼差しで爽太に笑いかけると、爽太の心がほんの少し軽くなる。
「ふふっ……」
爽太の口から、自然に笑い声が漏れる。
「なに笑ってんだよ……」
風麻は、爽太の両頬に手を添えると、ふざけるようにムニムニと揉み回した。
「風麻、お兄ちゃんみたい……!」
「なんだとー!これでも三兄弟の兄ちゃんなんだからな~!」
「少し、直希にも似てる」
「そうか~?」
「うん、かっこよくて、いいやつだ……」
「よせやい!」
風麻が照れるように、ペシッと軽く爽太の肩を叩くと、爽太は「ははっ」と笑った。
*
爽太の連絡に気付いた唯から連絡が入った。
すぐに迎えに行くから、校門の前で待つようにとのことだった。
「歩けるか?」
風麻が、爽太の靴を取り出して聞いた。
「うん……」
爽太は頷いて立ち上がろうとするが、ぐらりと揺れる視界によろめいた。
「俺の肩掴まれ……鞄も俺が持つ」
「あ、あの……危ないから竹田先生呼んだ方が」
爽太よりも10センチほど小さな風麻は、自分の鞄と爽太の鞄、そして、大きな爽太の重みにプルプルと震えながら彼を支えて歩こうとする。
「べ、別にこのくらい平気だしっ!……小さいからって言うなよ。ヘコむから」
風麻はギロリと爽太の顔を見て言うと、そのまま校門の前まで爽太の腕と腰を掴んで引きずりながら支えて歩いた。
爽太もさすがにこの状態では歩きづらかったのだが、彼の男気と友情に感謝して、支えてもらうことにした。
*
二人が校門前に出ると、その近くに車を停車させた唯が、友人に支えられて歩く息子を見て駆け寄った。
「ごめんね~坂下くん!うちの子とそれと鞄まで……重かったでしょ」
唯はてっきり、爽太が一人で来るか、先生に付き添ってもらうのではと思っていたので、まさか自分の子供より小柄な風麻が、重みに耐え、顔を真っ赤にして来るとは予想外だった。
「いえ……っ、これくらい、ラクショーっすよ……!」
風麻は爽太を唯に受け止めてもらうと、額から滴る汗を腕で拭った。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
「うん、少し良くなったから」
爽太は、母親に後部座席に乗せられると、隣で自分の体調を気遣うひなたを安心させるように、優しく頭を撫でた。
「風麻、ありがとう」
車の窓を開けて、爽太が風麻に礼を言う。
「おう、お大事に。ゆっくり休めよ」
「坂下くんありがとうね。では……」
「いえ、とんでもないっす!」
唯は風麻に軽く会釈をし、サイドブレーキを解除させると、自宅に向かって車を走らせた。
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