第46話 プール(前編)
六月も残り数日――。
気温は三十度を超える日が続き、夏らしい季節となって来た。
今日は、一組の生徒にとって、今年初めてのプール授業。
天気はピカピカに晴れており、まさにプール日和に相応しい天候だ。
「プール!プール!!」
風麻は、朝からテンション高めではしゃいでおり、緑依風の隣で水着やタオルの入った透明な鞄をブンブン振り回していた。
「日焼けするだろうなぁ……かと言って、日焼け止め塗れないし」
風麻と違い、日焼けを気にする緑依風は、肌をさすりながらちょっぴり憂鬱そうに言った。
「あ~もうっ、早く泳ぎてぇ~!!体育館の中とか暑いから、部活中もプールに入りたくて仕方なかったんだよなぁ!」
「体育館は日差し無くても、空気が籠って暑いもんね」
「そうなんだよ!だから最近、俺部活終わったら頭濡らして帰ってんだ!」
「あんた……この間頭どころか、シャツまで濡らして帰ってたでしょ……。白シャツ透けてるの、洗濯取り込む時見えたよ……」
緑依風は先日、晴れているのに上半身をぐっしょり濡らして帰ってきた風麻を見つけた時、もしやバレー部の先輩にいじめられたのではと、心配したのだが、たった今その原因がわかり、白けた目つきを向ける。
「見てんなよエッチ!」
「み、見たくて見たんじゃなーい!」
強い日差しが照りつく住宅街に、赤面した緑依風の声が響いた。
*
緑依風と風麻が教室に辿り着くと、一年一組の教室は風麻同様に、プール授業を喜ぶ生徒の声で賑わっている。
「おはよう」
緑依風が先に来ていた相楽姉妹に声をかけた。
「緑依風ちゃん、坂下くんおはよう〜!」
「おはようお二人さん。坂下は朝から機嫌良さそうだね」
「おはよ!そりゃ今日はプールだからな!……おっ?」
風麻が相楽姉妹を見ると、二人は風麻から誕生日にもらったヘアピンをつけている。
赤い薔薇の飾りがついたヘアピンは亜梨明が。
奏音は、色違いで白い薔薇の飾りがついたピンを、いつもと同じ場所につけていた。
「それ、新しいヘアピン?お揃いだ」
緑依風が言うと「うん、お揃い」と奏音が笑った。
風麻が、自分が贈ったものだとバレないか、緊張したように姉妹を見ると、奏音はアイコンタクトで、「わかってるよ」と、風麻にサインを送った。
「相楽姉はやっぱりプール入れないのか?」
「うん……。水が冷たすぎると血の巡りが悪くなっちゃうから。温水プールで軽く遊ぶ程度ならいいんだけどね」
亜梨明は残念そうに困った笑顔を浮かべた。
「おはよう!」
「あっ、爽ちゃんおはよう~!」
風麻と違い、暑い日でもネクタイをきちんと着用した爽太が、教室に入ってくる。
「――あ、今日はいつもとヘアピン違う」
亜梨明は、大好きな爽太に気付いてもらったことが嬉しくて、そっとヘアピンに触れた。
「二人とも似合ってる!可愛いよ!」
爽やかな笑顔で、サラリと相楽姉妹を褒める爽太。
その瞬間、亜梨明は「ホントっ!?」と目を輝かせ、奏音は「ひっ……」と小さく悲鳴を上げた。
「嘘言わないよ。よく似合うね!」
爽太が更に褒めると、素直に喜ぶ亜梨明とは対照的に、奏音は腕を掻きながら「歯の浮くセリフやめてっ!」と、彼に叫んだ。
緑依風は、そんな三人のやり取りを微笑ましそうに――風麻は、「まただ……」と、他の人の前とは違う亜梨明の笑顔に、胸が苦しくなっていた。
*
水泳授業は三時間目だった。
一年一組の男女は、プール横の更衣室に移動し、授業に出れる者は水着に――見学者は体操着に着替えはじめた。
「あ~っ……日下の言葉を思い出すたびに鳥肌が止まらないよ」
歯の浮くようなセリフや、お世辞が大嫌いな奏音は、まるでおとぎ話の王子様のように、恥ずかしげもなく褒めてきた爽太に、まだ身震いしていた。
「ひっどーい……私はすっごく嬉しかったよ?」
「それは、あんたが日下のこと好きだからでしょ」
「あぁ~……あつい、暑いよぉ~~っ!プール入りたい~っ!!」
先日、無事大人の仲間入りを果たしたばかりの星華は、蒸し蒸しとした更衣室の湿度に耐えられず、気怠そうに体操着のシャツを開けて、パタパタと空気を入れる。
「おへそ見えてるよ星華……」
緑依風が注意すると、「もう早速めんどくさい……。生理、もうちょい来なくてもよかったな」と、この間とは真逆の言葉を述べた。
「とっとと出ちゃおう――」
そう言った奏音が先頭になって、薄暗い更衣室のドアを開けると、最初に四人の視界に入ってきたのは、コンクリートの地面から反射した、白い光だった。
「――――っ!」
あまりの眩しさに一瞬目を閉じた亜梨明だったが、開いた瞬間映った光景に、彼女はハッと息を呑む――。
真っ青な夏空に浮かぶ白い雲――その下には水色のプール。
そのプールの中に入っている水が、太陽の光を纏ってキラキラと光っている。
夏だ、夏が来た。
亜梨明だけでなく、誰もがこのプールを見た瞬間、夏を感じたであろう。
灰色のコンクリートの床は、濡れたところと、乾いたところがまだら模様になっている。
プールサイドいっぱいに広がる、薄い塩素の匂いなど、本来いい匂いとは言いづらいが、それすらも夏の香りとなっていた。
「は、入りたいなぁ~!」
普段なら、体調が悪くなることなど避けたい亜梨明だが、はしゃぐクラスメイトを見ていると、その大きな水の世界に飛び込んでみたいという気持ちが生まれる――。
「私も入りたいよぉ~!!うっかりのフリして、落ちてみようかなっ?」
「ダメに決まってんでしょ」
星華の突拍子もないアイデアに、奏音が冷静に突っ込んだ。
「ちぇ~っ……ん、なんかあっちが楽しそうだね?」
星華が真横に振り向くと、女子が四、五人集まり、なにやらきゃっきゃと黄色い声を出している。
「ねぇねぇ、それ触っていい?」
「これ?別にいいけど?」
女子グループの中心には爽太と風麻が並んでおり、亜梨明や緑依風達は、何事かと覗き込んだ。
四人は――特に亜梨明は、水着に着替えた爽太を見て、驚いた。
彼の胸元にも、亜梨明と同じく――いや、亜梨明以上に大きな手術痕が残っていたからだ。
亜梨明は、その傷跡を面白そうに見ているクラスメイトに、心がズキっと痛んだが、当の爽太は何にも気にしていない雰囲気で、手のひらでペチペチと軽く叩くように傷に触れられても、堂々としていた。
「痛くないの~?」
「もう全然」
少し賑やかな女の子達は、珍しいものに触れて満足したのか、「ありがと~!」と爽太にお礼を言って、パタパタと小走りしながら、入水前のシャワーを浴びに行った。
――何が楽しいんだろう。
亜梨明がキュッと下唇を噛んでいると、「お、お前らも着替え終わったのか」と、爽太と共に近付いてきた風麻が言った。
「ちょっと日下~、もう少し恥じらいなよ!」
「恥じらうって?」
星華の言葉の意味がわからない爽太は、キョトンとしている。
「それ!傷とかさ~!軽々しく女に裸触らせてんじゃないよ!」
指摘されてようやく気付いた爽太は、「あ~……」と言って、自分の胸元を見た。
「もう、見せるのも触られるのも慣れたからね。変に気を使われるよりは、こっちの方がいいな!」
「な、慣れるもんなんだ……」
まじまじ見るのは失礼かと目を逸らしていた緑依風は、爽太の言葉を聞いて、チラリと傷跡を見た。
「最初は恥ずかしかったし、周りの目が気になったけど。直希が「勇者の証だ!」って言ってくれてからは、「かっこいいでしょ?」って、思ってるよ!」
爽太は少し自慢げな顔をすると、腰に手を当てて踏ん反り返った。
「すごいなぁ、爽ちゃん……」
亜梨明の口から、ほろっと心の声が漏れ出た。
宿泊研修の時は、緑依風や星華達が元気付けて、隠してくれたから傷をさらけ出すことができた。
しかし、それはその時だけで、やはりなるべく人に見せたいとは思わない。
ましてや、先程のクラスメイトのように、物珍しさに触れられたならば、自分はきっと傷付き、もう二度と人に傷を見せるなんてことはできない――。
亜梨明は体操服をキュッと握り締めて、自分の器の小ささを悔しく思った。
「私は傷跡なんて消したいって思うし、根治手術したとしても、大きく残るの嫌だなって思ってるのに……」
元気になれるのならば、傷がどんなに残ろうが絶対そっちの方がいいはず――。
けれども、それならば元から元気で、綺麗な体をしている人は尚良い。
そうやって、自分は比べてばかりなのに、爽太は困難を乗り越えたという証に対して、誇りを抱いている。
落ち込む亜梨明に、誰も言葉を掛けられずにいると、「お揃いだと思うのはどう?」と、爽太が聞いた。
「おそろい……?」
亜梨明が顔を上げると、爽太はゆっくり頷いた。
「さすがにそれはどうなの……?」
奏音だけでなく、星華や風麻も爽太の例えに微妙な顔をしている。
「あ、やっぱり変かな……。亜梨明お揃いなの好きって、前に聞いたからさ……」
「それは、相楽とお揃いがいいってことだろ……」
「…………」
亜梨明は爽太の傷跡を見つめた後、シャツに隠れる自分の胸元の中心を見ると、ふるっと、体を震わせた。
泣くのでは――?と、五人がまずいという空気になった時だった。
「それ、すごくいいっ!」
亜梨明は、両手をパンっと合わせて笑った。
「爽ちゃんと……お揃いって考えたら、なんか気持ちが楽になった!」
「えっ、えぇ~っ!?」
奏音は「それでいいのか」と、言いたげな顔で、亜梨明の横顔を見た。
「さすがに、ヘアピンみたいに見せて歩くのはできないけども……」
「そりゃそうだよ、男は半裸でもいいけど、女の子が外で脱いで歩いたら露出狂だよ!」
星華が突っ込みを入れると、一時張り詰めた六人を包む空気が穏やかになる。
――ピーッ!
ホイッスルの音の鳴る方へ六人が振り向くと、男女の更衣室のドアの間に波多野先生が立っていた。
「シャワー浴びてない子、早く浴びて~!男子はあっちに並んで、女子はこっちね~!」
競泳選手のような、黒い水着にピンクのラッシュガードを羽織った波多野先生が、まだ準備を終えてない生徒を急かしていく。
「ぴょん~っ!暑いよ~!バケツに水入れて見学してもいい?」
「気持ちはわかるけど、早くベンチに移動しな!屋根があるし、日陰にはなってるんだから……」
星華は波多野先生にしがみついて訴えたが、波多野先生は容赦なく、見学者席に行くよう促した。
「ケチ~~ぃ!……亜梨明ちゃん、行こう」
「うん……」
亜梨明は、星華と共に見学者用のベンチに移動しながら、男子が待機する列に移動する爽太をチラリと見た。
「(お揃い……か。今はまだ……だけど、いつか――根治手術しても……爽ちゃんと一緒なら……)」
恐れているものがまた、爽太の言葉で消えていく――。
亜梨明は、爽太がくれた勇気に触れる気持ちで、服の上から傷跡を押さえた。
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