第45話 星華の悩み


 六月下旬――。

 空上家では、星華がカレンダーを見て、「はぁ~~っ……」と、長いため息をついていた。


「今月も来なさそうだ……」

 星華は黒いマジックペンで、今日の日付にバツ印をつけると、リビングのふかふかしたソファーにぼすっと、倒れ込んで寝転がった。


「なんで中学生になったのに来ないんだろう~……」

 もちもちのハート型ビーズクッションを抱きしめると、星華は「ふぅ……」とまたため息をついた。


 *


 翌日の昼休み。

 星華が購買で買ったパンを握ったまま、緑依風の顔を凝視する。


「…………」

「何、星華。今日はやけに静かじゃない?」

 普段は、ペチャクチャとお喋りをしながら食事をとる星華に、緑依風が聞いた。


「ねぇ……緑依風は生理っていつ来た?」

「………っ!?」

 突然の星華の質問内容に、緑依風は危うく、口に入れたご飯を吐き出しそうになった。

 いくら、今集まっているメンバーが女子だけとはいえ、公衆の面前で話したくないその話題に、質問された緑依風だけでなく、星華の両隣りにいる相楽姉妹も、動揺したように周囲をキョロキョロと見回した。


「突然何!?……ってか、声デカいし」

 緑依風は小声で星華に怒りながら、男子生徒の視線を気にした。


 中学生という多感なお年頃――。

 緑依風でなくても、そういった『性』を意識する話は、普通なら人が多い場所で話したがらないと思うが、この空上星華という少女は、どうやら違うようだ。


「ねぇ、いつ来たか教えてよ~」

「……ご、五年の秋頃かな……?なんでいきなりそんな話?」

 緑依風はなるべく他の人に聞こえないように注意しながら答えた。


「私、まだ来ないんだよね……。もう中学生なのに……」

 星華は「はぁ~……」と、深いため息を吐くと、紙パックのいちごミルクをストローで飲んだ。


「まだ一年生だし、他にも来てない子いるんじゃない?」

 緑依風は、星華が初潮の遅れを気にして、その質問を投げかけたのだと知ると、先程よりも、やや優しい声で言った。


「奏音と亜梨明ちゃんは?」

「私は六年の夏」

「私は、奏音より遅れて……六年の卒業式前くらいかな」

 星華の質問に、奏音と亜梨明はそれぞれ答えた。


「二人も来てるんだ~。はぁぁぁ~……いいなぁ~……」

「良くないよ。めんどくさいし、荷物増えるし、気持ち悪いし」

 緑依風がお茶を飲みながら言った。


「私も未だに慣れないな……。生理中は、下着とかナプキンの違和感で落ち着かないよね」

 奏音が言うと、亜梨明もうんうんと、頷いた。


 *


 放課後。

 科学部に所属している星華は、緑依風だけでなく、亜梨明と奏音もすでに生理が始まっていることに、ますます焦る気持ちが増していた。


 ぼんやりしながら試験管の中の薬品を、ビーカーに移し入れていると、後ろから「わっ!」と、誰かが大きな声を上げた。


「うぉっ!?」

「やったー!驚いた驚いた!だーいーせーいこーう!!」

 そう言って、ケタケタと笑っているのは、星華の小学校時代からの一番の親友と呼べる、香山桜だった。


「びっくりしたーっ!火とか薬品使ってるんだから、危ないでしょっ!!」

「にっひっひっひ~!」

 星華に怒られても、まったく懲りていないような笑みを浮かべる桜。


 桜はサプライズが大好きな女の子だ。

 それは喜ばせるための驚きもあれば、人の肝を冷やす驚きもありで、周囲はそんな彼女に感謝することもあれば、腰を抜かして怒ることもある。


「星華の背中が隙だらけだから悪いんだよ~ん!」

 桜は、星華の三つ編みを軽く引っ張って、遊びながら言った。


 星華は、「まったくもう」と言いたげな目で後ろを見るが、互いをよく知る間柄だからこそ、このくらいのことで本気でへそを曲げたりはしない。


「ねぇ、桜ってもう生理来てたっけ?」

 星華は試験管を洗いながら、後ろでまだ三つ編みで遊び続けている桜に聞いた。


「ふっふっふ、実は一昨日デビューしちゃってね~!今ちょうど真っ最中!」

「マジで……!!」

 星華は、Vサインをして誇らしげな顔をする桜に、声を裏返して聞いた。


 ――負けた。


 星華の頭の中に、敗北の言葉がはっきりと現れる。

 初潮の時期は、その人の体格や成長速度によっても変わると、母のすみれから聞いていた星華は、自分と同じくらいの背丈の桜なら、まだ遠いのではないかと思っていた。


「こんな子供っぽい桜まで来てたとは……」

「ありゃ?星華に言われるのは心外だ!星華だって子供っぽいのに~」

「見た目はそうだけど、中身は桜より大人だと思うよ」

「いやいや~、うちら同レベルっしょ~!」

 つい先程まで同士だと思っていた桜が、急にライバルのように見えてくる星華。


 星華が悔しさに黙り込むと、さすがに桜も、ふざけるのはやめた方がよさそうだと判断したのか、そっと一緒に実験をするグループの元へ戻っていった。


 *


「ただいま~……あら、どうしたの星華?」

 仕事を終えて帰宅したすみれは、大好きなアイドルのビデオを、虚ろな目をして観ている娘が気がかりになり、元気が無い理由を聞いた。


「ママ、あのね――」

 星華は、今日の学校での出来事や、友人達の中で、自分だけ遅れている不安を母に吐露した。


 すみれは、星華が初潮の遅れを気にしている話を何度も聞いていたが、その悩みに対して「だから前も言ったでしょ」なんてことは言わなかった。


 多忙な日々で、数少ないコミュニケーションを取れる時間は、同じ話題でもその度に真剣に聞くと決めている――それが、すみれと星華が、仲の良い親子であり続けることができる秘訣だ。


「――焦る気持ちも、悔しい気持ちもわかるよ?ママだって、仲の良いお友達が来たって話を聞いた時、早く自分も来ないかなって、ずっと思っていたもの」

「でもさ、勝ち負けじゃないってわかってんのに、こう思う私って、やっぱガキじゃん?って思ってさ――そんなこと思うから、なかなか来ないのかなーって思うしさ……ダサいよね~私」

 星華はクッションを抱きしめると、そのまますみれの膝に頭を預けるように寝転がった。


「勝ち負けって、思っちゃダメじゃないんだから、思ったっていいじゃない。みんな口には出さないだけで、意外と思ってると思うし。来た人、来てない人を笑ったり、からかったりすることさえしなければいいって、ママは思うな。だから、来てないことを悔しがってもいいんだよ」

 すみれは、愛娘の前髪をかき分けながら、ゆっくりとした口調で話した。


「うん……ありがと、ママ」

 母娘二人きりの広いリビングに、穏やかな時間が流れた――。


「ふむ……星華のおでこは、パパ似ね。この生え際がそっくり!」

「え……薄毛までパパに似たらどうしよう」

 起き上がった星華は、眉間の上を指でなぞりながら、将来の心配をした。


 *


 翌日。

 普段通りの元気が戻った星華は、ペチャクチャと喋りながら、昼食のパンを食べていた。


「ちょっとちょっと……チョココロネのチョコ、机に落ちたよ」

 緑依風が机の上に落ちたチョコを指差した。


「あ、ホントだ!」

「あ、星華ちゃん大変!さっきの半熟卵カレーパンの中身も、制服に垂れてる!」

「あちゃっ……!」

 落ちにくい黄色のカレーが、星華の白い制服に小さなシミを作っている。


「ちょっと水で洗ってくる!ついでに、トイレも!」

 星華がパンを置いて椅子から立ち上がると、奏音が「いってらっしゃーい」と言いながら、軽く手を振って見送った。


「星華ちゃん、今日は元気だね!」

「昨日は教室であの質問された時、ホント焦ったけどね」

 奏音は箸でプチトマトを刺すと、それを口の中に入れた。


「でもね、あれ本人かなり真剣に悩んで聞いたんだと思う」

「へぇ、なんでそう思うの?」

 緑依風の言葉に、奏音がきんぴらごぼうをご飯に乗せながら聞いた。


「星華とは、小学校六年間同じクラスだったんだけど、いつもは軽い悩みくらいなら、もっとふざけて聞いてくるからね。シリアスな空気が苦手なのか、心配かけたくないのかはわからないけど、ああいう風にしおらしい顔で聞いてくるのは、滅多になかったよ」

「そうなんだ……」

 亜梨明は、星華が出ていったドアにくるっと振り向きながら言った。


「……でもまっ、時間と場所はもう少し考えて欲しいよね。そこが星華らしいっていったら星華らしいんだけど――?」

 突然、一年一組のドアがバンっ!と、大きな音を立てて開かれた。


 その音に、緑依風や亜梨明、奏音だけでなく、風麻や爽太、他のクラスメイト達も、開け放たれたドアと、その扉の向こうにいる人物に注目する。


「せ、星華ちゃん?」

 俯いたままドアを開けた星華が顔を上げると、彼女は笑いを堪え、興奮したような表情をしていた。


「…………」

 星華はドアを閉めることなく、無言のまま緑依風の前へとやってくる。


「~~~~っ!!」

 そして、キラキラと目を星のように輝かせ、全身をブルブルと身震いさせた。

 その様子に、亜梨明と奏音は頭の上に疑問符を浮かべ、緑依風には、嫌な予感が走った。


「聞いて聞いてっ、緑依風っ!!あのね私、せっ――!」

 予感が的中した緑依風は、星華の口をバッと片手で塞いだ。


「――はい、よかったね。これあげるから、もう一回トイレ行っておいで。黙ったままでね?」

 緑依風があえてにっこりとした笑顔で、何かが包まれたハンカチを渡すと、星華はコクコクと頷き、嬉しそうにトイレにダッシュした。


 廊下からは、「ついに来た~~っ!」と、星華の歓喜の叫びが聞こえてくる。


「あのバカ……大声で報告することじゃないのに!」

 奏音が顔を引きつらせながら、星華の声の方角を見た。


「緑依風ちゃん、よく気付いたね……」

 亜梨明は、焦りで速くなってしまった鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てて、星華の発言を寸前のところで阻止した緑依風に言った。


「なんとなくね……来たら絶対、はしゃぐと思ってたから」

 星華と長い付き合いの緑依風だからこそ、察して止めることができたが、それでも毎度毎度お騒がせな言動をする星華に、緑依風は軽く頭を押さえるのであった。


 *


「いや~よかったよかった!私もこれで、大人の仲間入りってわけだ!」

 トイレから戻ってきた星華は、食べかけのパンを手に取り、安心したように言った。


「よかったのかな?」

「なんで?」

 緑依風が首を傾げるので、星華は疑問に思った。


「だって、明後日の体育プールじゃん。星華ずっと楽しみにしてたのに」

「あ~っ!?」

 そうなのだ。

 生理が来たということは、プール授業は見学になる。


 一応入るためのアイテムは無くはないが、さすがの星華でも、いきなり使う勇気は無い。


「だから、いいことばかりじゃないって言ったのに」

 緑依風は頬杖をついて言った。


「あ、明日には終わらない……かな?」

「無理だね。人によるけど大体、一週間くらいは続くし」

 奏音の返答に、星華は「マジか……」と、がっくり首を落とした。

 

「星華ちゃん、私もプール見学だから一人じゃないよ!」

「も〜!早く終わってー!!」


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