第4章 雨の日のセンチメンタル
第33話 時計草
――チク、タク、チク、タク。
時計の針が進む音が、亜梨明の耳に流れてくる。
病室の外では、「退院おめでとうございます」と、いう声が聞こえた。
亜梨明がベッドから降りて、病室の扉を開けると、先週入院してきたばかりの子供が、パジャマ姿ではなく、普段着の姿となって、元気に両親と廊下を歩く光景が見えた。
「また、置いてかれちゃった……」
亜梨明は、掠れた声でそう呟きながら、自分のベッドに戻っていった。
ベッドの隅に隠すように置いてある時計が、時の流れを知らせてくる。
――チク、タク、チク、タク。
針は音を立てて、時間が止まらないことを亜梨明に突き付ける……。
*
野外活動から帰宅した日の夕方、亜梨明の体は、不慣れな外泊に悲鳴を上げたように発熱した。
幸い、翌日の朝には平熱に戻ったものの、疲労感が抜けきらなかったため、学校を休むことにした。
「無理はしないって約束したけど……」
亜梨明は、前日までの夢のような楽しさが忘れられず、今すぐにでも部屋を飛び出して、爽太や緑依風達に会いたいと思っていた。
前科があるため、もうそんなことはしないと決めているが、中間テストが間近に控えていることもあって、勉学の遅れも気になり、眠っても何度も目が覚めてしまう。
「爽ちゃん、会いに来てくれないかなぁ~……」
爽太に会いたい気持ちを声に出してみる。
外は雨が降っており、今日は気温もやや低い。
亜梨明は窓の外を眺めて、そろそろ双子の妹が帰ってこないかと期待していた。
――すると、ちょうどタイミングよく、セーラー服姿の奏音がチラリと見えた。
「あ、あれ?奏音と――?」
亜梨明はもう一人の人影に、思わず窓に張り付いた。
奏音の後ろには、亜梨明が一番会いたくてたまらなかった人物がいる。
「――そ、爽ちゃんっ!?」
*
「散らかってるかもだけど、入って入って!」
奏音は、雨傘を閉じながら、爽太に家の中へ入るよう促した。
「お邪魔します」
爽太は傘を丁寧に閉じて、傘立てを借りると、ハンドタオルで鞄を拭いて、家の中を水滴で濡らさないように気を付けた。
「あら、お友達?」
リビングにいた相楽姉妹の母親、明日香は、奏音以外の声を聞いて、玄関までやってきた。
「うん、友達の日下だよ。亜梨明のお見舞いに来てくれたの。ほら、この子前に亜梨明を――」
奏音が爽太を紹介していると、ドタタタッ!と、二階から慌てて部屋を飛び出す音が聞こえ、三人は上を見上げた。
「あ、亜梨明」
「あ……」
爽太と目が合った亜梨明は、サッと壁に隠れた。
「亜梨明、今日は大人しくしてなさいって言ったでしょ……。隠れても、もうわかってるわよ」
明日香は娘の身を案じて、やんわりと注意した。
「だ、だって――」
壁からそっと顔を出した亜梨明は、母親と爽太を交互に見た。
会いたいと願っていた爽太が、家まで来てくれたなんてわかってしまったら、体の不調なんて知ったこっちゃない。
もっと近くに行きたい、話をしたいと、亜梨明の気持ちは膨らむばかりだ。
「ごめんね日下くん。私、これから車で、奏音をバイオリン教室に送らなきゃいけないの。だから、何もおもてなしができなくて――」
明日香が爽太に説明していると、「それなんだけどね」と、奏音が会話に割って入った。
「私がレッスン受けてる間、日下が亜梨明に勉強教えてくれるってさ!日下、頭良いんだよ~!」
「でも……」
奏音から話を聞いた明日香は、申し訳なさそうに戸惑っていたが、爽太は「僕で教えられる所なら教えるって、約束もしたので」と言って、亜梨明のいる方角を見上げた。
「――ねっ?」
「う、うん……!」
「そう……。それなら、飲み物だけでも用意するわね。あの子勉強苦手だから、教えてくれると嬉しいわ」
明日香は、奏音に着替えとレッスンの準備をするように伝えると、飲み物の準備を始めた。
二階に先に上ってきた奏音は、亜梨明の肩をポンと叩きながら、「寝ぐせ」と言って、ボサボサ頭を整えるように言った。
亜梨明は、ハッとそれに気付くと、手でササっと髪を整えた。
*
奏音と明日香が出掛けると、亜梨明は自分の部屋で、爽太と二人きりになった。
だんだん我に返ってくると、倦怠感も戻ってきてしまい、爽太と会話しようにも、何も浮かんでこなかった。
「――お見舞い、迷惑だったかな?」
「あ、ううん!来てくれて嬉しいよ!」
「勉強は無理にしなくていいよ。顔色悪いし、寝転がってていいから……」
爽太は、亜梨明の不調にしっかり気付いていたようで、横になって休むように促した。
「じゃあ、寝たまま話しちゃうけど……でも、本当に迷惑じゃないからね!来て欲しいなって、思ってたから!」
「うん、相楽さんもそう言ってて――だから、行ったら亜梨明喜んでくれるかなって、思って来ちゃった」
爽太が笑うと、亜梨明も自然に笑みが零れる。
まるで、鏡のようだ。
「爽ちゃんは、前も来て欲しいって思ったときに来てくれたよね」
「あぁ、風麻とお見舞いに行った次の日のこと?」
「うん!すごく、すごく嬉しかったんだ……」
*
――それは、約ひと月前のことだ。
「次にみんなに会えるのは、学校でだね……」
亜梨明がそう言って、寂しげに瞳を揺らした翌日、爽太は部活を終えてから、一人で見舞いに訪れたのだ。
面会時間は残り僅かで、爽太自身も部活で疲れていたのだが、亜梨明の寂しい気持ちを放っておけなかった――笑顔が見たかったのだ。
亜梨明は、爽太が予定も無しに来たため、とても驚いていたが、それと同じくらい喜んでいた。
爽太は、亜梨明が自分を求めてくれたことが嬉しくて、今回も、奏音に誘われて、見舞いに行くと決めたのだった。
*
爽太と会話をしているうちに、元気が戻ってきた亜梨明は、上体を起こし、勉強を教わっていた。
爽太の教え方は相変わらずとても丁寧で、学校で習った時は全くわからなかった箇所も、爽太に教われば不思議と理解ができた。
爽太は、「同じ所を、もう一度読んだからわかるんだよ」と、謙遜したが、それだけじゃないと、亜梨明は思っていた。
「今、何時かな?」
亜梨明が、爽太のノートを書き写していると、爽太は部屋の中を、キョロキョロと見回した。
「あ、ごめんなさい……時計、この部屋にないの」
亜梨明は、枕元に置いてある携帯電話を見て、「五時四十五分だよ」と、爽太に教えた。
爽太は、この部屋に時計がないことを聞いて、何かに引っかかったような気持ちになった。
亜梨明は以前、爽太が一人で見舞いに訪れて時間を聞いた時も、時計を視界に入る場所に置いていなかった。
そして、病室ではない、亜梨明の自室では、時計そのものが置いていない――。
昨今は、携帯電話を時計代わりにする人も多いし、自分の部屋に時計を置いていない人間だって、いないわけではない。
しかし、病院での亜梨明は、小物を置くスペースがあったにもかかわらず、わざわざベッドの隙間に、それを隠していたのだ。
「――亜梨明ってさ、時計持ってるのに、なんで部屋には置いてないの?」
「…………」
質問された亜梨明は、ペンを握っていた手を止めて、下を向いた。
「――笑わないで、聞いてくれる?」
亜梨明は質問に答える前に、静かな声で爽太に聞き返した。
爽太が「うん……」と返事をすると、亜梨明はペンを置き、ベッドから出て、爽太の座っている方向に体を向けた。
「私、時計が嫌いなの……」
「嫌い?」
「うん、嫌いだし、怖い――」
亜梨明は目を閉じると、その理由を爽太に語り始めた。
*
亜梨明が今より幼い頃。
大部屋で入院していた時の記憶が、彼女の頭の中に蘇った。
病院で入院生活をする際、入院患者は希望によって、部屋の種類を選ぶことができる。
一人部屋、二人部屋、そして、四人~六人程が寝泊まりできる、大部屋。
入院費は一人部屋に比べると、大部屋はとても安くなっており、長期入院になることが多い亜梨明は、経済的な理由もあって、大部屋に入院することが多かった。
症状が重い時などは、一人部屋に移動し、静かな部屋で養生することもあったが、それ以外は大部屋で、同じ年頃の子供達と生活を共にしていた。
元気な時は、同室の子供達とままごとや、絵本を読んで仲良く遊び、不味い薬も、痛い点滴の注射も、みな同じように泣いたり嫌がったりして過ごしたのだ。
同室の子供達は、様々な理由で入院していた。
大怪我をして入院する子供。
亜梨明と同じように、生まれつきの病気で入院する子供。
しかし、殆どの子供は、亜梨明よりも軽症だったため、後から入院しても、亜梨明より先に退院していくばかりだった。
亜梨明はそんな子供達を、いつも羨ましい気持ちで見ていた。
「亜梨明ちゃんきいて!わたし、あしたおうちにかえるんだよ!」
同室の子供が、亜梨明に退院することを告げた。
つい先日友達になったばかりなのに、またお別れが来てしまったと、亜梨明は思った。
亜梨明が悔しくて、それを顔に出すと、明日香は「よかったねって、喜んであげよう?」と、亜梨明に言った。
「おめでとう、よかったね……」
言葉ではそう言っても、本心は全く違う。
――どうして?わたしはまたおいていかれちゃうの?わたしだけ、なんでここにずっといるの?
母親の明日香に尋ねてみたが、明日香は「元気になるためだから、我慢しようね」と言って、涙を流す亜梨明を優しく抱きしめた。
その思いは、年々強くなっていった。
周りの子供達は、元気な姿で成長して、未来に向かって歩いていく。
時間も同じだ。
止まることはなく、過去に戻らず、未来に進むのみ。
だが、自分は――?
制限された体、狭い空間で過ごす日々、そして――不安定な命。
そう思うと、自分だけ周りに置いて行かれ、立ち止まったままのようだ。
亜梨明にとっての時計は、それを際立たせる物でしかなかった――。
*
「――それでね、みんなと一緒にいると、楽しいけど……でも、お別れがいつも辛かったし、そういう風に考えるようになったら、お父さんもお母さんも、お金がかかるのに、一人の部屋にしてくれたんだ。我儘だなって自分でも思うけど……置いてけぼりばかりで、病気に勝つ気持ちなんて、余計になれなかった……。体調が悪い時に時計を見ると、ますますそう思っちゃう。もちろん、時間がわからないのも困るから、携帯があまり使えない病院とか、学校では見てるけど、でも……あまり見たくなくて……」
爽太は、亜梨明の話を、一言も発さずに聞いている。
真剣で――痛そうな表情をしていた。
亜梨明は、そんな爽太の表情を和らげたくて、「別に、本当に置いていかれてるわけじゃないのに……!」と、茶化すように笑った。
「私が、苦しくなるくらいならじっとしてよう、自分は他の子と違うからしょうがないんだって、何にもしないだけなんだけどね!」
「…………」
爽太は、亜梨明が話を終えても、硬い表情を崩さなかった。
「あ、あの……笑わないでとは言ったけど……そんな顔しないで。爽ちゃんの気持ちを暗くしたくて言ったんじゃ……?」
「…………」
亜梨明が話したことを後悔していると、爽太は無言のまま、亜梨明が膝に置いていた手を強く握った。
それは、亜梨明のか細い手には、少し痛いくらいに――でも、爽太の手から伝わる体温が、温かくて心地よくも感じたため、亜梨明は手を引っ込めようなんて、思わなかった。
「亜梨明だって、無理に笑わなくていい」
「…………」
爽太の声はいつもよりも低く、怒っている様にも聞こえたが、亜梨明を見つめるその瞳は、やはり優しかった。
「僕が、亜梨明を引っ張っていくよ」
「――え?」
亜梨明は、言葉の意味がわからなかったが、爽太は亜梨明のもう片方の手も握って、少しだけその手を自分に引き寄せた。
「置いて行かれるのが心配なら、僕は引っ張って連れていくから。いつか、亜梨明が元気になって、「しょうがない」なんて思わなくなるまで」
「爽ちゃん……」
「だから、治すことに――治るって強く思って。その日が来るまで……僕は、亜梨明を助けるから」
「うん……!」
爽太の言葉や手の温度が、亜梨明の手足に蔓のように絡まっていた不安を取り除いていく。
亜梨明は、嬉しさで涙がにじむ目を、パジャマの袖で軽く拭いた。
*
――その頃、奏音と明日香は、車の中で爽太の話をしていた。
「あの子が……亜梨明と同じ病気だった子なのね?」
「うん、根治手術乗り越えたんだって!」
それを聞いた明日香は、赤く点灯する信号を睨みながら、ハンドルを握る手に力を込めた。
「帰ったら、日下くんにお話聞けないかしら?闘病中のこととか……術後の話も」
「知りたい気持ちはわかるけどさ、それって、かなりデリケートな話だよ?いきなり聞くのは失礼じゃない?」
「…………」
明日香は残念に思いながら、信号が青に変わるのを待っていた。
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