第32話 ベランダ


 午前一時。

 喉が渇いた風麻は、給湯室でお茶を飲み、宿泊部屋に戻ろうとしていた。


 いつもなら、たくさん動いて、たくさん食べて、たくさん寝るのが自分だったのに、枕が違うせいなのか、それとも胸に悔しい気持ちがあるからか、うまく寝付けない。


 結局、亜梨明とは、学校にいる時と同じ程度しか会話していない。


 会話できないだけならまだしも、かっこつけようとして、無様な姿を見せてしまった。


 ――爽太みたいに、自然に話せたらいいのに……


 そう思う場面が、今日は何度あっただろうと、風麻が考えながら窓を見上げると、「風麻?」と、緑依風の声が聞こえた。


「緑依風?どうしたんだよ。こんな時間にさ」

「トイレに行ってきた。風麻も?」

「俺はお茶飲んできたとこ」

「そう……」

「…………」

 一瞬の沈黙の後、「少し、ベランダに出てみない?」と誘ったのは緑依風だった。


 *


 談話スペースの大きな出窓を、大きな音を立てぬように気を付けながら、二人でそっと開く――。


 ベランダに出てみると、昼間の日差しの暑さから打って変わって、山の中の夜は少し寒い。

 しかし、街灯が無いせいで、星が夏城の夜空よりたくさん見える。


 まるで、漆黒の布地に、宝石を散りばめたかのよう――。


 そんな景色を眺めることができるのは、ここに来ないとできなかったであろう、とても貴重な体験だ。


 緑依風はそれに気付いて、誘いだしたのだろうか。


 普段、真面目な優等生の緑依風なら、先生に怒られるからと、宿泊研修中に、必要以上に部屋の外を出歩いたりはしないはずだ。


 風麻が、隣にいる幼馴染に視線をやると、寝癖が気になるのか、緑依風はソワソワした様子で、毛先を手櫛で引っ張りながら、真っ直ぐにしようとしている。


「どうした?眠れないのか?」

「う、うん……少し目が覚めちゃったかな」

「そうか……」

「あ、そうだ!昼間落ちて、怪我してない?手とかお尻!」

 忘れたかった出来事に触れられた風麻は、「言うなよ……」と、そっぽを向いた。


「心配してんじゃない……アザ作っちゃったんじゃとか、痛かっただろうな~って」

 緑依風は昔からそうだった。

 転んだりして怪我をすれば、親以上に心配し、世話を焼く。


 風麻自身は、みっともなくて恥ずかしいので、そっとしておいて欲しいのだが、これが彼女の常だった。


「いちいち心配しなくていい……ガキじゃねぇんだ」

「ガキでしょ。あんたも私も……」

「ったく、相変わらずうるせーな、お前……」

「…………」

 風麻がおせっかいだという態度で返せば、緑依風は俯いて、短いため息をついた。


「アザなんて、すぐ治る。大丈夫だ。ありがとな……」

「うん………」

 風麻が礼を言うと、緑依風は顔を上げて、少し嬉しそうに微笑んだ。


 緑依風の機嫌が直って安心した風麻は、ぐーんと腕を伸ばして、それを頭の後ろで組むと、夜空を見上げた。


 綺麗に輝くのは星だけじゃない。月も黄金色の優しい光を放っている。

 もっと見ていたい。

 けれども、宿泊研修は明日で終わりなのだ。


「一泊二日って、短いよなぁ~」

 残念だと思う声が、無意識に風麻の口から零れ出た。


「そうだね、でも――今日、亜梨明ちゃんが元気に過ごせて、すごく安心した!」

「…………!」

 苦い出来事の話題が終わった矢先に、今度は亜梨明の名前が出てきたため、風麻の胸の奥は、緊張で跳ね上がった。


「相楽姉……もう寝たよな?」

「うん、みんな寝てるよ。部屋に帰ってからも、枕投げしたいっていうから、枕投げしたんだけど、やっぱり疲れたんだろうね~……電気消したらすぐに寝ちゃったよ」

 緑依風はその光景を、楽しそうに思い出しながら語った。


「そりゃあ、俺らだって、普段こんなに動かないもんな。でも、体調悪くなったりしなくてよかった。緑依風も、班長お疲れさん……」

「うん!……っていっても、明日もまだあるんだけどね」

 緑依風はクスッと笑って、また夜空を眺めた。


「さて、俺らもそろそろ部屋に戻っ――?」

「――――!」

 二人の目に、きらめく光の筋が映った――流れ星だ。


「あっ、願い事っ!」

「俺もっ!」

 とっさに二人で、手を合わせて無言になる。


 風麻と緑依風に、数秒間の静寂が生まれた。


 願い事を終えて、先に目を開けたのは風麻だった。

 緑依風は、手を組み合わせて、とても真剣に祈っている――。


「(横顔……なんて、いつも見てるはずなのに……)」

 目を閉じて、祈りを捧げ続ける緑依風のその表情に、風麻は何故か寂しくなった。


 彼女のことなら何でも知ってると思っていたのに、今の緑依風の横顔は、まるで自分の知らない顔だ。


 耐えられなくなった風麻は、「いつまで祈ってんだよ」と、彼女の背中を軽く叩いて、中断させた。


「そんなに大事な願い事でもあんのかよ?」

「……どうだっていいでしょ」

 願い事を中断されたせいか、緑依風は拗ねたような口調で言った。


「風麻だって、何祈ってたのよ」

「どうだっていいだろー」

「どうせ風麻のことだから、ケーキたくさん食べたいとかでしょ!」

「ほっとけよ……」


 *


 二人はベランダから室内に戻ると、足音を立てぬように気を付けて、静かに歩いた。


「じゃあ、俺こっちだから」

「うん、おやすみ……また、明日」

 緑依風が風麻に背中を向けて歩きだそうとした時、風麻は「あのさ……」と、緑依風を呼び止めた。


「なに……?」

「お、俺……班長でもなんでもないけどさ、相談には乗れる……だろ?だから……」

「ん?」

 緑依風は不思議そうな顔をして、小首を傾げた。


「野外活動中……いや、終わった後も、相楽姉のこととか……他にも、困ったことあったら、いつでも相談してくれ!」


 緑依風は少しびっくりしたように、キョトンとしていたが、ふっ……と、鼻から息を漏らして笑った。


「うん、わかった!頼らせてもらうね!」

 緑依風は「おやすみ」と、手を振ると、再び部屋に向かって歩き出した。


「んな、嬉しそうに言うなよ……」

 風麻は、掠れる声で独り言を呟くと、自分も部屋に戻っていった。


 *


 風麻は、ベッドに寝転がった後も、なかなか寝付けずにいた。


 ――これって、あいつを利用するってことになるのかな……。


 亜梨明と距離を縮めるために、親友の緑依風に「頼れ」と言ったことに、風麻は罪悪感を感じていた。


「(――今の俺には、他に何にも浮かばない。直接、相楽姉の力になるなんて無理だ……。でも、間接的にでもいい……俺だって、あいつの役に立ちたい。そんで、いつかはちゃんと……自分から話しかけて、手助けして……相楽姉に、俺を見てもらいたいんだ……)」

 風麻は、流れ星に捧げた願いを握り締めるように、掛布団をギュっと掴んだ。


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