第27話 紛失


 昼食を食べ終えた緑依風は、昨日買ったブラジャーを手洗いしようと思い、ビニールの袋を開けた。

 

「あれ?」

 袋を開けると、パステルグリーンのブラだけ無い。


「私、昨日見てから、袋に戻さなかったっけ?」

 ベッドの中を見ても、部屋中探しても見つからない……。


「お母さん、私の昨日のブラジャー知らない?」

 緑依風は、母親の葉子に尋ねた。


「知らないよ。部屋は?」

「無いの」

「緑依風が物を無くすなんて、珍しいわね」

「おかしいな〜……」

「(――たいへんだ!)」

 少し離れたところで、緑依風と葉子のやり取りを聞いていた優菜は、慌てて自分の部屋に戻った。


「(――もとのばしょにもどすの、わすれてた……!!)」

 優菜が急いで鞄を開けると、そこにあるはずのブラジャーが無い……。


「な、なくしちゃった……?」

 優菜は「どこかでおとしちゃった……?でも、どこでだろう??」と、記憶を辿るが、床に置いた記憶だけは、さっぱり消えていた。


「お、おこられちゃう……!」

 優菜は、緑依風にきつく叱られたことは無いが、千草を叱る時の、緑依風の怖さをよく知っていた。


「おねえちゃん、おこったらこわいのに……どうしよう……!」

 恐怖で震える優菜。

 バレないうちに探さなければと、優菜は鞄をひっくり返して、必死にブラジャーを探し始めた。


 *


 それから少し経った頃、部活を終えた風麻が、家に帰宅した。


「?」

 風麻が部屋に入ると、足に何かが引っかかった。


「ん、なんだこりゃ……?ハンカチ?」

 風麻が、クシャッと丸まっていたそれを持ち上げてみると、それはハンカチなどではなく、ブラジャー。


 坂下家では、母親の伊織以外、着けることのない下着だ。


「母さんのか……?こんなの干してんの、見たことねぇぞ??」

 風麻は最初、母親が、新しいブラジャーでも買ったのかと思った。


 しかし、よくよく見てみると、普段母が干しているブラジャーよりも、胸に当てる部分が大きく見える。


「Dカップ~?俺の母さん、こんなにねぇぞ?」

 タグを見た風麻は、眉を八の字にして言った。

 母親は言っちゃ悪いが、こんなに大きな物は着けない。土台を持ってない。


 風麻は、自分の母親に対して、そんな失礼なことを思いながら、しばらくそれをまじまじと見つめていた。


「母さんじゃないとしたら――だ……だれの???」

 風麻は顔の前で、持ち主不明のブラジャーをぶら下げながら、間抜けな表情で困惑していた。


 *


 あらゆる所を探し尽くした優菜は、昼食前のテンションから一転して、どんよりと曇った表情で、落ち込んでいた。


「優菜、どうしたの?」

「――――!!」

 心配した緑依風に声をかけられた途端、優菜の心臓が恐怖でドクンと、大きく鳴った。


「なんでもないっ!!」

 優菜はそう言って、膝に顔を埋めた。


 明らかに様子がおかしいので、緑依風はお菓子を手に持ち、「お姉ちゃんとおやつ食べない?」と、優菜を誘ってみた。


「たべたくないっ……」

 優菜は小さく首を横に振りながら、か細い声で、大好きな姉の誘いを断った。


 *


 ――再び、坂下家にスポットが戻る。


「とりあえず、母さんに聞いてみるか」

 風麻が、パステルグリーンのブラジャーを手に持ちながら、ドアを開けると、末っ子の冬麻が、風麻の部屋の前を横切ろうとしていた。


「あ、それ――っ!」

 ブラを目にした冬麻は、何かを言いかけた途端、サッと口を塞いだ。


「冬麻、これ誰のか知ってる?母さんのじゃないと思うんだけど……」

「ないしょなの!」

 冬麻は、手で口を塞いだままそう言った。


「内緒?あ、お前、また俺の部屋に勝手に入ったな?」

 塞いだ手を剥がしながら、風麻が聞いた。


「ごめんなさい……。でも、おにいちゃんのものは、なにもさわってないよ」

「ならいいや。それで、これは誰のかな?」

 風麻は小さな弟のために、少し背を丸めながら、もう一度聞いた。


「ないしょなの……」

 冬麻は再び聞かれても、持ち主を答えなかった。


「誰との内緒?」

「……ゆうなちゃんと」

「そうか、優菜との内緒か……」

 風麻は、内緒の内容は守っても、その相手を答えてしまう弟の純粋さを、少し心配しながら、フッと鼻から息を漏らすように笑った。


 ――が、その心配は一転して、動揺に変わった。


「ん?……優菜との、ナイショ……??」

 冬麻の内緒の相手が優菜だとすると、これは松山家の物の可能性がある。


 更にそこから推測して、この可愛らしく、若い女の子が好きそうなデザインと、カップの大きさから行き着いた人物は……。


「こっ、これっ……!もしかして、緑依風の――!?」

「ダメなのーーーっ!!」

 冬麻の反応で、風麻は予感が確信に変わった。


 そして、絶望した――。


「おっ、おれっ……!あ、あいつの……ブラジャーを……っ!!」

 持ち主を考えるために、あちこち触り、サイズまで見てしまった風麻は、耳まで顔を真っ赤にした。


 口をあわあわとさせる弟の前で、膝をがっくりと床についた風麻は、「なぁ、冬麻……」と、力の無い声で言った。


「怒らないし、優菜に冬麻が言ったって言わないから……。兄ちゃんに、何故、緑依風の下着が兄ちゃんの部屋にあったのか、教えてくれるか……?ついでにこれを、母さん達には秘密にしてくれるか……?」

 風麻は、プルプルと体を震わせながら、情けない声で聞いた。


「ゆうなちゃんにいわない?やくそく?」

「やくそく……だ」


 *


 ――事の経緯を知った風麻は、次の問題に差し掛かった。

 どうやってこれを、緑依風の手元に返すかだ。


 すると、ピンポーン!と、チャイムが鳴った。


 風麻が慌ててドアを開けると、緑依風が暗い表情でドアの前に立っていた。


「冬麻いる?優菜が帰ってきてから、元気無くて……」

 どうやら緑依風は、まだ真実を知らないようだ。


「……なぁ、誰も怒らないって、最初に約束してくれないか?」

 斜め下を見ながら風麻が言うと、「やっぱり何かあったの?」と、緑依風が更に心配そうな顔をした。


 緑依風を部屋に招き入れると、風麻は黙ったまま、菩薩のような顔をして、畳まれたブラジャーを緑依風の前に差し出した。


「え……?」

 緑依風は、見覚えのあるそのブラジャーを手に取り、それを広げた。


 ――そして、それが自分の物であると確認した途端、彼女の肌は、一気に赤く染まっていった。


「ええっーーーー!!!?なっ、なんで……⁉なんでええぇぇぇぇーーーー!?」

 緑依風の叫ぶような悲鳴が、風麻の部屋の壁を突き抜け、坂下家にキーンと響き渡った。


「まぁ、そうなるよなっ!!とりあえず落ち着けっ!俺も最初気付いた時、同じ様な気持ちだったけどなっ!!」

 風麻は、パニック状態で、涙目になりながら震える幼馴染を、落ち着かせようとした。


 *


 ――落ち着きを取り戻した緑依風は、風麻から何故、自分のブラジャーが風麻の手元にあったのか、詳しく説明された。


 緑依風に憧れた優菜が、勝手にこれを持ち出したこと。

 それを冬麻と一緒に見た場所が、風麻の部屋だったこと。

 そして、優菜がそれを風麻の部屋に、置き忘れて帰ったことを――。


「――そっか、それで元気がなかったのか……」

「優菜も悪いことしたって、反省してるんだろ。怒りたいとは思うけど、お前が好きでやっちゃったみたいだし、程々にしてやってくれ」

「うん……。ごめんね風麻、迷惑かけちゃって……」

「いや……いいってことよ……」

 互いに恥ずかしくて目が合わせられない。


 *


「……っく、うっ……うぇぇっ……」

 松山家では、優菜が自分のベッドに潜り込んで泣いていた。


 優菜は、あれから探しても見つからないことを、きっと、勝手に持ち出したことを怒った神様が、自分をお仕置きをするために消しちゃったんだと、思い込んでいた。


「(――もうしません、もう、にどとしないからっ!!)」

 布団を被ってからの優菜は、何度も神様にそう誓っていた。


 すると、緑依風が「ゆうなー!」と、名前を呼びながら、優菜の掛布団を捲り上げた。


「うっ、うわあぁぁ~ん!!わぁぁぁぁん……!!」

 ついに見つかってしまったと思った優菜は、怒られる恐怖で涙がボロボロ溢れ、大きな声を出して泣き始めた。


「あらら……」

 優菜が、とても反省していると理解した緑依風は、妹を優しく抱き上げた。

 

「泣かないで〜、泣かない泣かない。お姉さんは、そんなにたくさん泣かないのよ〜」

「おっ、おねえちゃぁぁん!ごめんなさいっ!!ごめんなさぁぁぁい!!」

 優菜は、ゲホゲホとむせ返りながら、緑依風にしがみついた。


「お探しのものはこれかな〜?」

 緑依風がブラジャーを優菜に見せた。


「っく、……っっく、うんっ……!」

 優菜は、顔を擦りながら頷いた。


「もうお姉ちゃんの物は、お外に持って行っちゃだめだよ」

「……うん。っふ……えぇぇぇっ、ふえぇぇっ~~っ!」

 失くしたものが、無事に戻って来て安心した優菜は、また泣き出してしまった。


「泣かない泣かない……。大丈夫、お姉ちゃん怒ってないからね……」

 緑依風は、優菜の背中を優しく撫でながら、妹の涙が止まるまで抱っこを続けた。


 *


 大人に憧れる小さな妹が泣き止んだ後、緑依風は自分の部屋に優菜を連れて行った。


「いい、優菜?これは人にあまり見せちゃいけない、特別なアイテムだからね!」

 優菜と向かい合わせで座った緑依風は、人差し指を立てながら言った。


「はい……」

「特に、男の子には内緒の内緒なのよ」

「はい」

「それができたら、優菜はまた少し、大人になれるよ」

「ほんと!?」

 “大人なれる”というワードに、優菜は目を輝かせて、緑依風に聞いた。


「うん!だから、このお話は、お姉ちゃんと優菜の秘密ね!」

「はい!」

 優菜が元気よく返事をすると、「よし!」と緑依風は優菜の頭を撫でた。


「これ、どうやってきえちゃったんだろう?おねえちゃんどうやってみつけたの?」

「あー……魔法使いが届けてくれたよ」

 緑依風はそう言いながら、窓の外に視線を逸らした。


「そっか!まほうつかいがまほうでけして、まただしたんだね!」

「うん……そうだね」

 緑依風はハハッ……と、小さく笑いながら、心の中では、「恥ずかしすぎて、私が今すぐ消えちゃいたい……っ!」と、呟いていた。


 *


 坂下家では、次男の秋麻が、兄の挙動不審な様子を見て、首を捻っていた。


「なぁ、母さん。兄ちゃんさっきから、なんかモジモジしてない?」

「そうねぇ~。緑依風ちゃんが帰ってから、ずっとあんな感じなのよ」

「兄ちゃん、緑依風ちゃんと何かあった?」

 秋麻に聞かれると、風麻はビクッと、体を跳ねさせながら、「な、なななんでもねぇっ!」と言って、風呂に向かった。


「なんだろうなぁ~!ラッキースケベなことでもあったとか?」

 秋麻は、ニヤニヤと歯を見せながら、兄の反応を面白がった。


「こら!また変な言葉覚えてきて……。冬麻の前で使わないでよ」

「はーい」


 *

 

 風麻は、湯船に浸かりながら、顔を押さえていた。


「忘れてたわけじゃないけど……緑依風、女の子……なんだよな」

 風麻の独り言が、湯けむり漂う浴室の中で、小さく響いた。


 自分の『きょうだい』として、見ていた彼女を、風麻は初めて、『女の子』だと意識した。 


 女の子から、大人の女性へと成長している――。


「見た目が変わっても……俺らの関係って、変わらない……よな?」

 そう呟いた途端、急に寂しい気持ちでいっぱいになった風麻は、それを振り払いたくて、湯の中へと潜った。


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