第26話 憧れ


「おねえちゃんすごい……。おとな……!!」

 松山家の末娘、優菜は、ベッドの上に置きっぱなしにしている、緑依風のブラジャーを、感動しながら見つめていた。


 五歳になった優菜にとって、八歳年上の緑依風は、憧れの存在だ。

 しっかりしていて、料理も勉強もできて、なんでもできる自慢の姉。

 

 優菜は、尊敬する姉に近付きたくて、口調や仕草を真似てみたり、時々こっそり隠れて、緑依風の服や靴を履いてみたりと、色々試しているのだが、まだまだ小さい優菜には、当然似合わず、早く大きくなりたいと願っている。


「優菜〜、お風呂の時間だよ」

「はーい!」

 緑依風に呼ばれた優菜は、大きな声で返事をした。


 *


 優菜は脱衣所に向かうと、緑依風の隣で服を脱ごうとした。


「一人で脱げる?」

 シャツを脱ぐのに手こずっている優菜に、緑依風は優しく声をかけた。


「できるよ!だってもう、ようちえんだもん!」

「ふふっ、お姉さんだね」

「ホント⁉ゆうな、おねえさん⁉」

「うん、お姉さんだよ」

 憧れの緑依風に、「お姉さん」と言われて、一瞬喜ぶ優菜だったが、「でも……」と、急に肩を落とした優菜は、緑依風を見上げた。


「ゆうな……まだ、ちいさい……」

「お姉ちゃんだって、幼稚園の時は小さかったんだよ?」

「はやくおおきくなりたいのー!」

 優菜がもどかしそうに、足をドタドタ踏み鳴らすと、緑依風はその姿が可愛くて、クスクスと笑った。


「じゃあ、好き嫌いせずに、お野菜もお魚もたくさん食べるんだよ。ちー姉ちゃんみたいに残しちゃ、大きくなれないからね」

「わかった!」


 *


 晩御飯の時間になると、おかずに出てきた焼き魚を、一生懸命食べる優菜。

 焼き魚が乗ったお皿を、お箸でそっと遠ざける千草。


 その様子を、綺麗に小骨を避けながら食べる緑依風は、しっかり見ていた。


「千草、魚も食べなさい」

「やだよ、骨取るのめんどくさーい!」

「じゃあ、肉じゃがのニンジン!」

「いらなーい!」

 プイッと顔を横にして、千草は拒否した。


「ちーねえちゃん、すききらいはダメ!」

「あんたもいつも、嫌いな物は残してるでしょ!」

「わたしは、きょうからたべるの!」

 優菜は澄ました顔を作り、普段は苦手な焼き魚を、パクっと食べた。


「あ、喋り方までお姉ちゃんの真似しちゃって……生意気ー!」

 千草が口を尖らせながら言った。


「優菜、骨はお姉ちゃんが取ってあげようか?」

「だいじょうぶ!わたし、おねえさんだから!」

 優菜は、自信たっぷりな表情で言った。


 千草は、緑依風が「すごいね〜!」と、優菜を褒めている間に、ササっと、ニンジンを緑依風の器に避けていた。


 * 


 部屋に戻った緑依風は、今日買った下着を、もう一度眺めていた。


「改めて見ると、やっぱり買ってよかったな。可愛いし、しっかりサイズが合うやつって、お下がりより着け心地もいいし」

 緑依風が、購入した下着に愛着が湧いてきて、ご機嫌になっていると、「おねえちゃーん」と、優菜がドアの外から、呼ぶ声が聞こえた。


「どうしたの?もう寝る時間だよ」

「だって、ちーねえちゃんが、まだねないって、ゲームしてるんだもん」

 松山家での部屋割りは、父と母、千草と優菜、緑依風で分けられている。


 携帯ゲーム機の音量と、付けっ放しのライトで寝付けない優菜は、緑依風に千草を叱ってもらおうと、部屋に来たようだ。


「千草〜、九時半になったらリビングでゲームしなよ。優菜が寝れないでしょ」

 妹達の部屋に来た緑依風は、二段ベッドの上の段で、寝転がってゲームをしている千草に、注意した。


「優菜がリビングで寝れば?」

 ここ最近、反抗期真っ最中の千草は、母親も緑依風もお手上げ状態の、ワガママ女王だった。


「しょうがない……優菜、千草が寝るまで、お姉ちゃんの部屋においで」

 緑依風に手招きされると、優菜は嬉しそうに駆け寄って来た。


「おねえちゃん、きょうはこれ、つけないの?」

 優菜が、買ったばかりのブラジャーを指差して聞いた。


「一回洗ってから使おうかと思って」

「おねえちゃんも、みおちゃんも、おとなだ」

「お姉ちゃんも海生も子供だよ」

 今日はやたらと、大人にこだわる優菜が面白くて、緑依風は笑った。


「ねぇねぇ、わたしはおねえちゃんににてる?」

 ベッドに腰掛けた優菜が、そう聞いて来たので、緑依風はいいことを思いついた。


「優菜、お姉ちゃんが幼稚園の時の写真、見せてあげる」

 そう言って、緑依風は棚にしまってあった、幼稚園時代のアルバムと、小さい頃の写真をいくつか取り出した。


 夏城幼稚園の写真を開くと、幼き頃の緑依風、風麻、晶子、利久が写っている。


「これおねえちゃん!?」

「そう!」

「にてるー!」

「――うん、お姉ちゃんもびっくり!」

 緑依風自身も、目の前にいる優菜と、五歳の自分の姿を見比べて、本当にそっくりだと驚いていた。


「こっちは、ふうまくん?」

「そうだよ」

 優菜を膝の上に乗せながら、緑依風が言った。


「とうまくんとふうまくんは、にてないね?」

「そうだね。秋麻の方が、風麻に似てるかも」

 秋麻しゅうま冬麻とうまは風麻の弟達で、秋麻は千草と同い年、冬麻は優菜と同い年だ。


 秋麻は、風麻に似て、やんちゃが目立つ男の子だが、末っ子の冬麻は、大人しくて甘えん坊で、優しい子だ。


「わたし、おとなになったら、とうまくんとケッコンするんだ!」

「へぇ〜」

「それで早く、大人になりたいとか言ってるのかな?」と、緑依風は思った。


 *


 翌日。

 今日も学校はお休みだ。


 緑依風が部屋の掃除をしようと、掃除機を取りに行ってる間に、優菜はこっそり、緑依風の部屋に忍び込んだ。


「――おとなのあかし……。これをつけたら、わたしもおとな?おねえちゃんみたいになれる?」

 優菜は、袋にまだ入れっぱなしになっている、パステルグリーンのブラジャーを手に取った。


「とうまくんにみせたら、おとなっていってくれるかな?これがにあったら、ケッコンできるかも!」

 優菜は見つからないように、サッと服の中にブラジャーを隠して、緑依風の部屋を出ると、お気に入りの鞄の中に、それを入れた。


「おかあさん、とうまくんちにいってくるね〜」

「お昼ご飯には帰ってくるんだよ〜」

「はーい!」

 優菜は「おねえちゃんに、みつからないようにしなきゃ」と心に言い聞かせながら、靴を履いた。


 勝手に姉の物を持ち出せば怒られるというのは、幼い優菜にも理解はできた。


 ――ただ、まだそれを持ち出してからのことは、何も考えていない。


 この後、優菜にも緑依風にも、そして風麻にも、大きな悲劇が待っていたのだった。


 *


 場所は変わって坂下家。

 家には風麻の両親と冬麻しかいなかった。


 秋麻は、友達と遊びにいったらしい。

 風麻は部活で、先輩の試合を応援しに行っていた。


 冬麻の兄達がいないことが、この時まだ幸いだったのかもしれない。


 優菜と冬麻は、風麻の部屋に侵入していた。


「とうまくんはわたしのことすき?」

 優菜に問いかけられた坂下家の末弟、冬麻は、「すきです!」と、片手をビシっと挙げた。


「ないしょにできますか?」

「なにを?」

 風麻と違って、やや丸い目の冬麻は、キョトンとしながら小首を傾げた。


「いまからわたしたちは、おとなのアイテムをみます」

「おとなのアイテム?」

 優菜は鞄からブラジャーを取り出した。


「あ、おかあさんがつけるやつだ」

「これはおねえちゃんのです」

「へぇ〜……で、なんでこれがおとなのアイテムなの?」

 冬麻はブラジャーを触りながら、不思議そうに聞いた。


「これをつけたらおとなになって、とうまくんとケッコンできるよ!」

「そうなの!?」

 理由はよくわからないが、優菜のことが大好きな冬麻は、結婚できると聞くと、大きな声を出して喜んだ。


「しーっ!これはないしょなのっ!」

 優菜が冬麻の口を抑え、もう一つの手の指を立てて言った。


「なんで?」

「おねえちゃんにないしょでもってきたから」

「なんでないしょなの?」

「つけたいっていったら、まだはやいっていわれたから」

「これ、どうやってつけるの?」

「うえからかぶる!」

 まだ小さい優菜は、わざわざホックを外さなくても、洋服と同じように、上からかぶってつけることができた。しかし――。


「ブカブカだね」

「うーん……」

 いつも母と姉がつけているとぴったりなのに、やっぱり今回も、姉のアイテムは優菜に似合わなかった。


「これって、おっぱいがないと、つけれないんじゃないの?」

 冬麻が言うと、「おっぱいって、いつになったらおおきくなるの?」と、優菜が聞いた。


「ぼくはおとこだからわからないよ。おかあさんにきこうか」

「そうだね」

 優菜は、外したブラジャーを床に置いた。


「優菜ちゃーん、お母さんが、お昼ご飯できるから帰ってらっしゃいって、電話してきたよー!」

 下の階から坂下家の母、伊織いおりの声が聞こえた。


「はーい!」

 優菜はブラジャーを入れ忘れたまま、鞄を持って立ち上がり、冬麻と一緒に、風麻の部屋を後にした。


 *


 リビングに向かうと、冬麻は伊織に、「ねぇおかあさん、おっぱいって、いつおおきくなるの?」と聞いた。


「どうしたの?」

「おとなになりたいから、はやくおっぱいおおきくなりたいの!」

 優菜が言うと、坂下兄弟の父親、和麻かずまが、「ガッハッハ!」と、突然大きな声で笑い出した。


「順番が逆だ!おっぱいが大きくなったら大人になるんじゃなくて、大人に近付くと大きくなるんだよ!」

「そうなんだー」

 冬麻が言うと、伊織は少し困ったように笑った。


「おじさんの言うことは、ちょっと違う気がするけど、そのうち大きくなるから大丈夫よ。みんな気がついたら、いつの間にか大人になっちゃうんだから」

「あとどのくらい?」

 優菜が聞くと、「あと桜が咲くのを、十五回見れたらかな?」と、伊織は答えた。


「じゃあ、すぐだね!」

「うん、すぐに大人になれるよ!」

 

 *


 伊織の言葉を聞いた優菜は、嬉しそうにスキップしながら家に帰ると、「おねえちゃん、おねえちゃん!」と、言いながら、緑依風の元に走っていった。


「おねえちゃんきいて!わたし、あとさくらのおはなを、じゅうごかいみたら、おとなになるって!」

「へぇ〜?」

 緑依風は、その言葉の意味がわからなかったが、とりあえず返事をした。


「あ、もうお昼ご飯できてるから、おてて洗っておいで」

「うん!おかばん、おいてくる!」

 優菜が部屋に鞄を置きに行くと、緑依風は「桜の花を十五回って、なんだろう?」と、呟きながら、冷蔵庫からお茶を取り出した。


 *


「あれ?じゅうごかいって、けっこうながい?」

 鞄をフックに引っかけた優菜は、小さな両手の指を折りながら考えた。


 伊織から聞いたばかりの時は、十五回という数字は、数えるとあっという間なので、すぐに大人になれると思っていたが、桜の花が咲くのを毎年待っている時は、なかなかその時期がやってこないことを、思い出したのだ。


「はるがきて、さいて……なつがきて、あきがきて、ふゆがきて、はる……を、『じゅうごかい』か……」


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