第5話 再会


 桜並木の道を、一台の車が走っている。


 桜の花は散り際を迎えており、アスファルトの上に溜まった花びらが、車が通った後の風にふわりと舞い上がった。


 車の助手席に座る少女は、開けた窓から外の景色を眺めていた。

 散り始めたとはいえ、まだ木に残る花は多く、車窓の外は薄紅色の世界だ。


 少女が、その幻想的な風景に目が離せないでいると、「亜梨明、寒くない?」と、車を運転する母親の明日香あすかが聞いた。


「うん、風がちょうど心地いいの……」

 亜梨明と呼ばれた少女は、風に揺れる長い髪を押さえながら答えた。


「お医者さんには、明日から学校行ってもいいって言われたけど、お母さんやっぱり心配だわ。ちゃんと担任の先生から、クラスの子に話をしてもらった方が……」

「ダメ!」

 明日香の言葉に亜梨明は大きな声で反対した。


「絶対に言わない!そりゃあ、いつかはバレると思うけど……最初から知られなくてもいいじゃない……」

「でも……」

「それに、同じクラスに奏音もいるし、何かあっても大丈夫だから!」

「…………」

 亜梨明は安心させようと笑顔を作って言ったが、明日香の顔は不安そうだった。


 *


 学校に到着した二人は、職員室にいた他の教員に、波多野先生を呼び出してもらった。


「お待ちしておりました」と、部活動を中断して、ジャージ姿でやってきた波多野先生は、亜梨明の顔を見てニコリと笑った。


「どうぞ、お入りください」

 校長先生に部屋に通された亜梨明と明日香が、茶色の革張りのソファーに腰をかけると、対面に校長先生と波多野先生が座った。


「では、当初の予定通り、明日から登校ですね」

 波多野先生が二人に確認すると、「はい、ご迷惑おかけしますが……娘をよろしくお願いします」と、明日香は頭を下げた。


「元気になってよかった。明日からよろしくね」

「はい!」

 波多野先生の言葉に、亜梨明は元気に返事をした。


「これからお母さんとお話があるから、亜梨明さんはその間、学校を探検してきたらどうかな?」

 波多野先生が提案すると、亜梨明は「そうします」と笑顔で答え、校長室を出ていった。


 *


 亜梨明が校長室を出ると、明日香はとても暗い表情になった。


「とても明るくて可愛らしいお嬢さんだ。入学式も出たかったでしょうね……」

 校長先生が言った。


「えぇ……。とても悔しがっていましたが、引っ越したばかりの不慣れな環境で疲れてしまったのか、入学式の二日前から、不整脈が出てしまいまして……。お医者様に、しばらく安静するようにと言われました」

 明日香は膝の上で組み合わせている手に力を込めた。


「娘さんの病気のことは、本当に私から生徒達に話さなくて良いのですか?注意して娘さんを見るつもりではありますが、常についていることは不可能ですし、万が一のこともあります」

 波多野先生は難しい顔で明日香に確認した。


「あの子が、とても嫌がっているので……。もちろん、何かあっても先生に責任を問い詰めることはありません。妹の奏音も、同じクラスで見張ってくれると言っていますから」

「――そこまで嫌がるのは……過去に何かありましたか?」

 校長先生が聞くと、明日香は「はい」と、頷いた。


「小学生の時、病気を理由にクラスの子とトラブルがありまして……。その後、なかなか病状が安定しなかったこともあって、二年生からは病院と併設されていた学校に通わせました。私と主人……担当医の先生は、良かれと思って転校をさせましたが、結局、そこでも同じ学年の友達がいなくて、寂しい思いをさせました」

 明日香が説明すると、校長先生は「そうでしたか……」と、しんみりとした様子で言った。


「病状が少し落ち着いてきたことと、本人の希望で、普通の中学校に通わせようと思いました……。その代わり、先生方や周りの子に、大変ご迷惑をおかけしてしまいますが……」

 明日香は申し訳無さそうに俯いたまま、更に頭を深く下げた。


 波多野先生はソファーからそっと立ち上がると、「相楽さん、迷惑じゃないです。顔をあげて下さい」と、明日香に言った。


「これから、亜梨明さんがたくさん楽しい学校生活を送れるようにしましょう!」

 明日香は泣きそうな顔を手で覆うと、「ありがとうございます……!」と、波多野先生に感謝した。


 *


 亜梨明が校長室のあった校舎を抜けて廊下に出ると、運動部の生徒が掛け声を上げてランニングや、筋トレをしている姿が見えた。


 錆びたトタン屋根の渡り廊下を歩いていると、向かいの校舎の窓から、誰かの笑い声も聞こえてくる。


 いろんな人達の楽しそうな声や、頑張る表情を見て、亜梨明は「わあぁ~!」と、笑顔になった。


「本当に学校に来たんだ……!」

 亜梨明は、ワインレッドのシフォンワンピースをなびかせながら、別の校舎に移動して、浮かれた足取りで階段を登っていった。


 三階まで登りきった亜梨明は、キョロキョロしながら自分のクラスを探す。


「――あ、あった!」

 一年一組の教室を見つけた亜梨明は、この教室でクラスメイトと共に勉強したり、会話をする自分を想像をした。


「(みんなと仲良くなれるかな……?勉強も……苦手だけど、ついていけるかな?でも、あ〜っ!楽しみっ‼︎)」

 亜梨明は、期待と不安に胸をドキドキとさせながら、更に探検を続けた。


 *


 二組と三組の教室を通り過ぎた亜梨明は、一番端の教室までやって来た。


「音楽室かぁ……」

 亜梨明は音楽室の中の様子を知りたくて、耳を澄ませた――人の気配はしない。


「鍵は……」

 亜梨明がドアに手を掛けると、鍵もかかっていなかった。


「は、入っちゃおうかな……」

 そーっとドアを開けて音楽室に入った亜梨明は、暖かい陽が差し込む音楽室を、目を細めながら眺めた。


「誰もいないし……少しだけならいいかな?」

 ピアノの前に移動した亜梨明は、ピアノの蓋を開けると、椅子に座り、人差し指で鍵盤を押した。


 ――ポーンと鳴る音は、誰もいない音楽室に綺麗に響いた。


「…………」

 亜梨明は両手を鍵盤の上に置き、足をペダルの上に乗せて一息吐くと、ピアノを弾き始めた。


 柔らかな日差しに照らされた音楽室に合う、ゆったりとした曲――。

 亜梨明の奏でる音楽は、音楽室だけでなく、校舎や校舎の外まで響き渡っていった。


「(誰もいない音楽室でピアノを弾くのって、なんか新鮮だな……)」

 亜梨明はピアノを弾いている時間が一番好きだった。


 言葉に表せない感情は、全てピアノが表現してくれる。

 嬉しい時も悲しい時もそうだった。

 親にも妹にも話せない自分の心を聞いてくれるのは、いつだってピアノと音楽だった。


 *


 ――その頃、一年一組の教室には松山緑依風がいた。


 図書室で借りた本を読み終えた緑依風は、本を返却してから帰ろうとしていたのだが、誰もいないはずの音楽室から、ピアノの音色が聴こえてきたため、不思議に思っていた。


「今日、合唱部は部活無いよね?」

 気になった緑依風は、その音楽の正体を知ろうと、音楽室に向かった。


 緑依風が音楽室のドアをそっと開くと、奏音と同じ顔をした少女が、ピアノを奏でていた。


 緑依風は一目見てすぐ、彼女が奏音の話していた双子の姉だとわかった。


 顔は奏音と同じだが、顔以外の亜梨明の容姿は、奏音と少しずつ違っていた。

 肩より短いボブヘアーの奏音に対し、亜梨明の髪の毛は胸元くらいまで伸びていて、ヘアピンも奏音とは逆の位置に付けている。


 そして、緑依風が奏音と特に違うと思ったのは、彼女の肌の色だった。

 奏音も色は白いほうだと思うが、亜梨明はそれをさらに上回り、透き通るような白さだ。


 彼女が奏音の姉なのか確かめたかった緑依風は、「あの……」と、亜梨明に声をかけた。


「ごめんなさい、あと少しだから……」

 亜梨明は視線を緑依風に移さぬまま謝ると、そのままピアノを弾き続けた。


 演奏の邪魔にならぬよう、緑依風は椅子に座って、彼女が弾き終えるのを待つことにした。

 亜梨明の奏でる音楽は、緑依風が聴いたことの無い曲だった。


「クラシック?なんだろ?でもすごく――」

 とても綺麗で切ないそのメロディは、緑依風の心をきゅっと締め付け、涙を誘った。


 でも、不快ではない。

 知らぬうちに心に溜めていた嫌な気持ちを、洗い流してくれる――そんな、癒される音楽だ。


 *


 演奏が終わると、亜梨明はおどおどした様子で、緑依風の目の前にやって来た。


「あ、あの……終わりました……。ピアノ、勝手に使ってすみません」

 無断で使用したことをまずいと思ったのか、申し訳なさそうな顔をした亜梨明の顔色は、少し青白い。


「それは、構わないと思うけど……」

 緑依風は、頭を下げたままの亜梨明に、「ねぇ、あなたもしかして、奏音の双子のお姉さん?」と、聞いた。


「妹のお友達ですか?」

 顔を上げた亜梨明は、キョトンとした顔で緑依風に言った。


「うん!私、同じクラスの松山緑依風」

 緑依風が自己紹介すると、亜梨明はパアッと明るい笑顔になった。


「わぁ〜!あなたが緑依風ちゃんか〜‼︎妹からお話聞いてた!可愛い名前だったからすぐ覚えたよ!」

 亜梨明は緑依風の手を握って、ピョンピョン飛び跳ねながら喜んだ。


「あ……あはは〜。褒められ慣れてないから、なんか恥ずかしい……」

 緑依風は照れるように笑いながら、握られた亜梨明の手が、とても冷たいことに少し驚いていた。


 日が暮れ始めたとはいえ、まだこの教室は温かい。


 どうしてこんなに冷たい手なのかと、緑依風が不思議に思っていると、「私、相楽亜梨明です!明日からよろしくね!」と、亜梨明はふんわりした笑顔で自己紹介をした。


「うん、よろしく!」

 緑依風が笑いかけると、亜梨明は更に嬉しそうな笑顔になった。


 手の冷たさとは大きく違い、ほわほわとした温かい笑顔の亜梨明に、緑依風はとても優しそうな子だと思った。


「あっ、さっきのピアノとってもよかった!私、音楽詳しくないけどクラシック?」

「あれは、私が作った曲なの……」

 緑依風の質問に、亜梨明は少し恥ずかしそうにしながら答えた。


「え、自分で作曲⁉︎すごい!亜梨明ちゃんピアノ得意なんだね!」

「得意っていうか……ピアノが大好きなの」

 亜梨明は愛おしそうな目で、斜め後ろにあるグランドピアノを見た。


「へぇ、そうなんだ!ピアノ習ってるの?」

「ううん、お父さんに教えてもらって、あとは独学。奏音は教室に通ってバイオリン習ってるよ」

「初めて聞いた!二人とも音楽姉妹なんだね」

「うん!」

「ところで亜梨明ちゃん、こんな時間に私服で来たってことは、もしかして学校見学?」

 緑依風が聞くと、亜梨明は「うーんと……」と言って、両手の指を合わせた。


「さっきお母さんと先生に挨拶に行ったら、先生が探検しておいでって言ったから、いろいろ見て回ってたの」

「そっか……あ!」

 緑依風は音楽室の時計を見て、声を上げた。


「大変、図書室に本返さなきゃ!……じゃ、明日また会おうね!」

 緑依風はドアを開けると、亜梨明に手を振った。


「うん、明日ね」

 亜梨明はにっこり笑い、緑依風に手を振り返した。


「私もそろそろ戻らなきゃ」

 ピアノの蓋を閉じた亜梨明も、緑依風に遅れて音楽室を後にした。


 *


 亜梨明が外に出ると、空はオレンジ色に染まっていた。


「ん~、せっかくだから、奏音の様子も見てから戻ろうかな?」

 亜梨明はバレー部に仮入部中の妹の姿を、こっそり見に行くことにした。


 体育館に近付くと、先輩が打ったボールを拾い集める奏音が見えた。

 亜梨明は、いつもと違う妹の姿に「ふふっ」と笑った。


 妹の勇姿を見て満足した亜梨明は、体育館から離れようとした――が、その時、何かが亜梨明の目の前を、ブーンという音を立てて、通過した。


「ひゃっ……!」

 驚いた亜梨明は、思わず身を縮めた。


 蜂の様な姿の虫は、羽音を立てながら、亜梨明の近くを行ったり来たりしている。


「(どうしよう……)」

 何の虫かわからないが、人を刺す毒虫なら下手に払い避けれないと、亜梨明は困惑したまま身動きが取れずにいた。


「(そっと避けていったら、刺されないよね……?)」

 亜梨明は虫から逃れるため、後ろにゆっくり下がろうとした。


 しかし、亜梨明が一歩後ろに下がった途端、足はすぐ後ろにあった段差にひっかかり、彼女の体は大きく揺れながらバランスを崩した。


「わ……わわ……っ‼︎」

 亜梨明がこけると思った瞬間、誰かが亜梨明の手と背中を支えて、倒れるのを防いでくれた。


「……っと!」

「…………?」

 ――亜梨明を助けてくれたのは、日下爽太だった。


 亜梨明が振り返ると、「大丈夫?」と、爽太が聞いた。


「あ……ありがとうございます」

 虫はいつの間にかどこかに消え去った様で、もう二人の近くにはいなかった。

 亜梨明がホッとしていると、亜梨明の鞄から携帯の着信音が鳴り響いた。


「わっ、お母さんかも!」

 亜梨明が慌てて電話に出ると、それはやっぱり母親の明日香で、なかなか戻らない亜梨明を心配していた。


 すぐに戻ると返事をした亜梨明の後ろでは、爽太が、体育館から外に出て行ったバレーボールを拾っていた。


「あの、さっきはありがとうございました!」

 母親との通話を終えた亜梨明は、爽太に駆け寄るとペコっと頭を下げた。


 爽太はボールを持ち直し、少し笑いながら「あー……さっきもお礼言ってくれたよ?」と、言った。


 見覚えのある顔が気になった爽太は、「もしかして、相楽さんのお姉さんの方?」と、聞いた。


「は、はい、相楽亜梨明っていいます!」

「日下爽太です。同じクラスだからこれからよろしく」

 爽太が優しい笑みを向けると「はい。明日から学校行くのでよろしくお願いします」と、亜梨明もつられて笑顔になった。


 母親を待たせていることを思い出した亜梨明は、「では、また」と、爽太にお辞儀をすると、急ぎ足でその場から去った。


「綺麗な子……って言ったら、男の子に失礼かな?でも、すごく肌の色白かったし、女の子かと思っちゃうくらい、綺麗な男の子だったな……」

 亜梨明はそう呟きながら、母親が待つ校門前に向かった。


 *


 去りゆく亜梨明の背中を見送った爽太は、足元に何かが落ちていることに気が付いた。


 爽太の靴のつま先部分に落ちていたのは、毛糸で作られたがま口のコインケースだった。


「相楽さんのかな?」

 爽太が、手のひらに収まるくらい、小さなそれを拾って、がま口を開いて中身を確認すると、中には数種類の薬が入っていた。


「これ……!」

 コインケースの中身を見た爽太は、驚愕のあまり息を呑んだ。

 何故なら、爽太はそれが何の薬で、どんな効果を持っているか、知っていたからだった。


「…………」

 中身を見つめた爽太は、コインケースのがま口を閉じて軽く握りしめた後、体操着のズボンのポケットに、それをしまった。


「爽太~、ボールは?」

「あ、うん……すぐ戻るね」

 風麻に返事をした爽太は、平然を装いながら体育館に戻っていった。


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