第2話 ちいさなおんがく


「――やだ!もう痛いのばっかりやだ‼︎」

 パジャマ姿の小さな男の子が、母親の手を振り切って走る。


「コラ、走っちゃダメでしょ!また苦しくなっちゃうわよ!」

「やーだー!」

 男の子は母親の言葉も聞かず、廊下を走って逃げていった。


「つかまえた!」

 看護師に先回りされた男の子は、そのまま抱きかかえられて病室に戻された。


「離せ!はーなーせー‼︎もう注射なんかしない!」

 母親と、もう一人の看護師に押さえられた男の子は、手足を必死に動かして、看護師から逃れようとしていた。


「しないといつまで経ってもおうち帰れないでしょ。大人しくしないと、またやり直しになっちゃうんだから……」

 母親はそう言って息子を宥めるが、男の子は暴れるのをやめなかった。


「しっかり押さえててくださいね!」

 看護師は、男の子の痣だらけの小さな手の甲に、半透明の点滴の針を刺した。


「……っ、ふ……う、うわぁぁぁん!」

 針が刺さった途端、男の子は大きな声で泣き始めた。


「はいはい、痛かったね……頑張った頑張った!」

 母親と看護師達は、痛みに耐えた男の子の頭を撫でながら慰めたが、男の子はしばらく母親にしがみつきながら泣き続けていた。


 *


 点滴に繋がれた男の子は、三十分程経ってようやく泣き止んだが、すっかり不機嫌になってしまい、ほっぺを膨らませながらベッドに横たわっていた。


「…………」

 男の子の母親は、ベッドの周りに落ちたおもちゃを拾い、洗濯するパジャマやタオルを鞄に入れると、息子の顔を覗き込んだ。


「お母さん、これからおばあちゃんにお洗濯預けてくるからね。それから、ひなちゃんにも会ってくるから少し遅くなるけど、看護師さんの言うことちゃんと聞いて、いい子で大人しくして待っててね」

 母親の言葉に、男の子は更に不機嫌な顔になった。


「いいよ!いけば?お母さんもひなも大っ嫌い!」

 男の子は声を荒げて母親から顔を背けた。


「コラ!またそんなこと言って!」

 母親は一瞬怒ったが、息子が寂しさからそういう言葉が出ることをわかっていた。


「なるべく早く帰るからね」

 母親は、男の子の膨れたほっぺたをツンっと、指で軽く押して、病室を出て行った。


「…………」

 パタパタパタと、母親の足音が遠のくのを聞いた男の子の目から、つぅっと、涙がこぼれた。


 ――本当に行っちゃった……。

 男の子は、自分以外誰もいない病室のベッドで、枕に顔を押し付けて静かに泣いた。


 *


 寂しくて泣いていた男の子だったが、しばらく泣いてるうちに、今度は放っておかれたことに腹が立ち始めた。


 男の子は、子供用ベッドの柵を外すと、床にそっと足を付けて、ベッドから降りた。


「ふんだ、いうことなんか聞くもんか!」

 男の子は静かにドアを開けて、周りに誰もいないことを確認すると、にんまりと笑って病室を抜け出した。


 病室を脱出することに成功した男の子は、点滴を押しながら病棟内を散歩し始めた。


 いろんな窓から外の景色を見るのが好きな男の子が、ふと窓際に目をやると、白くて大きな影が見えた。


「おぉっ、大きな鳥が飛んでる!」

 男の子は、背伸びをして窓の淵に掴まりながら空を眺めた。


 *


 鳥の姿を見送った男の子は、看護師の姿を気にしながら再び歩き始めた。


「(どこに行こうかなぁ〜……あっ)」

 プレイルームの前を通ると、同じ年頃の子供たちが、積み木やおもちゃで遊んでいた。


 プレイルームの窓から、男の子の姿に気付いた子達が、男の子を嫌がる目で見た。


 男の子は、少し前までは他の子供達と同じ病室で過ごし、このプレイルームでみんなと遊んでいたのだが、治療や様々なストレスから苛立つ気持ちを、同室の子供達にぶつけてしまい、それが元となって個室へ移され、プレイルームに行っても、誰も遊んでくれなくなってしまった。


 最も、近頃はそれすらも出来ないくらい、体調の悪い日が続いていたので、この場所に来ることは久しぶりだった。


「…………」

 自業自得だというのに、この時の男の子は、自分が悪いだなんてこれっぽっちも思っていなかったため、元ルームメイト達を見て、面白くない気持ちになった。


 ムスッとしながらプレイルームを見渡すと、見慣れぬ女の子が一人、他の子と遊ばずにピアノを弾いていた。


「(あの子、仲間はずれかな?)」

 男の子は、他の子から離れた場所で、ピアノを弾き続ける女の子の横顔が寂しそうに見えた。


「(ちょうどいいや、退屈だったし、あの子をからかって遊ぼう!)」

 先程から不機嫌だった男の子は、憂さ晴らしの為に、女の子にちょっかいを掛けることにした。


「ねぇ、きみも仲間はずれ?」

「…………」

 男の子は意地悪な笑顔で女の子に声を掛けたが、女の子は振り向きもせずピアノを弾いている。


「きこえてるだろ、無視すんなよ!」

「…………」

 大きな声で呼びかけても、女の子は相変わらずピアノを弾き続けている。


 頭に来た男の子は、鍵盤を乱暴に叩いた。


 バーン‼︎と、大きな音がプレイルームに響くと、女の子はびっくりした様子で、ようやく男の子の方に振り向いた。


 どうやら今やっと、男の子の存在に気付いたらしい。


 ――さぁ、泣け泣け!

 怒りの頂点に達してた男の子は、そんな酷いことを考えていた。


 ところが、女の子は「あなたもピアノ弾きたいの?」と、男の子のしたことに、泣くことも怒ることもなく聞いてきた。


「え?」

 男の子はキョトンとした顔で何も返せずにいた。


「ずっと使っててごめんなさい、みんなのピアノだもんね」

 女の子は椅子から降りると、ピアノに両手を向けて「どうぞ」と言った。


「いや、ぼく……ピアノ弾けないから」

「そうなの?」

 男の子はふと、女の子の左手を見た。


 手の甲には、管は繋がれていないものの、点滴の針が刺さったままで、その針が抜けたりずれないように、包帯でぐるぐる巻きにされている。


 自分と同じような状態の女の子を見て、男の子は「……ねぇ、それ痛くない?」と、聞いた。


「これ?だって、点滴しないとよくならないって、先生が言うんだもん」

 女の子は自分の手を見ながらそう話した。


「……でも、わたし痛いのこわくて、いつもお母さんに手を握ってもらってるんだ」

 照れながら言う女の子に、男の子は「ぼくはこわくないよ!」と、嘘をついた。


「ぼくは強いから、点滴の針なんかぜーんぜんっこわくないんだ!」

「わぁ〜、すごい!えらいね!」

 女の子は何の疑いもせず、偉そうな口調の男の子に、尊敬の眼差しを向けた。


「…………」

 大きな目をキラキラと輝かせて見つめる、女の子の視線が辛くなった男の子は、表情を曇らせると、「ごめん、うそだよ……」と言った。


「本当は痛いのこわくて……さっきも逃げたんだ」

 男の子が正直に話すと、女の子は何も言わずにっこり笑った。


「じゃましてごめん……ぼく部屋にかえるよ」

 嘘をついた恥ずかしさで、居たたまれない気持ちになった男の子は、目を赤くして女の子に背中を向けた。


 男の子がプレイルームを出ようとした時「あ……、まって!」と、女の子が呼び止めた。


「あのねっ!かえる前に、わたしのピアノきいてくれる?」

「ピアノ?」

「うん、きいてほしいの!」

 女の子がキュッと、胸元で両手を握りながら言うと、男の子は「わかった……」と言って、ピアノ前に立った。


 女の子は目を細めて微笑むと、椅子に座り、一息を吐いてからピアノを弾き始めた。


 ――女の子の弾く曲は、男の子が聴いたことのない音楽だった。


 小さな手で奏でられるその音楽に、男の子は耳を傾けて聴き入った。

 軽やかで可愛らしいのに、少し切なくも感じるその曲は、男の子のささくれて苦しくなった心にスッと染み込み、癒してくれた。


 *


 曲はとても短くて、すぐに終わってしまった。


 男の子が、女の子の音楽に魅了されてぼんやりしていると、女の子は椅子から降りて、男の子にぺこりとお辞儀をした。


「きいてくれてありがとう!」

 女の子は頭を上げると、明るい笑顔で男の子にお礼を言った。


「これ……なんの曲?」

「これは、わたしがつくった曲なの!」

 女の子は照れるように笑い、モジモジとした。


「どうだった?変……かな?」

 少し自信なさげに聞く女の子に、男の子は「ううん」と、首を横に振った。


「すごく……すごくいいと思う!」

 男の子が力強い声で感想を伝えると、女の子は「本当⁉」と、パアッっと嬉しそうな笑顔で男の子に聞いた。


「うん!ねぇ、もういっかい――?」

 男の子がアンコールを頼もうとすると、おもちゃで遊んでいた子供達が、ピアノの前に集まってきた。


「すごいすごい!」

「きれいなきょくだったよ!」

 どうやら他の子供達も、女の子の演奏を聴いて、とても感動したらしい。


 男の子が咄嗟にとられていると、「あ、探したのよ!勝手に部屋を出ちゃダメでしょ!」と、男の子の担当看護師がプレイルームに入ってきた。


「まって!もういっかいだけ……!」

 男の子が、囲まれている女の子に手を伸ばすと、女の子の担当看護師も迎えに来たようで、「さぁ、そろそろお部屋に帰りましょうか」と、女の子の手を繋いだ。


 女の子は返事をすると、男の子に小さく「バイバイ」と、笑顔で手を振った。


 男の子が手を振り返す前に、女の子の姿が白い霧の中に消えていった。


 *


 ――爽太がゆっくり目を開くと、自分の部屋の天井が目に映った。


「ん……」

 ぼんやりしたまま、そばに置いてある目覚まし時計に手を伸ばすと、時計の針は、起床予定時刻よりも手前の位置を指している。


「…………」

 幼い頃の夢を見た気がした爽太は、目を閉じて、もう一度その夢を思い出そうとした。


 さっきまで、女の子の顔がしっかりわかっていたはずなのに、今はもうわからないことを残念に思った。


 爽太は胸に手を当てて、自分の心音を確かめた。


 鼓動は乱れることなく、規則正しく動いている。


「よし、今日も元気だ」

 爽太はベッドから降りると、制服に着替えて部屋を出た。


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