第4話

「ふぅ……食べた食べた」

 メルは満足そうに呟いて、食べ物でいっぱいに膨らんだお腹をさすった。

「いやぁ、本当に一人で食べきってしまうとは。無理そうなら私も一緒に食べてあげようと思ってたのに」

 驚き半分、呆れ半分といった表情で青年は言う。その顔を照らすのは料理のついでに現れたロウソクの火だ。

「学者さんは食べなくてよかったの?」

「ああ、私の分は別にあるからね」

 そう答えて、青年は広げた巻物を巻き取っていく。そうすると、空になった皿が溶けるように消えていく。テーブル代わりだった石の板の上には、今は数本のロウソクだけが残っている。

 風に揺られるロウソクの火を見て何を思ったか、急にメルは立ち上がった。

「ロウソク、借りていいかな?」

「いいけど、どうしてだい?」

 日没間際の薄暗い草原を見回して、遠い目をしたままメルは答えた。

「ちょっと、散歩したい気分かなって」



 空には星が瞬く。

 吹き抜ける風は冷たさを増し、草は変わらずザァザァと擦れ合う。

 今日の月は三日月で、太陽を追ってもう間もなく沈んでいくだろう。そうすればあとは星だけが光る静かな夜だ。

 メルはロウソクを手に、草原の中を歩いていく。今頭の中にあるのはたった一つのことだけ。それを確かなものにすべく、歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まって、メルは欠片を組み上げていく――。



「やあ、散歩は満喫したかい?」

 何をするでもなくただ待っていたのだろう青年の元に、散歩を終えたメルが戻ってきた。

「うん。もう十分」

「そうか。それじゃあ登ろうか」

 青年が指し示すのは、小さな四角い丘。

「そうだね。登ろう」


 その丘は高さとしては大したことはなかった。とはいえ、辺りを一望するには十分な高さだ。

 丘に登ると青年はおもむろに腰を下ろし、眼下に広がる草原を見下ろした。

 その隣に、少し間を開けてメルも座り込む。そして、互いに視線を合わせないまま、メルは尋ねた。

「あなたは、何?」

 質問に青年は思わず苦笑し、降参だとでも言うように片手を挙げて答えた。

「まったく勘がいいね、君は。……君の見立て通り、私は人間じゃない。私は、かつてこの地に生きていた人間の残滓、その寄せ集めってところさ」

「ふうん。……食べ物は本物だったみたいだけど?」

「ああ、僕の中には本物の魔法使いも混じっててね。あの宴会広場でなら、ああいうこともできるんだよ」

「そっか」

 二人の間に静寂が訪れる。

 今度は青年が口を開いた。

「これは君も知ってることだろうけど、この世界にあるものは、見られることで見えるようになるし、さわられることでれられるようになるんだ。だから、誰からも忘れられたものは、無くなってしまう」

 夜風が吹き抜ける。

 メルは無言のまま頷いて、先を促す。

「一度終わりを迎えた身だからね。生き返りたいとは思わないし、それは許されないことだ。だけど、せめて記憶の中でだけは、もう少し生きていたいんだ。生きたことも死んだことも、何もかも消えてしまうのは、少しつらくてね。だから……お願いだ、メル。今日のことを、ずっと覚えていてくれないかな」

 すがりつくような青年の言葉に、メルは静かに首を横に振った。

 銀細工のような美しいメルの髪が、夜風になびく。


「ところでさ、歌を作ったんだけど聴いてくれる?」


 言葉は唐突だった。

「え、歌?」

 間の抜けた声で青年が聞き返す。

「そう、歌。さっき作ったんだ」

「あ、ああ。聴くだけなら構わないけど……」

 突然のことに困惑する青年をよそに、メルは一人立ち上がり、眼下の草原目掛けて歌声を響かせ始めた。

 夜風と共に響き渡るのは、鈴の音のような高く透き通った繊細な声。声は高く軽やかに響いたかと思うと、低く囁くような声になり、やがて軽快なリズムを刻み始める。青年はその響きに覚えがあった。

 これは石畳の上を行く車輪の音だ――。


 行き交う車輪と蹄の音。

 飛び交う掛け声に賑わう通り。

 やがてにわかにあわただしくなる街の空気。緊張感を保ったまま街は静かになり――歓声と拍手。

 陽気な鼻歌と談笑と、踊り出す人々の宴。街が眠りにつくのはいつも夜が更けてからだった。


 そして、一日中音に溢れていた街は静寂に満ちた夜明け前を迎える。

 月は沈み太陽はまだ昇らない、空の縁がかすかに白み始めた、誰も知らない夜明けの時。

 肌寒いくらいの冷たい風が一陣、熱狂の残滓を残した温い空気を拭い去っていく。

 静かな、本当に静かな時だ。

 音という音は夜空に吸い込まれて消え、眼下にはただ立ち並ぶ街並みだけがある。夜更けまでは人で溢れていた広場も、今では嘘のように空っぽだ。


 音もなく、街は眠り続ける。その姿を撫でるように、視線が街の隅から隅までを見渡していく。眠りについた我が子を見守るように、あばら家の一つ、石ころの一つまでをも眺め、愛でる。

 そして、夜明けが訪れる。


 空は半分以上が青さを取り戻し、街が少しずつ色を取り戻す。

 東の空が火のように燃え始め、雄鶏が夜の終わりを告げる。

 光が、太陽が、わだかまった闇を蹴散らすように――。


 そこには、ただただ見渡す限りの草原が広がっていた。


 石畳の道も、立ち並ぶ家々も、人で賑わった劇場も広場も、もうここにはない。

 それは遠い昔の夢。

 かつてここにあった街の、在りし日の姿。

 今では跡形もなく消え去った、誰も知らない御伽噺。



 見えていたものがメルの歌によって呼び起こされた自分自身の記憶だと彼が気付いたのは、歌が終わり、心配そうに見つめてくるメルの目を見てからだった。

「……ああ、まったく余計な心配だったな」

 独り、青年は呟いていた。

「えーっと……どう、だったかな?」

「ああ、とても良い歌だった。ありがとう」

 青年が笑って答えると、メルは恥ずかしそうに笑った。

「よかったぁ。喜んでもらえて」

「ああ、これで私も安心して消えることができる」

 すると、メルは驚いたように固まった。

「……やっぱり、消えるんだ」

 青年は、もう一度笑ってみせる。

「その歌さえあれば、もう私の出番はないさ。ここが分からなくとも、この世界のどこかに人知れず忘れられた都市があることを、歌を聴いた誰かが覚えていてくれる。それで私は十分だ」

「本当に?」

「本当さ。これほどまでに私を――私たちを歌い上げてくれたんだ。思い残すことはない」

 答えて、青年は眼下の草原、かつて都市の存在したその場所を眺める。

「じゃあ最後に。この歌の題名って、何がいいかな?」

「そうだね……リスィ、というのはどうだい?」

「リスィ、か。いい響き」


 やがて、青年は目を閉じる。

「メル、もう一度、歌ってくれるかい?」

「じゃあ今日は特別に、アンコールにお応えしようかな」

 夜風が吹き、歌声が響き渡る。

 傍らの青年がやがて消え、聴く者がいなくなっても、メルは最後まで歌い続けた。眼下に広がる草原に向かって。

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